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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第6話 寝ぼけた妻は反則です

 俺は、人生で初めて「呼吸とは意識すると難しいものだ」と知った。


 普段は勝手に吸って、勝手に吐いている。


 それが今は違う。


 吸いすぎると隣の凛音に気づかれそうで、吐きすぎると寝たふりが崩れそうで、かといって止めると本当に苦しくなる。


 結果、俺は夜の布団の中で、世界一ぎこちない呼吸をしていた。


 理由は簡単だ。


 氷室凛音が、俺の布団の中にいる。


 いや、正確に言えば、俺の布団に潜り込んできて、俺の袖をぎゅっと掴んだまま眠りかけている。


 数時間前まで停電を怖がり、「これは緊急時だから」と俺の手を握っていた彼女が。


 今度は寝ぼけたまま、俺の部屋に来てしまった。


 どういう連続攻撃だ。


 俺の心臓にも耐久値というものがある。


「……高坂くん」


 凛音が、ほとんど眠った声で俺を呼んだ。


 俺は目を閉じたまま、返事をしなかった。


 返事をしたら終わる。


 起きているとバレる。


 でも、返事をしなかったらしなかったで、凛音が不安がるかもしれない。


 どうする。


 どうすれば正解なんだ。


 俺が内心で緊急会議を開いている間に、凛音は俺の袖をまた少し強く握った。


「……いる」


 安心したような声。


「よかった」


 その一言で、俺は動けなくなった。


 ずるい。


 これはずるい。


 昼間はあんなに冷静で、ルールだの契約だの言っているくせに、寝ぼけるとこんなに無防備になるのは反則だ。


 いや、反則どころではない。


 これは競技そのものを破壊している。


 俺は心の中で、必死に唱えた。


 落ち着け。


 相手は寝ぼけている。


 これは事故だ。


 停電のあとで不安になって、半分眠ったまま来てしまっただけだ。


 だから俺は何もしない。


 動かない。


 起こさない。


 余計なことを言わない。


 朝になったら全部なかったことにする。


 そう決めた瞬間、凛音がさらに近づいてきた。


「……落ち着く」


 小さな声。


 そのあと、彼女の額が俺の肩のあたりにそっと触れた。


 俺の理性が、悲鳴を上げた。


 今までの人生で、勉強にも部活にもそれなりに真面目に取り組んできた。


 家事だって一通りできる。


 父さんの無茶振りにも、町内会の司会にも耐えた。


 だがこれは無理だ。


 難易度が違う。


 全国模試ではなく、いきなり宇宙飛行士の試験を受けさせられている気分だ。


「……今日」


 凛音が、眠りの底に沈みかけた声で続ける。


「手、あったかかった」


 俺は目を閉じたまま、心臓だけで返事をした。


 たぶん、うるさすぎて返事になっていたと思う。


「暗いの……こわくなかった」


 言葉が途切れ途切れになる。


「高坂くんが、いたから」


 やめてくれ。


 そんなことを言われたら、俺は何もなかったことにできなくなる。


 今までなら、凛音が夜に何を言っても「寝ていると思って言っている独り言」として処理できた。


 苦しいけれど、まだ距離があった。


 でも今は違う。


 同じ布団の中で、彼女は俺の袖を掴んでいる。


 俺のすぐ隣で、安心しきった声を出している。


 こんなの、忘れられるわけがない。


「……好き」


 凛音が呟いた。


 俺の呼吸が止まりかけた。


 だが、すぐに続きが来た。


「……いちごジャム」


 俺は心の中で盛大に転んだ。


 いちごジャムか。


 いや、いちごジャムの話か。


 なんでこの流れでいちごジャムなんだ。


「あと……卵サンド」


 寝言だった。


 完全に寝言だった。


 俺は少しだけ力が抜けた。


 でも、安心したのも一瞬だった。


「……高坂くんも」


 凛音の声がまた小さくなる。


「好き」


 今度は、続きがなかった。


 俺は目を閉じたまま、天井を見たような気持ちになった。


 見ていないのに。


 真っ暗なのに。


 この世には、目を閉じていても逃げられないものがあるらしい。


 俺は凛音の寝息が穏やかになるまで、ひたすら動かなかった。


 やがて彼女は本当に眠った。


 袖を掴む力が少し緩み、肩に触れていた額が小さく揺れる。


 俺はそっと息を吐いた。


 ここで動けば起こしてしまうかもしれない。


 でも、このまま朝まで同じ布団にいるのは、さすがにまずい。


 彼女が目覚めたとき、どう説明するのか。


 というか、俺が説明できない。


 俺が連れ込んだわけではない。


 むしろ来たのは凛音だ。


 しかし本人が覚えていなかった場合、状況だけ見れば完全に俺が怪しい。


 終わる。


 社会的に終わる。


 契約同棲どころではない。


 高坂悠真、開始数日で信用を失う。


 それだけは避けなければならない。


「……氷室さん」


 俺は、ほとんど息だけで呼んだ。


 返事はない。


「氷室さん、部屋戻れる?」


 やはり返事はない。


 完全に寝ている。


 俺はしばらく迷った。


 起こすべきか。


 でも、起こしたら彼女は確実に混乱する。


 それどころか、自分で来たことに気づいて消えたくなるかもしれない。


 だったら、せめて布団を分けるしかない。


 俺は慎重に、慎重に体をずらした。


 凛音の手が袖から離れる。


 その瞬間、彼女が少し眉を寄せた。


 まずい。


 起きる。


 俺は反射的に自分の上掛けを半分彼女にかけ直した。


 そして、俺自身はベッドの端で固まった。


 これなら距離はある。


 いや、同じベッドにいる時点で距離も何もないが、少なくとも密着はしていない。


 凛音は布団を掴み、安心したように小さく息を吐いた。


「……高坂くん」


 また呼ばれた。


 俺は返事をしない。


「……ありがと」


 寝言なのか、さっきの続きなのかわからない。


 でも、その声はやけに胸に残った。


 結局、その夜。


 俺はほとんど眠れなかった。


     ◇


 朝。


 鳥の声で目を覚ました。


 いや、正確には、目を覚ましたというより、ほぼ起き続けていた。


 部屋は薄く明るい。


 カーテンの隙間から朝日が入っている。


 そして。


 凛音がいない。


「……あれ?」


 俺は上体を起こした。


 ベッドの横を見ても、部屋の隅を見ても、凛音の姿はない。


 昨夜、彼女がいた場所には、布団が少し乱れているだけだった。


 夢だったのか。


 そう思いかけて、俺は自分の制服の袖を見た。


 昨日着替える前に脱いだ上着が椅子にかかっている。


 その袖のあたりが、わずかにしわになっていた。


 夢ではない。


 凛音は確かに来た。


 俺の袖を掴んだ。


 同じ布団に入ってきた。


 そして、朝になる前に自分の部屋へ戻ったらしい。


 覚えているのか。


 覚えていないのか。


 そこが問題だ。


 俺は顔を洗い、制服に着替え、いつもより慎重にリビングへ向かった。


 ドアを開けると、朝食の匂いがした。


 トースト。


 卵。


 コーヒー。


 そして、キッチンに立つ凛音。


 いつも通り、背筋が伸びている。


 髪も綺麗に整えられている。


 制服のリボンも曲がっていない。


 氷室凛音は、完全に通常運転だった。


「おはよう」


 俺が言うと、凛音は振り返った。


「おはよう、高坂くん」


 声も普通。


 表情も普通。


 少なくとも、昨夜のことを覚えている顔ではない。


「よく眠れた?」


 聞かれて、俺はパンを焼くトースターの方を見た。


 それを俺に聞くのか。


「まあ……それなりに」


「そう」


「氷室さんは?」


「普通」


「普通」


「ええ」


 普通ではなかった。


 少なくとも、俺視点ではまったく普通ではない。


 けれど、凛音は平然とサラダを皿に盛っている。


 これは本当に覚えていないのかもしれない。


 いや、もしかしたら覚えているけれど隠しているのか。


 どちらだ。


 どちらにしても、俺からは聞けない。


「あの」


 凛音が言った。


「なに?」


「今日の朝食、卵サンドにしたけれど」


「うん」


「……嫌?」


「嫌じゃない。むしろ嬉しい」


「そう」


 凛音は視線を落とした。


 いつもの無表情。


 だが、昨日より少し柔らかい。


「よかった」


 その声を聞いて、俺は昨夜の寝言を思い出した。


 好き。


 いちごジャム。


 卵サンド。


 高坂くんも好き。


 だめだ。


 思い出すだけで心臓に悪い。


 俺は椅子に座った。


 テーブルには卵サンドが置かれている。


 白い皿に綺麗に並べられたそれは、昨日よりも少し多かった。


「また余ったの?」


 俺が聞くと、凛音の手が止まった。


「……余った」


「そっか」


「昨日より、少しだけ多く余った」


「それはもう余ったというより、予定通りでは」


「違う」


「違うか」


「偶然」


「偶然なら仕方ない」


 俺がそう言うと、凛音はほんの少しだけ安心したように見えた。


 朝食は穏やかだった。


 ただし、俺の内心だけは穏やかではない。


 凛音が卵サンドを口に運ぶたび、昨夜の寝言が頭をよぎる。


 凛音がコーヒーを飲むたび、あの距離を思い出す。


 凛音が「高坂くん」と呼ぶたび、耳元で聞いた眠たげな声が蘇る。


 つらい。


 甘すぎてつらい。


 人間、甘いものでも食べすぎると苦しくなるらしい。


 しかもこの場合、俺は何も食べていないのに胸やけしそうだった。


「高坂くん」


「はい」


「顔が赤い」


 俺は危うくコーヒーをこぼしかけた。


「え? いや、そんなことないだろ」


「ある」


「部屋が暖かいんじゃないか?」


「冷房をつけるほどではないけれど、今朝は涼しい」


「じゃあ、卵サンドが美味しすぎて」


「それは理由になるの?」


「なる。美味しいものは体温を上げる」


「初めて聞いた」


「俺も今初めて言った」


 凛音がじっと俺を見る。


 疑っている。


 まずい。


 俺は水を飲んだ。


「高坂くん」


「なに?」


「昨日、ちゃんと眠れた?」


 再び聞かれた。


 今度は少しだけ声が違った。


 完全に事務的ではない。


 心配しているような、探っているような。


 俺は慎重に答えた。


「少し寝不足かもしれない」


「どうして?」


「停電で、ちょっと目が冴えた」


「……そう」


「氷室さんは大丈夫だった?」


「私は」


 凛音は言いかけて、少しだけ考えた。


「停電のあとは、よく覚えていない」


 俺の心臓が静かに跳ねた。


 覚えていない。


 やっぱりか。


「気づいたら朝だった」


「そっか」


「でも」


「でも?」


「夢を見た気がする」


 俺は動きを止めた。


「どんな?」


「……暗いところにいたけど」


 凛音は卵サンドを見つめたまま言う。


「誰かが近くにいて、安心した夢」


 俺は何も言えなかった。


 それは夢ではない。


 現実だ。


 でも、言えない。


「いい夢だったのか?」


 かろうじて聞くと、凛音は小さく頷いた。


「たぶん」


「そっか」


「……だから、寝不足ではないと思う」


「ならよかった」


 凛音はそれ以上、夢の話をしなかった。


 俺も聞かなかった。


 聞けなかった。


     ◇


 学校に着くと、いつもの日常が戻っていた。


 凛音とは時間をずらして家を出た。


 廊下ですれ違っても、軽く会釈するだけ。


 クラスでは佐野が朝から騒いでいる。


「高坂、今日も眠そうだな」


「そうか?」


「昨日よりひどいぞ。目が完全に徹夜明け」


「ちょっと停電があって」


「停電? ああ、昨日うちの方も一瞬消えたわ。で、それで眠れなかったのか?」


「まあ、そんな感じ」


「小学生かよ」


「うるさい」


 佐野は笑っていたが、俺は笑えなかった。


 停電そのものより、そのあとが問題だったのだ。


 昼休み。


 俺は購買へ向かおうとしたが、鞄の中に小さな包みを見つけて固まった。


 いつの間に。


 包みを開けると、卵サンドが入っていた。


 朝食と同じもの。


 いや、朝より少しだけ形が綺麗だった。


 メモが一枚ついている。


『作りすぎたので。残してもいいです』


 残すわけがない。


 俺はそのメモを見つめ、思わず笑ってしまった。


 すると、後ろから佐野が覗き込んできた。


「何それ」


「昼飯」


「手作り?」


「たまたま余ったやつ」


「誰の?」


「……親戚」


「親戚が学校の鞄に卵サンドを入れてくれるのか。高坂家、親戚づきあい濃いな」


「まあな」


「嘘下手すぎるだろ」


 佐野がにやにやしている。


 俺は無視して卵サンドを食べた。


 美味しい。


 悔しいくらい美味しい。


 そして、食べながら凛音の顔を思い出してしまう。


 作りすぎた。


 余っただけ。


 偶然。


 彼女の言い訳は、もう全部かわいい。


「高坂」


「なんだよ」


「お前、好きな人できた?」


 俺はむせた。


「ごほっ……なんでだよ」


「いや、顔がさ」


「顔?」


「なんか幸せそうでむかつく」


「むかつくってなんだ」


「青春してる顔してる」


「してない」


「してる」


「してない」


「まあいいけど」


 佐野はそこで少し声を落とした。


「でも、気をつけろよ。最近、氷室さんと話してたの見られてるっぽいし」


 俺の手が止まった。


「見られてる?」


「昨日、財布届けてもらってただろ。あれ、けっこう噂になってる」


「マジか」


「マジ。氷室さんって、男子に自分から話しかけることほぼないからな」


「ただの忘れ物だよ」


「でもサンドイッチも落ちた」


「忘れ物にたまたま」


「たまたまサンドイッチが?」


「そう」


「無理あるって」


 自分でもそう思う。


 だが、説明できないものは説明できない。


 午後の授業が終わり、放課後。


 廊下を歩いていると、前方に凛音がいた。


 女子生徒二人と話している。


 そのうち一人が、たしか隣のクラスの女子だった。


 俺は距離を取ろうとした。


 学校では必要以上に親しくしない。


 そういうルールだ。


 だから、俺はそのまま通り過ぎようとした。


 しかし、その女子が俺に気づいた。


「あ、高坂くん」


 名前を呼ばれた。


 凛音の肩が、ほんの少し跳ねた。


 俺は足を止める。


「なに?」


 女子は楽しそうな顔で、凛音と俺を交互に見た。


「ねえ、ちょっと聞いていい?」


「内容による」


「氷室さんと高坂くんって、最近なんか距離近くない?」


 廊下の空気が止まった気がした。


 凛音は無表情。


 でも、指先が制服の袖をきゅっと掴んでいる。


 俺はできるだけ普通に笑った。


「気のせいじゃない?」


「そうかなあ。昨日も話してたし」


「忘れ物届けてもらっただけ」


「へえ」


 女子はにやにやする。


 そして、爆弾を落とした。


「ねえ氷室さん、高坂くんと付き合ってるの?」


 その瞬間。


 凛音の横顔が、見たことのないくらい固まった。

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