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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第5話 停電とゼロ距離

暗闇の中で、人は意外と冷静になれない。


 少なくとも俺は、今まったく冷静ではなかった。


 停電。


 雷。


 真っ暗なリビング。


 そして、俺の腕にしがみついている氷室凛音。


 情報量が多すぎる。


「氷室さん」


「……動かないで」


 凛音の声は、いつもよりずっと近かった。


 というか、近いなんてものじゃない。


 肩が触れている。


 腕も掴まれている。


 彼女の髪が、俺の制服の袖にさらりと触れている。


 さっきまで「夫婦っぽいことは禁止です」と真顔で言っていた本人が、今は俺にしがみついている。


 しかも、その理由が可愛い。


 暗いのが怖い。


 本人は絶対に認めないだろうけど。


「大丈夫。たぶん停電だ」


「わかってる」


「じゃあ、落ち着いて」


「落ち着いてる」


「俺の袖、めちゃくちゃ握ってるけど」


「これは、逃走防止」


「俺、逃げないよ」


「念のため」


 凛音の指にさらに力が入った。


 逃走防止というより、完全に命綱だった。


 俺は暗闇に目を慣らそうとした。


 カーテンの隙間から外の薄明かりが入っているが、部屋の中をはっきり見るには足りない。窓の向こうでは、遠くのマンションの一部も明かりが消えている。


 たぶん、この辺り一帯の停電だ。


「スマホ、持ってる?」


「テーブルの上」


「俺のも部屋だな……」


「役に立たない」


「正論だけど、今それ言う?」


「言わないと怖い」


「怖いって言った」


「言ってない」


「今、はっきり」


「聞き間違い」


「暗闇って耳も悪くなるのか?」


「なる」


 ならない。


 でも、凛音があまりに真剣な声で言うので、俺は笑いそうになった。


 笑ったら怒られる。


 いや、怒られるだけならまだいい。


 この状況で笑ったら、彼女はたぶん恥ずかしさで俺の袖を引きちぎる。


「とりあえず、スマホ取ろう。ライトつければ少しは見える」


「……動くの?」


「動かないと取れないだろ」


「でも」


「大丈夫。ゆっくり行くから」


「……置いていかない?」


 その声が、あまりにも小さかった。


 いつもの凛音なら絶対に言わないような言葉。


 だから俺は、からかったりできなかった。


「置いていかない」


 できるだけ穏やかに言う。


「約束する」


 暗闇の中で、凛音が小さく息を吸ったのがわかった。


「……なら、いい」


 袖を掴んでいた手が、少しだけ緩む。


 けれど離れはしない。


 俺はそのまま、ゆっくりと立ち上がった。


 凛音も一緒に立つ。


 距離が近い。


 近すぎる。


 暗いせいで視界が悪いのに、彼女の存在だけはやけにはっきり感じる。


 体温。


 髪の匂い。


 呼吸。


 こういうのは反則だと思う。


 いや、そもそも今は緊急時だ。


 ルール上、これは例外。


 例外なのだけれど、例外だからといって心臓が大人しくなるわけではない。


「テーブル、こっちだったよな」


「たぶん」


「たぶん?」


「暗いと、距離感が少し」


「苦手なんだな」


「苦手ではない」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


 俺は足元に気をつけながら、一歩ずつ進んだ。


 凛音は俺の袖を掴んだまま、ぴったりついてくる。


 途中でテーブルの角に足をぶつけそうになり、俺は反射的に止まった。


 そのせいで、凛音が背中に軽くぶつかる。


「ごめん」


「……急に止まらないで」


「テーブルがあった」


「テーブルにも注意して」


「テーブルは悪くないだろ」


「暗闇に紛れるのが悪い」


「家具への当たりが強いな」


 凛音は黙った。


 たぶん、怖さをごまかすために無茶なことを言っている。


 そう思うと、また少し笑いそうになった。


 手を伸ばしてテーブルを探る。


 指先に紙が触れた。


 さっきの同居契約ルールだ。


 さらに探ると、スマホらしき硬いものがあった。


「あった」


「ライト、つけて」


「ちょっと待って。ロック解除して……」


 画面が点く。


 白い光が暗闇を裂いた。


 その瞬間、凛音がわずかに身をすくめた。


「大丈夫?」


「急に明るくなっただけ」


「ごめん」


「謝らなくていい」


 スマホのライトをつけると、リビングの輪郭がようやく見えた。


 ソファ。


 テーブル。


 キッチン。


 床に落ちたペン。


 そして、俺の袖を握っている凛音の手。


 細い指が、制服の布をぎゅっと掴んでいる。


 その手を見た瞬間、俺はなぜか胸が締めつけられた。


 怖いなら怖いと言えばいいのに。


 でも、言えないんだろう。


 氷の令嬢でいることに慣れすぎた彼女は、弱さの出し方が下手なのかもしれない。


「懐中電灯とかある?」


「玄関横の収納に、防災用のがある」


「そこまで行こう」


「……行くの?」


「スマホの電池も減るし、あった方が安心だろ」


「合理的ね」


「だろ?」


「でも、道のりが長い」


「リビングから玄関までだぞ」


「暗闇では、遠征」


「言い方が壮大すぎる」


 凛音は真面目な顔をしていた。


 俺はもう我慢できず、少し笑った。


 凛音がこちらを見上げる。


「何がおかしいの」


「いや、氷室さんにも苦手なものがあるんだなと思って」


「苦手ではない」


「そういうことにしておく」


「高坂くん」


「はい」


「今のは、かなり失礼」


「ごめん。でも、ちょっと安心した」


「安心?」


「学校だと、氷室さんって何でも一人でできそうに見えるから」


 言ったあと、俺はスマホのライトを少し下に向けた。


「でも、こういうときにちゃんと頼ってくれるなら、同居人としては嬉しい」


 凛音が黙った。


 返事がない。


 まずい。


 変なことを言ったか。


 そう思って顔を見ると、凛音は俯いていた。


 暗くてはっきりとは見えない。


 でも、耳が赤いのはわかった。


「……頼っているわけじゃない」


「え?」


「これは、緊急時の共同対応」


「なるほど」


「そう」


「じゃあ、共同対応として手を貸して」


 俺は空いている手を差し出した。


 言ってから、自分で驚いた。


 今、何をしている。


 さっきルールで手を繋ぐのは禁止になったばかりだ。


 いや、正確には緊急時は除く。


 だから間違ってはいない。


 間違ってはいないが、かなり踏み込んでいる。


 凛音は差し出された俺の手を見つめた。


 固まっている。


「……手」


「袖より歩きやすいだろ。危ないし」


「でも」


「緊急時だろ?」


 その言葉を出すと、凛音のまつ毛が揺れた。


 彼女は少し迷ったあと、小さく頷いた。


「……緊急時なら」


「うん」


「ルール違反じゃないから」


「わかってる」


「あとで、ルールに追記する」


「そこは律儀なんだな」


 凛音はおそるおそる手を伸ばした。


 指先が触れる。


 昨日の夜、彼女が俺の手に触れたときは、俺は寝たふりをしていた。


 でも今は違う。


 お互いに起きている。


 お互いに、触れることをわかっている。


 凛音の手は、思ったよりも冷たかった。


 俺はその手をそっと握った。


「……っ」


 凛音が息を呑む。


「痛い?」


「痛くない」


「力、強かった?」


「強くない」


「じゃあ、どうした?」


「……手を繋いだ」


「うん」


「高坂くんと」


「俺しかいないからな」


「そういう問題じゃない」


 暗闇の中でもわかるくらい、凛音は動揺していた。


 俺も人のことは言えない。


 心臓がうるさい。


 ただ手を繋いでいるだけなのに、指先から全部伝わってしまいそうだった。


 好きだということ。


 もっと近づきたいということ。


 でも、壊したくないということ。


 全部。


「行こう」


 俺はそう言って、歩き出した。


 今度は凛音も素直についてきた。


 袖ではなく、手を繋いで。


 玄関までの短い距離。


 普段なら何でもない数歩。


 でも、その数歩がやけに長かった。


 凛音の歩幅に合わせて、ゆっくり進む。


 途中で雷が鳴った。


 低い音が窓を震わせる。


 凛音の手に力が入った。


 俺は反射的に握り返した。


「大丈夫」


「……うん」


 その返事が、信じられないくらい素直だった。


 玄関横の収納にたどり着き、扉を開ける。


 中には防災袋と懐中電灯があった。


「あった」


「電池は?」


「入ってるっぽい」


 スイッチを押すと、少し黄色っぽい光がついた。


 スマホより柔らかい明かりが、玄関に広がる。


 凛音はようやく少し肩の力を抜いた。


「よかった」


「これで安心だな」


「ええ」


 そこで、俺たちは気づいた。


 手を繋いだままだ。


 懐中電灯もついた。


 玄関まで来た。


 もう緊急時の移動は終わった。


 だから手を離すべきだ。


 普通なら。


「……」


「……」


 どちらも離さなかった。


 いや、正確には離せなかった。


 凛音の指が、ほんの少し俺の手に引っかかっている。


 俺も、離すタイミングを完全に失っていた。


「氷室さん」


「なに」


「戻るか」


「そうね」


「手」


「……暗いから」


「懐中電灯あるけど」


「足元だけでは不十分」


「なるほど」


「緊急時は、継続中」


「停電が終わるまで?」


「一応」


 強引だった。


 でも俺は、それ以上何も言わなかった。


 言ったら離さなければいけなくなる。


 俺たちは手を繋いだまま、リビングへ戻った。


 ソファに座る。


 テーブルの上に懐中電灯を置くと、ぼんやりした明かりが二人の間に落ちた。


 停電中の部屋は、いつものリビングとは違って見えた。


 余計な音がない。


 冷蔵庫の機械音も止まっている。


 外の雨と、遠くの雷だけが聞こえる。


「怖いの、昔から?」


 俺が聞くと、凛音は少し沈黙した。


「苦手ではない」


「はいはい」


「……小さいころ」


 珍しく、彼女の方から話し始めた。


「家が広かったの」


「うん」


「夜、雷で停電したことがあって。両親は出かけていて、使用人の人たちも別棟にいて」


「一人だったのか」


「少しの間だけ。でも、廊下が真っ暗で、声を出しても誰も来なくて」


 凛音は懐中電灯の明かりを見つめていた。


「それから、暗い場所は少しだけ苦手」


「少しだけ?」


「少しだけ」


「そっか」


 俺は頷いた。


 からかう気にはならなかった。


 凛音はいつも一人で立っているように見える。


 でも、そう見えるだけだ。


 怖いものもある。


 寂しかった記憶もある。


 それを見せるのが下手なだけ。


「じゃあ、停電が終わるまでここにいるよ」


 俺が言うと、凛音がこちらを見た。


「いいの?」


「もちろん」


「部屋に戻りたいなら、戻っても」


「戻らない」


「でも、勉強とか」


「停電中に勉強はしないだろ」


「高坂くんなら、しそう」


「俺を何だと思ってるんだ」


「真面目な人」


 あまりにもまっすぐ言われて、返事に詰まった。


「……そうかな」


「そうよ」


「氷室さんの方が真面目だろ」


「私は、真面目というより融通が利かないだけ」


「自覚あったんだ」


「少しは」


 凛音が小さく息を吐いた。


 それは笑いに近かった。


 明かりのせいかもしれない。


 でも、彼女の横顔は少し柔らかかった。


「高坂くんは、優しい」


 突然言われて、俺の方が固まった。


「そうか?」


「そう」


「普通だと思うけど」


「普通にできるのが、優しいのよ」


 その言い方は、どこか昔を思い出しているみたいだった。


 俺は図書室のことを思い出した。


 高い棚の本。


 雨の日。


 あれを凛音も覚えていた。


 聞きたい。


 けれど、まだ聞けない。


 俺は代わりに言った。


「氷室さんも、優しいと思うよ」


「私が?」


「うん。朝ご飯作ってくれるし、財布も届けてくれたし、サンドイッチもくれたし」


「サンドイッチは余っただけ」


「そうだったな」


「……でも」


 凛音は視線を落とした。


「美味しいって言ってくれたのは、嬉しかった」


 その言葉に、俺は一瞬返事を忘れた。


 凛音が昼でも夜でもない声を出している。


 冷たくもなく、隠しすぎてもいない。


 ほんの少しだけ、本音に近い声。


「また食べたい」


 俺は自然に言っていた。


 凛音の肩が跳ねる。


「……余ったら」


「うん。余ったら」


「たまたま余ったら」


「わかった」


「毎日余るかもしれない」


「それは作りすぎだな」


「作りすぎは、よくあることだから」


「そっか」


 俺たちは顔を見合わせた。


 そして、どちらからともなく少し笑った。


 その瞬間だった。


 ぱっと、リビングの照明が戻った。


 冷蔵庫が低く唸り始める。


 停電が終わった。


 明るくなった部屋で、俺たちはようやく現実に戻された。


 同時に、あることにも気づく。


 まだ、手を繋いでいた。


「……」


「……」


 凛音の顔が、みるみる赤くなる。


 俺もたぶん赤い。


 さっきまで暗闇に助けられていたものが、全部照明の下にさらされた。


「あ、えっと」


「緊急時は」


 凛音が早口で言う。


「終わった」


「うん」


「だから」


「うん」


 それでも、手はすぐに離れなかった。


 ほんの一秒。


 たった一秒だけ、凛音の指先が名残惜しそうに俺の手に触れていた。


 そして彼女は、ぱっと手を離した。


「……ルールに追記する」


「何を?」


「停電時の対応」


「手を繋いでもいいって?」


「必要に応じて」


「必要に応じて、ね」


「笑わないで」


「笑ってない」


「口元」


「真剣」


「嘘」


 凛音は赤い顔のまま、同居契約ルールの紙を手に取った。


 ペンを握り、何かを書こうとして、止まる。


「どうした?」


「……手が」


「手?」


「まだ、変」


 小さすぎる声だった。


 けれど聞こえた。


 俺は何も言えなくなった。


 凛音は慌てて咳払いをする。


「何でもない」


「そっか」


「今のは忘れて」


「努力する」


「忘れて」


「はい」


 彼女は紙に向き直り、真剣な顔で追記した。


『停電時、必要に応じて手を繋ぐことを許可する。ただし、停電復旧後は速やかに離す』


 俺はそれを見て、また笑いそうになった。


 でも、今回はこらえた。


 凛音があまりにも真面目だったから。


     ◇


 その夜。


 停電騒ぎのあと、俺たちは少しぎこちないまま、それぞれの部屋に戻った。


 ベッドに入っても、手の感覚が残っていた。


 凛音の手は冷たくて、細くて、でも握り返す力はちゃんとあった。


 あの暗闇の中で、彼女は俺を頼ってくれた。


 それが嬉しかった。


 嬉しいと思ってしまうのが、まずいのはわかっている。


 でも、どうしようもない。


「……寝よう」


 俺は目を閉じた。


 今日はさすがに、凛音は来ないだろう。


 停電で疲れただろうし、手を繋いだ件で相当動揺していた。


 そもそも、寝ている相手の部屋に入ることは原則禁止と、今日決め直したばかりだ。


 だから大丈夫。


 そう思っていた。


 どれくらい時間が経っただろう。


 半分眠りかけたころ、廊下の方で小さな音がした。


 またか。


 俺は反射的に寝たふりの体勢に入った。


 扉が開く。


 足音。


 でも、いつもより少し不安定だった。


 凛音が近づいてくる。


 ベッドの横で止まる。


 そして、小さな声がした。


「……暗いの、やだ」


 寝ぼけた声だった。


 昼間の凛音でも、夜のこっそり凛音でもない。


 もっと無防備で、幼い声。


 次の瞬間。


 布団がそっと持ち上がった。


 え。


 と思う間もなく、凛音が俺の布団の中に入ってきた。


 柔らかい温度が、すぐ隣に落ち着く。


 彼女は半分眠ったまま、俺の袖を探すように指を動かし、ぎゅっと掴んだ。


「……高坂くん、いる」


 俺は目を閉じたまま、完全に固まった。


 これは。


 これは緊急時なのか。


 それとも、ルール違反なのか。


 いや、そんなことを考えている場合じゃない。


 凛音は安心したように、小さく息を吐いた。


「……落ち着く」


 俺の理性は、その夜、過去最大の緊急事態を迎えた。

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