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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第3話 氷の令嬢の片想い

氷室凛音には、秘密がある。


 学年の誰にも言っていない。


 両親にも、もちろん言っていない。


 たぶん、もし言ったら、母は上品に微笑んで「まあ」と言い、父は無言で三分ほど固まったあと、予定にない健康診断を予約する。


 それくらいには、凛音の秘密は彼女自身の印象と噛み合っていなかった。


 学園では、凛音は“氷の令嬢”と呼ばれている。


 誰が言い出したのかは知らない。


 けれど、その呼び名が広まった理由は、凛音にもだいたいわかっていた。


 笑わないから。


 必要以上に話さないから。


 告白されても、淡々と断るから。


 授業中も休み時間も、感情の揺れを表に出さないから。


 だが、正確には少し違う。


 凛音は感情が薄いのではない。


 むしろ逆だった。


 感情が強すぎて、表に出した瞬間、自分でも制御できなくなる。


 だから閉じ込めている。


 無表情という扉の奥に、全部。


 特に、高坂悠真に関する感情だけは。


 絶対に、誰にも見せてはいけなかった。


     ◇


 始まりは、中学二年の秋だった。


 放課後の図書室は、雨の匂いがしていた。


 窓の外では細い雨が降っていて、グラウンドの土が暗く濡れていた。部活動の声も少なく、校舎全体がいつもより静かだった。


 凛音は図書室の奥で、目当ての本を探していた。


 棚の一番上。


 古い文学全集の並び。


 タイトルは見えているのに、手が届かない。


 踏み台を探したが、近くにはなかった。


 人に頼めばいい。


 そう思いながらも、凛音は周囲を見回すことができなかった。


 昔から、人にものを頼むのが苦手だった。


 頼んだ瞬間に断られたらどうしよう、と先に考えてしまう。嫌な顔をされたら。面倒だと思われたら。氷室さんなら一人でできるでしょ、と思われたら。


 その想像だけで、喉の奥が詰まる。


 だから凛音は、少しだけ背伸びをした。


 指先が本の背表紙に触れる。


 けれど、引き出すには足りない。


 もう少し。


 あと少し。


 そう思って爪先に力を入れた瞬間、後ろから声がした。


「その本?」


 凛音は驚いて振り返った。


 そこにいたのが、高坂悠真だった。


 当時の悠真は今より少し背が低く、制服の袖もまだ少し長く見えた。前髪は今よりも素直で、目元には人を威圧しない柔らかさがあった。


 凛音は彼の名前を知っていた。


 同じ学年の男子。


 成績は悪くない。


 目立つタイプではないけれど、誰かが困っていると自然に手を貸す。


 友達と笑っているときの顔が、少しだけ眩しい。


 それくらいの認識だった。


「あ……」


 凛音が返事に困っていると、悠真は勝手に踏み込まず、棚の上を見上げた。


「これで合ってる?」


 彼は本のタイトルを指差した。


 凛音は小さく頷く。


「うん」


「じゃあ、取るよ」


 悠真はそう言って、あっさり本を取った。


 背伸びしても届かなかった本が、彼の手では簡単に棚から抜ける。


 たったそれだけのことだった。


 でも凛音は、なぜか目が離せなかった。


「はい」


 差し出された本。


 凛音は両手で受け取った。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 悠真は笑った。


 押しつけがましくない、普通の笑顔だった。


 ありがとうと言われたから笑っただけ。


 きっと彼にとっては、それ以上の意味なんてなかった。


 でも、凛音には違った。


 誰かに助けを求められなかった自分を、責めなかった。


 高いところの本が取れないことを、笑わなかった。


 余計なことを聞かず、必要な分だけ助けて、普通に笑った。


 その普通が、凛音にはとても優しく見えた。


「あの」


 気づいたら、凛音は彼を呼び止めていた。


 悠真が振り返る。


「ん?」


「……雨、まだ降ってる?」


「けっこう降ってる」


「そう」


「傘、ないの?」


「ある」


「なら大丈夫か」


「……うん」


 そこで会話は終わった。


 悠真は「じゃあ」と軽く手を上げ、友達のいる方へ戻っていった。


 本当にそれだけ。


 たったそれだけだった。


 けれど、その日から凛音の世界は少しずつおかしくなった。


 廊下で悠真を見つけると、なぜか目で追ってしまう。


 教室の前を通るとき、彼の声が聞こえないか気にしてしまう。


 図書室に行くたび、あの日の棚を見てしまう。


 雨が降ると、なぜか彼のことを思い出す。


 最初は、ただ印象に残っているだけだと思った。


 優しい人だな。


 話しやすそうだな。


 それくらいだと。


 でも違った。


 気づいたのは、冬のことだった。


 昇降口で、悠真が友達に笑いながらマフラーを貸しているのを見た。


「お前、絶対風邪引くだろ。使えよ」


「いや、お前は?」


「俺は走って帰るから平気」


「馬鹿だろ」


「馬鹿ではない。丈夫なだけ」


 そんなやり取りだった。


 何気ない会話。


 少しくだらなくて、温かい。


 凛音は離れた場所から見ていた。


 そして思った。


 あのマフラーが、少し羨ましい。


 その瞬間、ようやく自覚した。


 自分は、高坂悠真のことが好きなのだと。


     ◇


 好きだと自覚してからの凛音は、ひどかった。


 自分でもそう思う。


 まず、目で追う回数が増えた。


 そして目が合いそうになると、即座に逸らした。


 話しかけようと何度も思った。


 だが実際に近づくと、喉が石になったみたいに動かない。


 せめて挨拶くらいは、と決意した日もあった。


 廊下で悠真が前から歩いてくる。


 凛音は心の中で何度も練習した。


 おはよう、高坂くん。


 おはよう、高坂くん。


 おはよう、高坂くん。


 たったこれだけ。


 簡単だ。


 絶対にできる。


 そして実際にすれ違う瞬間、凛音の口から出たのは、


「……」


 無言だった。


 しかも、緊張のあまり顔に力が入りすぎて、たぶん睨んだ。


 悠真は少し不思議そうな顔をして、けれど何も言わずに通り過ぎた。


 その日の凛音は、帰宅してからベッドの上で枕を抱え、声にならない声を出した。


「ちがう……」


 違う。


 睨みたかったわけではない。


 おはようと言いたかった。


 できれば少しだけ笑いたかった。


 なのに顔面が裏切った。


 凛音の顔は、好きな人の前に出ると自動的に氷になる。


 欠陥品にもほどがある。


 それからも同じことが続いた。


 悠真が落とした消しゴムを拾って渡そうとして、なぜか無言で机の端に置いた。


 文化祭の準備で同じ廊下にいたとき、声をかける機会があったのに、緊張しすぎて反対方向へ歩いた。


 卒業式の日には、最後だから一言くらい、と決意した。


 けれど、悠真が友人たちに囲まれて笑っているのを見たら、足が動かなくなった。


 そのまま中学は終わった。


 高校も同じ桜峰学園に進学すると知ったとき、凛音は内心で飛び跳ねた。


 もちろん外見上は無表情だった。


 母に「凛音、合格通知を見てから三分ほど瞬きをしていないけれど、大丈夫?」と心配された。


 大丈夫ではなかった。


 同じ高校。


 もう一度、近づけるかもしれない。


 そう思った。


 しかし現実は、そう簡単ではなかった。


 高校に入ってから、凛音の周囲には自然と人が集まるようになった。


 男子は距離を測るように話しかけてくる。


 女子は憧れ半分、警戒半分で接してくる。


 凛音は失敗しないように、丁寧に、淡々と、感情を見せずに対応した。


 その結果、“氷の令嬢”が完成した。


 好きでそうなったわけではない。


 けれど、その仮面は思った以上に便利だった。


 誰も踏み込みすぎてこない。


 誰にも本音を見せずに済む。


 ただ一人、高坂悠真にだけは、ますます遠くなった。


     ◇


「凛音、最近ちょっと変じゃない?」


 昼休み。


 教室の窓際で、友人の白川沙耶がそう言った。


 沙耶はクラスで数少ない、凛音に真正面から話しかけてくる女子だった。


 明るい茶色の髪を肩で揺らし、いつも表情がくるくる変わる。凛音とは正反対のタイプだ。


「変ではないわ」


 凛音は弁当箱の蓋を閉じながら答えた。


「いや、変だよ。今朝から五回くらい窓の外見てた」


「外を見ることは、人間として不自然ではないと思う」


「言い方が氷室さんすぎる」


「私は氷室だけれど」


「そういうところ!」


 沙耶は箸を持ったまま笑った。


 凛音は黙って水筒のお茶を飲む。


 視線は、無意識に隣のクラスの方向へ向かいそうになった。


 いけない。


 見てはいけない。


 学校では必要以上に親しくしない。


 そう決めたのは自分だ。


 いや、そう決めるしかなかった。


 今、悠真と同じ家に住んでいることが知られたら、確実に騒ぎになる。


 悠真に迷惑がかかる。


 それだけは避けたい。


「もしかして、好きな人でもできた?」


 沙耶の言葉に、凛音の指が止まった。


 ほんの一瞬。


 けれど沙耶は目ざとかった。


「え、図星?」


「違う」


「今の間は違わない人の間だったよ」


「白川さん」


「はい」


「人間には、踏み込んではいけない領域がある」


「急に重い!」


 沙耶は笑ったが、凛音は笑えなかった。


 好きな人ならいる。


 ずっといる。


 中学のころから、ずっと。


 しかも今は、同じ家にいる。


 昨日から、同じ屋根の下で眠っている。


 その事実を思い出すだけで、凛音は箸を持つ手に力が入った。


 だめ。


 学校で思い出してはいけない。


 昨日の夜、自分は何をした。


 悠真の部屋に行った。


 寝顔を見た。


 布団を直した。


 独り言を言った。


 今日の昼は、サンドイッチまで渡してしまった。


 しかも財布と一緒に。


 何が「余っただけ」か。


 朝から悠真のために卵を焼き、パンの耳まで丁寧に落とし、食べやすい大きさに切っておきながら、余っただけも何もない。


 自分で思い返しても、言い訳が雑すぎる。


「凛音?」


「なに」


「顔、赤いよ」


「気温の問題」


「今日、五月にしては涼しいけど」


「体温調節の問題」


「便利だね、その言い訳」


 沙耶はじっと凛音を見た。


「でも、凛音が楽しそうならいいや」


「楽しそう?」


「うん。顔はいつも通りなんだけど、なんか雰囲気がふわふわしてる」


「ふわふわ」


「うん。氷室さんが氷室さんじゃなくて、ちょっと人間になってる感じ」


「私は元から人間よ」


「知ってる知ってる」


 沙耶は手をひらひら振った。


 凛音は少しだけ視線を落とした。


 人間になっている。


 その言葉が、妙に胸に残った。


 悠真と同じ家にいると、凛音は自分が“氷の令嬢”ではいられなくなる。


 昨日の夕食。


 味噌汁を作る悠真。


 ネギを真剣に薄く切る悠真。


 「おいしい」と言ってくれた悠真。


 朝、玄関で「行ってきます」と返してくれた悠真。


 その一つ一つが、凛音の中の氷を溶かしてしまう。


 困る。


 とても困る。


 けれど、嬉しい。


「……嬉しいって、危ない」


「え?」


「何でもない」


 凛音は小さく首を振った。


 沙耶は不思議そうにしていたが、それ以上は聞かなかった。


     ◇


 帰宅後。


 凛音はリビングのテーブルで、今日の反省を書いていた。


 ノートの表紙には、何も書かれていない。


 中身を誰かに見られたら終わる。


 特に悠真には絶対に見られてはいけない。


 ページには、整った文字でこう記されていた。


『高坂くん同居生活記録 一日目・二日目』


 凛音はペンを握りしめる。


 一日目。


 玄関で「ただいま」と言われた。


 危険。


 あれは危険。


 同居初日に「ただいま」は反則。


 心臓が一度止まりかけた。


 本人は何もわかっていない顔をしていた。ずるい。


 夕食。


 味噌汁を作ってくれた。


 ネギの厚みを指摘したら素直に切り直してくれた。


 そういうところが好き。


 だめ。


 好きと書いてはいけない。


 凛音は一度「好き」の文字を消そうとして、結局消せなかった。


 消すと、そこだけ紙が傷みそうだったから。


 二日目。


 朝、「行ってきます」と言われた。


 危険。


 昨日の「ただいま」と合わせて危険。


 生活が始まっている感じがして、無理だった。


 昼、サンドイッチを渡した。


 言い訳が下手すぎた。


 作りすぎたと言ったが、どう考えても高坂くん用だった。


 でも美味しいと言ってくれた。


 嬉しい。


 嬉しい。


 嬉しい。


 凛音はそこまで書いて、ペンを止めた。


 嬉しいを三回書くのはさすがにどうなのか。


 でも本当に嬉しかった。


 悠真の「美味しかった」は、凛音にとって一日を生き延びる栄養素だった。


 そこへ玄関の開く音がした。


「ただいま」


 悠真の声。


 凛音は反射的にノートを閉じかけた。


 いや、間に合わない。


 隠さなければ。


 凛音はノートの上に、近くにあった参考書を乗せた。


 悠真がリビングに入ってくる。


「今、何隠した?」


「何も」


 即答した。


 声は冷静だった。


 たぶん。


「明らかに隠したけど」


「気のせい」


「そんなに速い気のせいある?」


「ある」


 悠真が少し笑った。


 その笑顔で、凛音は危うく参考書を落としそうになった。


 危険。


 高坂悠真の笑顔は、日常生活における危険物に指定すべきだ。


 彼はキッチンの方へ歩きながら言う。


「サンドイッチ、ありがとう」


「余っただけ」


 自分でも驚くほど早く言葉が出た。


 余っただけ。


 便利な言葉だ。


 ただし信憑性は低い。


「美味しかった」


 悠真が言った。


 凛音の心臓が跳ねた。


「……そう」


「卵、少し甘めだったよな。俺、あれ好き」


 やめて。


 そんなふうに具体的に褒めないで。


 また作りたくなる。


 明日も、明後日も、毎日作りたくなる。


「知ってる」


 つい口が滑った。


 悠真がこちらを見る。


「……母さん?」


「お母様」


 またこの言い訳。


 そろそろ限界ではないか。


 しかし悠真は深く追及しなかった。


 優しい。


 その優しさがまた、凛音を追い詰める。


「そっか」


 彼は笑う。


 凛音は視線を落とした。


 本当は、知っていた。


 中学のとき、悠真が購買でよく卵サンドを買っていたこと。


 甘めの卵焼きが好きだと友達に話していたこと。


 マーマレードよりいちごジャムを選ぶこと。


 味噌汁は薄めが好きなこと。


 ピーマンは食べられるけれど、できれば避けたいこと。


 全部、見ていたから知っている。


 言えるわけがない。


 そんなことを言ったら、ただの怖い人だ。


 いや、すでに怖いかもしれない。


 凛音は心の中で頭を抱えた。


 夜。


 悠真が部屋に戻ったあと、凛音はしばらくリビングで立ち尽くしていた。


 行くべきではない。


 昨日も行った。


 今日も行ったら、さすがに自分でもどうかしている。


 相手の私室には許可なく入らない。


 同居契約ルールの一番目に書いたのは自分だ。


 なのに。


 悠真の寝顔を見たい。


 布団がずれていないか気になる。


 寒くないか心配。


 今日サンドイッチを美味しいと言ってくれた顔を、もう一度思い出したい。


 凛音はリビングを三往復した。


 それから、そっと廊下に出た。


「見るだけ」


 自分に言い聞かせる。


「布団を確認するだけ」


 それは言い訳だった。


 わかっていた。


 でも、止まれなかった。


 悠真の部屋の前に立つ。


 ノックはしない。


 静かにドアを開ける。


 暗い部屋。


 ベッドで眠っている悠真。


 その姿を見た瞬間、凛音の胸がぎゅっと縮んだ。


「……寝てる?」


 小声で聞く。


 返事はない。


 当たり前だ。


 寝ているのだから。


 凛音はそっと近づいた。


 昼間はあんなに話せないのに、寝ている悠真の前では少しだけ素直になれる。


 卑怯だと思う。


 でも、今の凛音にはこれが精いっぱいだった。


「今日、サンドイッチ……美味しいって言ってくれた」


 言葉にすると、また嬉しさが込み上げてくる。


「よかった……」


 明日も作ったら迷惑だろうか。


 毎日作ったら重いだろうか。


 いや、そもそも余っただけという言い訳が毎日通用するわけがない。


 でも作りたい。


 悠真が食べてくれるなら。


 凛音は布団から出ている彼の手に気づいた。


 少し寒そうに見えた。


 触ってはいけない。


 勝手に触るのはだめ。


 そう思ったのに、指先が動いた。


 ほんの少しだけ。


 手の甲に触れる。


 温かい。


 凛音はすぐに手を離した。


「……触っちゃった」


 心臓がうるさい。


 罪悪感と幸福感が同時に押し寄せてくる。


「ごめん」


 眠っている彼に謝る。


 でも、その一瞬の温度だけで、凛音は泣きそうになった。


 好き。


 好き。


 どうしようもなく好き。


 なのに、本人の前では冷たくしてしまう。


 嫌われたくないのに、嫌われるようなことばかり言ってしまう。


 好きにならないで。


 あれだって、本当は違う。


 好きになられたら困るのではない。


 好きになってほしい。


 でも、もし本当に好きだと言われたら、自分はきっと壊れる。


 嬉しすぎて。


 怖すぎて。


 失うのが嫌すぎて。


 だから先に線を引いた。


 好きにならないで。


 恋愛感情禁止。


 ただの同居人。


 そんな言葉で、自分を守った。


 悠真を守ったつもりにもなった。


 けれど、本当は全部、自分の臆病さだった。


「……嫌われてないといいな」


 凛音は小さく呟いた。


 そのとき、スマホが震えた。


 通知音は鳴らしていなかったが、振動で驚いて手が滑る。


 スマホが布団の上に落ちた。


「あ」


 まずい。


 画面が点いた。


 ロック画面。


 そこには、中学時代の悠真の写真。


 図書室で偶然撮れた一枚。


 友人が撮ったクラスの記録写真の端に、たまたま彼が写っていたものだ。


 凛音はそれを、ずっと待ち受けにしていた。


 待ち受けにしている時点で相当だと自覚はある。


 でも変えられない。


 見ると落ち着くから。


 今日も頑張ろうと思えるから。


 つまり、終わっている。


「……だめ」


 凛音は慌ててスマホを拾った。


「これは、見られたら死ぬ」


 悠真は眠っている。


 眠っているはずだ。


 大丈夫。


 見られていない。


 そう自分に言い聞かせ、凛音は逃げるように部屋を出た。


 自分の部屋に戻った瞬間、凛音はベッドに倒れ込んだ。


 枕に顔を埋める。


「無理……」


 声が漏れた。


「高坂くんが同じ家にいるの、無理……」


 幸せすぎて、無理。


 近すぎて、無理。


 昼に冷たくする自分が嫌で、無理。


 夜にこっそり会いに行く自分も嫌で、無理。


 でも、やめられない。


 凛音は枕を抱きしめた。


「……せめて」


 小さく呟く。


「せめて、“嫌われない同居人”くらいにはなりたい」


 言ってから、少し考えた。


 同居人。


 その言葉は正しい。


 でも、胸の奥では別の言葉が浮かんでいた。


 妻。


 契約でも、名ばかりでも、まだ本物ではなくても。


 もし、いつか。


 悠真の隣にいてもいいと言われる日が来るなら。


 そのときは。


「……嫌われない妻に、なりたい」


 凛音は顔を真っ赤にしたまま、枕に額を押しつけた。


「言った。今、言った……」


 誰も聞いていない。


 それでも恥ずかしかった。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 氷の令嬢と呼ばれる少女は、その夜も眠れなかった。


 好きな人と同じ家にいるという、たったそれだけの奇跡に、心が追いつかなかったから。

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