第4話 夫婦っぽいことは禁止です
人間には、知らない方が幸せなことがある。
たとえば、冷蔵庫の奥にいつからあるかわからないタッパーの中身。
たとえば、クラスメイトが自分のいないところでつけているあだ名。
たとえば、学園一のクール美少女が、自分の中学時代の写真をスマホの待ち受けにしているという事実。
俺、高坂悠真はこの数日で、知ってはいけないことを知りすぎていた。
氷室凛音は、俺を嫌っていない。
むしろ、たぶん。
いや、たぶんどころではない。
昨夜の独り言を信じるなら、彼女は俺にかなり好意的だ。
サンドイッチは余っただけではない。
俺の好みを知っている理由も、たぶん母さんだけではない。
夜中に俺の部屋へ来て、布団を直し、手に触れ、俺の待ち受け画像を見られたら死ぬと言って逃げた。
もうここまでくると、「もしかして」という段階は越えている。
だが問題は、俺がそれを本人に聞けないことだった。
だって、聞いた瞬間に全部終わる。
凛音は俺が寝ていると思っている。
俺が寝たふりをして彼女の本音を聞いていたと知ったら、あの氷の令嬢はどうなるだろう。
たぶん、氷のまま砕ける。
あるいは、顔を真っ赤にして無言で部屋にこもる。
どちらにしても、俺たちの同居生活は初期段階で致命傷を負う。
だから俺は、何も知らないふりを続けるしかない。
そしてこの日の夕方。
リビングのテーブルには、一枚の紙が置かれていた。
初日に見た『同居契約ルール』である。
ただし、今日はその改訂版らしい。
「高坂くん」
凛音はテーブルの向こう側に座り、背筋を伸ばしていた。
学校で見るときと同じ、冷静な顔。
さらさらの黒髪が肩に落ちて、白い指がボールペンを握っている。
その姿だけ見れば、完璧な優等生が生徒会の資料を確認しているようにしか見えない。
しかし俺は知っている。
この人は夜になると、俺の寝顔を見ながら「かっこいい」とか言う。
知っているせいで、まともに目を合わせるのが難しい。
「なに?」
「同居生活も数日経ったでしょう」
「まあ、そうだな」
「最初に決めたルールだけでは、不十分な点が見えてきた」
「そんな会社の定例会議みたいな口調で言うことか?」
「大切なことよ」
凛音は真剣だった。
いや、たぶん本人は本当に真剣なのだろう。
俺は向かいの椅子に座った。
「それで、改訂版?」
「そう。お互いが快適に暮らすために、追加項目を決めたい」
「わかった。必要なら決めよう」
「まず一つ目」
凛音は紙を指差した。
「私室への立ち入りは、事前許可制。これは前回と同じ」
「うん」
「ただし、緊急時は除く」
「緊急時?」
「体調不良、火災、地震、不審者、その他生命に関わる状況」
「それはまあ、当然だな」
「それから」
凛音は少しだけ視線を落とした。
「寝ている相手の部屋に入ることも、原則禁止」
俺の心臓が跳ねた。
危ない。
顔に出すな。
俺は何も知らない。
何も知らない高坂悠真だ。
「原則ってことは、例外もあるのか?」
「あるわ」
「どんな?」
「……布団が落ちていて、風邪を引きそうな場合」
「それ、緊急時なのか?」
「緊急よ」
「けっこう基準が優しいな」
「風邪は万病のもとだから」
凛音は真顔で言った。
俺は思わず笑いそうになった。
その基準だと、昨夜の彼女は見事に自分の中でルールを正当化していることになる。
布団確認。
それは確かに、彼女にとっては重大任務なのかもしれない。
「高坂くん、笑ってる?」
「いや、笑ってない」
「口元」
「真剣に聞いてる」
「本当に?」
「本当に」
凛音は疑わしそうに俺を見た。
この視線は学校のときと少し違う。
冷たいというより、近い。
責めているようで、どこか柔らかい。
「次」
凛音は紙にペンを走らせた。
「食事当番について」
「そこは決めた方がいいな。毎回氷室さんに作ってもらうのも悪いし」
「私が作る」
「え?」
「朝食は私が作る」
「いや、でも」
「あなたは朝、少しぼんやりしているから」
「そんな情報まで母さんから?」
「……観察すればわかる」
言ったあと、凛音はほんの少し固まった。
観察。
今、観察と言った。
俺は聞き逃さなかったが、聞き返さないことにした。
ここで突っ込んだら、たぶん凛音がまた氷点下になる。
「じゃあ朝はお願いしてもいい? その代わり夕飯は俺も作る」
「高坂くんが?」
「俺が作ると不安?」
「不安ではないけれど」
「けれど?」
「……私より手際がいいと、少し悔しい」
「そこで対抗意識出るのか」
「出るわ」
真顔で言われると、なんだかおかしかった。
「じゃあ交代制にしよう。朝は氷室さん。夜は曜日で分担。休日は相談」
「妥当ね」
「洗い物は作ってない方がやる」
「それも妥当」
「掃除は?」
「共用部は週末に一緒に」
一緒に。
その言葉に、俺の胸が少し揺れた。
ただの掃除だ。
同居人なら普通のことだ。
なのに、凛音の口から「一緒に」と言われるだけで、やけに特別に聞こえる。
「高坂くん?」
「あ、うん。週末に一緒にやろう」
「……そう」
凛音は紙に書き込んだ。
その横顔が、少しだけ満足そうに見えた。
いや、見えたというより、わかるようになってきた。
彼女は表情が大きく変わらないだけで、感情がないわけではない。
まつ毛が揺れる。
指先が止まる。
耳が赤くなる。
声がほんの少し柔らかくなる。
そういう小さな変化を見れば、なんとなくわかる。
凛音は今、たぶん嬉しい。
「次が一番重要」
凛音が言った。
「まだあるのか」
「あるわ」
「議題多いな」
「共同生活だから」
「はい」
俺が背筋を伸ばすと、凛音は少しだけ咳払いした。
「夫婦っぽいことは禁止です」
その瞬間、リビングの空気が妙な方向に曲がった。
「……夫婦っぽいこと?」
「そう」
「俺たち、別に夫婦じゃないだろ」
「だから禁止するの」
「なるほど?」
なるほどと言ったが、全然なるほどではない。
凛音はペン先で紙をとん、と叩いた。
「これは契約同棲であって、恋愛関係ではない。だから、そういう誤解を生む行為は避けるべき」
「そういう行為って、具体的には?」
聞いた瞬間、凛音が停止した。
完全に停止した。
目だけがわずかに泳ぐ。
「……具体的」
「いや、決めるなら具体的にしないと曖昧だろ」
「それは、そうだけど」
「たとえば?」
「たとえば……」
凛音は紙を見る。
俺を見る。
また紙を見る。
そして、とても小さな声で言った。
「手を、繋ぐとか」
「手」
「そう」
「それ、夫婦っぽいというか、普通に友達でもあるんじゃないか?」
「あるの?」
「あるだろ。体育祭とか、転びそうなときとか」
「転びそうなときは、仕方ない」
「じゃあ禁止じゃないな」
「基本は禁止」
「基本」
「緊急時は除く」
「また緊急時か」
凛音の中で、緊急時の範囲が広すぎる。
「他には?」
「……名前呼び」
「名前呼びも禁止?」
「学校では」
「家では?」
「家でも、基本は名字」
凛音はそう言った。
だが、俺は第1章ならぬこの同居生活の夜を知っている。
寝ている俺に向かって、凛音は小声で「高坂くん」と呼んでいる。
まだ「悠真くん」とは呼んでいない。
でも、もしかしたら呼びたいのかもしれない。
そう思ったら、少し意地悪をしたくなった。
「でも、同じ家でずっと名字って、少し他人行儀じゃないか?」
「他人行儀でいいの」
「そう?」
「同居人だから」
「そっか」
「……不満?」
凛音がこちらを見た。
その声が、ほんの少しだけ不安そうに聞こえた。
だから俺は、正直に言った。
「不満ってほどじゃないけど、少し寂しい気はする」
凛音のペンが、机の上で止まった。
「寂しい?」
「まあ、家でも学校と同じ距離感だと、ちょっとな」
「……そう」
凛音は紙に視線を落とした。
「高坂くんは、そう思うんだ」
「氷室さんは違う?」
「私は」
彼女はそこで言葉を止めた。
そして、いつもの無表情を少しだけ強くした。
「ルールは必要だと思う」
逃げた。
わかりやすく逃げた。
でも、今の俺にはその逃げ方すら可愛く見えてしまう。
相当まずい。
「じゃあ、家では少しだけ柔らかくするとか」
「柔らかく?」
「学校よりは、普通に話すとか」
「……私は普通に話しているつもりだけど」
「うん。まあ、そうだな」
「なぜ今、目を逸らしたの」
「逸らしてない」
「逸らした」
「見間違い」
「そんなに速い見間違いある?」
「ある」
「さっきの私の台詞を使わないで」
凛音が少しだけ眉を寄せた。
ほんの少し。
でも、確かに表情が動いた。
俺は笑ってしまった。
「なんで笑うの」
「いや、氷室さんって、意外と負けず嫌いだなと思って」
「意外ではないわ」
「そうなの?」
「勝てる勝負なら勝ちたい」
「潔いな」
「負ける勝負は避けたい」
「もっと潔いな」
凛音はまじめな顔で頷いた。
その姿がなんだかおかしくて、俺はまた笑いそうになる。
学校では見られない凛音が、ここにはいる。
冷たいだけじゃない。
冗談に少しむきになって、ルール作りに真剣で、緊急時の解釈が広くて、でも一線は守ろうとする。
その全部が、俺の中で積み重なっていく。
好きにならないで。
その言葉が頭をよぎる。
無理だろ。
心の中で、今日もそう思った。
「次」
凛音が強引に話を戻す。
「同じソファに座る場合、距離を保つ」
「距離ってどれくらい?」
「クッション一つ分」
「けっこう具体的だな」
「必要だから」
「でも映画とか見るなら、遠すぎると見づらくないか?」
「映画を見る予定があるの?」
「ないけど、今後あるかもしれないだろ」
「……あるの?」
「同居してたら、たまにはあるんじゃないか?」
凛音は視線を落とした。
「そう」
「嫌?」
「嫌とは言っていない」
「じゃあ、見てもいい?」
「内容による」
「ホラーとか?」
「却下」
即答だった。
「怖いの苦手?」
「別に」
「今の即答で?」
「苦手ではない。ただ、共同生活に不要な恐怖刺激だと思う」
「言い方」
「事実よ」
俺は笑った。
凛音は少しだけ不満そうにしたが、怒ってはいなかった。
「じゃあ恋愛映画は?」
軽い気持ちで聞いた。
直後、凛音の耳が明らかに赤くなった。
「……却下」
「なんで?」
「夫婦っぽいから」
「映画を見るだけで?」
「恋愛映画は危険」
「何が危険なんだよ」
「雰囲気」
「雰囲気」
「そう。雰囲気に流される可能性がある」
「誰が?」
「……一般論として」
凛音は視線を逸らした。
俺は危うく声に出して笑いそうになった。
一般論。
便利な言葉だ。
「じゃあ、アクション映画」
「それなら可」
「動物ドキュメンタリー」
「可」
「料理番組」
「可」
「ラブコメ」
「却下」
「判定厳しいな」
「ラブコメは危険」
「そんな危険物みたいに言われるジャンルじゃないだろ」
「危険よ」
凛音は真剣に言った。
「勘違いが発生するから」
その言葉は、妙に今の俺たちに刺さった。
勘違い。
すれ違い。
言えない本音。
昼と夜で違う態度。
俺たち自身が、だいぶラブコメみたいな状況にいる。
もちろん本人にそんなことは言えない。
「じゃあ、ラブコメは禁止で」
「そうして」
凛音は真面目に紙へ書いた。
『ラブコメ映画は原則禁止』
なぜ同居契約ルールにそんな項目があるんだ。
でも面白いから、そのままにしておいた。
「あと、夫婦っぽいことって他にある?」
俺が聞くと、凛音はまた固まった。
「……一緒に買い物」
「買い物は必要だろ」
「生活用品は仕方ない」
「夕飯の材料とか」
「仕方ない」
「休日にスーパー行くのは?」
「……緊急時なら」
「スーパーが緊急時になることある?」
「卵が切れたとき」
「卵、重要なんだな」
「サンドイッチに必要だから」
言ってから、凛音がはっとした顔をした。
俺は聞かなかったふりをした。
聞かなかったふりをするのが、最近うまくなってきた。
それが良いことなのかはわからない。
「じゃあ、買い物は可。ただし必要なものがあるとき」
「ええ」
「手を繋ぐのは禁止。ただし転びそうなとき、暗いとき、緊急時は可」
「暗いとき?」
凛音がぴくりとした。
しまった。
なんとなく言っただけだが、彼女の反応が妙だった。
「いや、暗いところで危ない場合って意味」
「そう」
「氷室さん、暗いの苦手?」
「別に」
「その即答、ホラーのときと同じなんだけど」
「苦手ではない」
「ほんとに?」
「照明は文明の偉大な発明だと思っているだけ」
「それは苦手な人の言い方だ」
「違う」
凛音はきっぱり言った。
その直後だった。
リビングの照明が、ふっと消えた。
「え?」
俺が声を上げるのと、外から低い雷鳴が響くのはほとんど同時だった。
窓の外も暗い。
街灯もいくつか消えている。
停電だ。
部屋の中が一瞬で闇に包まれた。
「氷室さん?」
返事がない。
いや、いる。
向かいの席にいたはずだ。
俺が立ち上がろうとした瞬間、椅子が小さく鳴った。
次の瞬間。
何か柔らかいものが、勢いよく俺にぶつかった。
「うわっ」
細い腕が、俺の制服の袖をぎゅっと掴む。
いや、掴むどころではない。
抱きついている。
凛音が。
氷室凛音が。
暗闇の中で、俺にしがみついていた。
「……動かないで」
耳元で、震えた声がした。
昼間の氷の令嬢でも、ルールを読み上げていた同居人でもない。
怖いものを怖いと言えず、それでも必死に誰かに縋っている女の子の声だった。
「氷室さん」
「違う」
「え?」
「これは、緊急時だから」
凛音の手に、さらに力が入る。
「ルール違反じゃ、ないから」
俺は暗闇の中で、どうしようもなく固まった。
さっき決めたばかりのルール。
手を繋ぐのは禁止。
夫婦っぽいことは禁止。
ただし、緊急時は除く。
その例外が、あまりにも早く発生してしまった。
俺の心臓は、停電とは関係なく暴れていた。




