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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第2話 寝たふり耐久戦

嬉しい。


 その一言が、夜の部屋に落ちた。


 俺は目を閉じていた。


 寝たふりをしている。


 ただそれだけのはずなのに、まるで崖の端に爪先だけで立たされているみたいだった。


 動いたら終わる。


 呼吸を乱しても終わる。


 目を開けたら、たぶんもっと終わる。


 俺のベッドのすぐ横には、氷室凛音がいる。


 学校で“氷の令嬢”なんて呼ばれている、あの氷室凛音が。


 同居初日に「絶対に私を好きにならないでね」と言い放った本人が。


 今、俺の寝顔を見ながら、小さく「嬉しい」と呟いた。


 どういうことだ。


 いや、本当にどういうことだ。


 俺は今日一日、ずっと自分に言い聞かせていた。


 勘違いするな。


 期待するな。


 相手はただの同居人だ。


 氷室さんは俺に恋愛感情を持ち込まないでほしいと言った。


 だから、俺もそうするべきだ。


 そう思っていた。


 そう決めたはずだった。


 なのに。


「……いる」


 凛音がもう一度、確かめるように言った。


 声が近い。


 近すぎる。


 たぶん、ベッドのそばにしゃがんでいる。


 俺の心臓は、なぜか全力疾走したあとのようにうるさかった。布団越しに音が伝わるんじゃないかと思うくらいだ。


「高坂くんが、この部屋にいる……」


 待ってくれ。


 その言い方はおかしい。


 まるで俺がここにいることを喜んでいるみたいじゃないか。


 いや、喜んでいるのか?


 でも昼間の態度はなんだったんだ。


 恋愛感情禁止って言ったよな。


 ただの同居人って言ったよな。


 俺は寝たふりをしながら、頭の中で昼間の凛音を必死に再生した。


 冷たい目。


 淡々とした声。


 同居契約ルール。


 絶対に好きにならないでね。


 あれは本気だった。


 少なくとも、俺には本気に見えた。


 だが今、目の前にいる凛音は、俺の知っている“氷の令嬢”とは違いすぎる。


「……寝てるよね?」


 凛音が囁いた。


 俺は動かない。


 動けない。


 ここで「起きてます」と言える人間がいたら、たぶん勇者か何かだ。少なくとも俺ではない。


 凛音はしばらく黙っていた。


 その沈黙が、かえって怖い。


 もしかして、起きているとバレたか。


 俺のまぶたがわずかに震えていたのかもしれない。


 呼吸が不自然だったかもしれない。


 いや、そもそも寝たふりってどうやるんだ。


 寝ている人間は、こんなに「俺は寝ています」と意識しない。


 寝たふりとは、思った以上に難しい競技だった。


「……よかった」


 凛音が安堵したように息を吐いた。


 俺は心の中で、助かった、と叫んだ。


 だが、助かったのは一瞬だけだった。


 次に聞こえた声で、俺の脳は完全に停止しかけた。


「かっこいい……」


 はい?


「……なんで寝てるだけで、こんなにかっこいいの」


 はい?


 待て。


 誰の話をしている。


 この部屋には俺しかいない。


 つまり俺の話か。


 いや、ありえない。


 俺は自分の顔面偏差値を、そこまで高く見積もったことがない。清潔感には気をつけているし、髪も寝ぐせのまま外に出たりはしない。けれど、せいぜい普通だ。普通より少し真面目そうに見えるくらいの顔だ。


 なのに凛音は、まるで国宝の掛け軸でも眺めているみたいな声で続けた。


「無理……。明日から普通に接するとか、絶対無理……。今日だって玄関で『ただいま』って言われただけで、心臓止まりそうだったのに……」


 俺は、布団の中で固まった。


 あのとき。


 俺が冗談半分で「ただいま?」と言ったとき。


 凛音は一瞬だけ目を揺らした。


 気のせいだと思った。


 俺の都合のいい願望だと思った。


 でも、違ったのか。


「……私、ちゃんと冷たくできてたよね」


 冷たくできてた。


 本人の口から出てきたその言葉に、俺は混乱した。


 冷たくしていた、ではない。


 冷たくできていた、だ。


 まるで、それが演技だったみたいに。


「好きにならないでって言ったの、変じゃなかったよね……?」


 変だった。


 めちゃくちゃ変だった。


 だけど、そう言われた俺は、それを真に受けて一日中落ち込んでいた。


 いや、落ち込んでいる場合じゃない。


 今の言い方だと、あの言葉には別の意味があったように聞こえる。


「ほんとは違うのに」


 凛音の声が、ほんの少し弱くなった。


「好きにならないで、じゃなくて……これ以上、好きにさせないで、なのに」


 俺は、危うく息を止めた。


 止めたら不自然だ。


 そう思って、慌ててゆっくり吸った。


 しかし、心臓の方はもうどうにもならない。


 好きにさせないで。


 凛音はそう言った。


 俺に向かって。


 俺が寝ていると思い込んで。


「……ずるい」


 凛音は小さく文句を言った。


「味噌汁作れるとか、聞いてない。ネギ薄く切り直してるだけで、なんであんなに真剣なの。そういうところ、昔からずるい」


 昔から?


 その言葉が引っかかった。


 俺と凛音は、中学のときに一度だけ話したことがある。


 俺の記憶では、それくらいだ。


 もちろん廊下ですれ違ったことはある。体育祭や文化祭で同じ空間にいたこともあるだろう。でも、親しい関係ではなかった。


 なのに、凛音は俺のことを昔から知っているような口ぶりだった。


「図書室でも、そうだったし」


 俺の頭の奥で、中学時代の景色が浮かぶ。


 放課後の図書室。


 高い棚。


 背伸びしている女子。


 俺が代わりに取った一冊の本。


 ありがとう、と言った声。


 俺にとっては、片想いの始まりだった出来事。


 それを、凛音も覚えている。


 ただ覚えているだけではない。


 今の声は、もっと大切なものを取り出すみたいだった。


「……あのときから、ずっと」


 凛音の声がそこで途切れた。


 俺は続きを待った。


 続きを聞きたい。


 でも聞いてはいけない。


 これは、彼女が俺に聞かせるつもりのない本音だ。


 ここで俺が目を開けたら、全部壊れる。


 そう思うのに、心のどこかで、壊れてしまえと思っている自分もいた。


 凛音が少しだけ動いた。


 布団の端に、柔らかい重みがかかる。


 彼女の指先が、布団のしわをそっと直したのがわかった。


「……寒くないかな」


 その声は、昼間の彼女とは別人だった。


 冷たさなんてどこにもない。


 ただ、不器用に相手を気遣っている女の子の声だった。


「寝相、悪くないんだ」


 悪かったら悪かったで困るだろ。


 心の中でツッコミを入れたが、もちろん口には出せない。


 凛音はしばらく、俺の布団を整えていた。


 ほんの少し肩口が出ていたのを直し、枕の位置を確かめる。


 それだけのことなのに、俺はもう限界だった。


 好きな人が、自分の寝顔を見ながら、優しい手つきで布団を直している。


 こんな状況に耐えられる高校生がいるなら、俺の前に連れてきてほしい。


 師匠と呼ぶ。


「……髪、少し跳ねてる」


 凛音が笑った気配がした。


 笑った?


 氷室凛音が?


 俺は目を開けたくなった。


 見たい。


 今、彼女がどんな顔をしているのか見たい。


 学校では見せない顔。


 俺が寝ていると信じているからこそ見せている顔。


 けれど、見てはいけない。


 俺は必死にまぶたを閉じ続けた。


 そのとき、凛音の指先が俺の髪に近づいた。


 空気が変わる。


 ほんの少し、前髪が揺れた。


 触れる。


 そう思った瞬間。


「……だめ」


 凛音が自分で自分を止めた。


「勝手に触ったら、だめ」


 小さく、真面目な声だった。


 俺は胸が詰まった。


 彼女は、冷たくなんかなかった。


 少なくとも今、目の前にいる凛音は、俺が思っていたよりずっと誠実で、ずっと臆病で、ずっと優しい。


 勝手に触れたいくらい好きで。


 でも、勝手に触れてはいけないと思って止まる。


 その一線の引き方が、どうしようもなく彼女らしかった。


「好きにならないでって言ったのに……」


 凛音はぽつりと呟く。


「私の方が、全然守れてない」


 守る必要なんてない。


 俺はそう言いたかった。


 でも言えない。


 俺自身が、彼女との約束を守ろうとしているからだ。


 好きにならない。


 恋愛感情を持ち込まない。


 そういう契約。


 でも、彼女の本音を聞いてしまった今、それが何を守るための言葉だったのか、わからなくなっていた。


 凛音はしばらく黙っていた。


 やがて、さっきよりも近いところで声がした。


「……おやすみ、高坂くん」


 その呼び方は、学校と同じだった。


 だけど声が違った。


 柔らかく、甘く、胸の奥に落ちてくる。


「明日も、ちゃんと他人のふりするから」


 それは、どこか寂しそうな言葉だった。


 やめろ。


 そんな声で言わないでくれ。


 俺は寝たふりを続けたまま、拳を握りそうになるのを必死にこらえた。


 凛音が立ち上がる気配。


 ようやく終わる。


 そう思った瞬間だった。


「……でも、家では」


 凛音の声が、もう一度降ってきた。


「もう少しだけ、同居人っぽくなれたらいいな」


 同居人っぽく。


 それは、彼女なりの精いっぱいの願いなのかもしれない。


 恋人ではない。


 夫婦でもない。


 友達と呼ぶには、たぶん近すぎる。


 でも、ただの他人ではいたくない。


 そんな曖昧な距離に、凛音は立っている。


 そして俺も、たぶん同じ場所にいる。


 凛音の足音が遠ざかった。


 扉が静かに閉まる。


 部屋に、夜の静けさが戻った。


 俺はまだ動けなかった。


 心臓だけが、いつまでもうるさい。


「……なに、今の」


 ようやく声に出したとき、自分の声がかすれていた。


 俺は布団を頭までかぶった。


 眠れるわけがない。


 明日、どんな顔で凛音に会えばいい。


 おはようと言うのか。


 普通に。


 何も知らないふりをして。


 無理だ。


 無理だけど、やるしかない。


 なぜなら凛音は、俺が寝ていると思っている。


 その前提を崩した瞬間、彼女はきっと傷つく。


 恥ずかしさで消えるかもしれない。


 いや、比喩ではなく本当に消えそうな気がする。氷の令嬢、溶けるのではなく蒸発するタイプだったのかもしれない。


 俺は布団の中で、何度も深呼吸した。


 好きにならないで。


 今日から毎日、一緒なんだ。


 好きにさせないで。


 私の方が、全然守れてない。


 言葉が頭の中でぐるぐる回る。


 眠れない。


 完全に眠れない。


 そう思っていたのに、緊張で疲れていたのか、いつの間にか意識は落ちていた。


     ◇


 翌朝。


 目覚ましの音で目を開けた瞬間、俺は勢いよく上体を起こした。


「夢……じゃないよな」


 部屋を見回す。


 知らない天井。


 昨日運び込まれた段ボール。


 整えられた布団。


 そして、やけに記憶に残っている、甘いシャンプーの匂い。


 夢ではない。


 昨夜、凛音は俺の部屋に来た。


 俺の寝顔を見ていた。


 かっこいいとか言っていた。


 好きにさせないでとか言っていた。


 俺は両手で顔を覆った。


「朝から情報量が多い……」


 しばらくベッドの上で固まったあと、俺はなんとか着替えた。


 寝ぐせを直し、制服に袖を通し、鏡の前で自分の顔を見る。


 普通にしろ。


 普通に。


 何も知らない高坂悠真として振る舞え。


 昨夜のことは知らない。


 凛音の本音も知らない。


 布団を直してくれたことも知らない。


 好きにさせないで発言も知らない。


 よし。


 無理だな。


 だが、それでもリビングへ向かわなければならない。


 扉を開けると、朝食の匂いがした。


 トーストの香ばしい匂い。


 卵が焼ける音。


 コーヒーの湯気。


 キッチンには凛音がいた。


 制服姿で、髪も綺麗に整えられている。


 学校で見る氷室凛音、そのものだった。


「おはよう」


 俺ができるだけ自然に言うと、凛音はこちらを見た。


 無表情。


 冷静。


 昨夜の甘さなど欠片もない。


「おはよう、高坂くん」


 その声に、俺は内心で頭を抱えた。


 高坂くん。


 昨夜も最後はそう呼んだ。


 でも、今の「高坂くん」は学校用の声だ。


 温度が違う。


「よく眠れた?」


 凛音が聞いた。


 俺は危うくむせそうになった。


「ま、まあ」


「そう」


「氷室さんは?」


「普通」


「普通か」


「ええ。普通」


 嘘だろ。


 昨夜あれだけ俺の部屋で独り言を言っておいて、普通なのか。


 いや、本人の中では普通なのかもしれない。


 俺は椅子に座った。


 テーブルには、トースト、スクランブルエッグ、サラダ、ヨーグルトが並んでいる。


「朝、パンでよかった?」


「うん。ありがとう」


「あなたは平日はご飯よりパンの方が食べやすいでしょう」


「……母さん情報?」


「そう」


 凛音は迷いなく答えた。


 だが俺は、もうその言葉を素直に信じられない体になっていた。


 本当に母さんから聞いたのか。


 それとも、前から俺のことを見ていたのか。


 どちらにしても、聞いたら終わる気がした。


「どうかした?」


「いや、なんでもない」


「顔が変」


「朝からなかなか厳しいこと言うな」


「寝不足?」


「いや、ちゃんと寝た」


「そう」


 凛音は皿を置きながら、俺をちらりと見た。


「ならいいけど」


 その一言が、妙に優しかった。


 だから俺は余計に困る。


 朝食を食べている間、会話は多くなかった。


 けれど昨日よりは少しだけ、空気が柔らかい気がした。


 いや、俺が昨夜のことを知ってしまったせいで、そう感じているだけかもしれない。


 凛音はいつも通り無表情だ。


 食べ方も綺麗で、背筋も伸びている。


 でも、トーストにジャムを塗るとき、ほんの少し俺の方を見た。


「高坂くん」


「ん?」


「いちごジャムでいい?」


「あ、うん」


「あなた、マーマレードは苦手でしょう」


「……母さん?」


「お母様」


「母さん、俺の個人情報をだいぶ提供してるな」


「生活に必要な情報だから」


 同じ台詞。


 同じ表情。


 けれど今朝は、耳の先が少し赤かった。


 今度は見間違いじゃない。


 俺はパンをかじりながら、笑いそうになるのをこらえた。


 だめだ。


 ここでにやけたらバレる。


 しかし、凛音の方もこちらを見ない。


 なぜか黙々と自分のサラダを食べている。


 その姿が、昨夜の「かっこいい……」を言った本人だと思うと、もう何もかもおかしかった。


「高坂くん」


「はい」


「なぜ敬語?」


「いや、なんとなく」


「変」


「変って二回目だぞ、今日」


「事実だから」


 そう言いながら、凛音はコーヒーを口に運んだ。


 冷たい。


 冷たいのに。


 俺にはもう、その冷たさの奥に隠れているものが見えてしまっている。


 見えてはいけないものを見てしまった気分だ。


 朝食を終え、食器を片づける。


 俺が皿を洗っていると、凛音が横に立った。


「私がやる」


「作ってもらったし、洗うくらいはするよ」


「でも」


「役割分担ってことで」


「……そう」


 凛音は少しだけ黙ったあと、布巾を手に取った。


「じゃあ、拭く」


「助かる」


 二人で並んで食器を片づける。


 水音。


 皿が重なる音。


 布巾で水気を拭く音。


 これだけなら普通の朝だ。


 けれど俺にとっては、ひとつひとつが爆弾だった。


 肩が近い。


 手が触れそうになる。


 凛音が無言で皿を受け取る。


 そのたびに、昨夜の声が蘇る。


 どうしよう。嬉しい。


 俺は蛇口を閉めた。


「氷室さん」


「なに?」


「学校、一緒に出る?」


 言ってから、しまったと思った。


 凛音の動きが止まる。


 学校では必要以上に親しくしない。


 ルールに書いてあった。


 俺からそれを破るような提案をしてどうする。


「あ、いや、別に無理にって意味じゃなくて。時間が同じならっていうか、途中まででも」


「……別々でいい」


 凛音はそう言った。


 声は平坦だった。


 予想していた答えなのに、胸が少し痛んだ。


「だよな。悪い」


「学校で噂になると面倒だから」


「うん。わかってる」


「家を出る時間を少しずらしましょう。あなたが先でいい」


「わかった」


 正しい。


 彼女は正しい。


 契約通りだ。


 昨日の俺なら、ここで「やっぱり嫌われてるんだな」と思っていた。


 でも今は違う。


 彼女がそう言う理由を、少しだけ知ってしまっている。


 他人のふりをする。


 昨夜、凛音はそう言っていた。


 だから俺は、できるだけ軽く笑った。


「じゃあ、先に行く」


「ええ」


 鞄を持って玄関へ向かう。


 靴を履き、ドアノブに手をかけたところで、凛音が後ろから言った。


「高坂くん」


「ん?」


 振り返る。


 凛音はリビングの入り口に立っていた。


 制服姿で、相変わらず綺麗で、相変わらず無表情。


 けれど、その指先がわずかにスカートの端を握っていた。


「……行ってらっしゃい」


 一瞬、時間が止まった。


 行ってらっしゃい。


 たったそれだけの言葉。


 でも、同居初日の翌朝に言われるには、十分すぎる威力だった。


 俺は返事をするのに少し遅れた。


「……行ってきます」


 そう言うと、凛音はほんのわずかに目を伏せた。


「うん」


 その「うん」が小さくて、柔らかくて。


 俺は逃げるように部屋を出た。


 エレベーターに乗り、扉が閉まった瞬間、壁に額を軽くぶつけた。


「無理だろ……」


 好きになるな。


 恋愛感情禁止。


 ただの同居人。


 全部わかっている。


 わかっているのに、朝から「行ってらっしゃい」は反則だ。


 こんなもの、心臓が持つわけがない。


     ◇


 学校に着くと、凛音はいつもの氷室凛音に戻っていた。


 廊下ですれ違っても、軽く会釈するだけ。


 声はかけない。


 周囲の生徒たちは、いつも通り彼女に視線を奪われている。


「今日も氷室さん、綺麗だな」


「話しかける勇気はないけどな」


「あのオーラ、同じ高校生とは思えん」


 そんな声が聞こえる。


 俺は知らないふりをして、自分の教室へ向かった。


 同じ家から来たこと。


 今朝、一緒に朝食を食べたこと。


 彼女が俺に「行ってらっしゃい」と言ったこと。


 誰も知らない。


 もちろん俺も顔に出してはいけない。


「高坂、おはよー」


 クラスメイトの佐野が手を上げる。


「おはよう」


「なんか眠そうだな」


「そうか?」


「目の下。夜更かし?」


「まあ、ちょっと」


「ゲーム?」


「いや、寝たふり」


「は?」


「なんでもない」


 危ない。


 脳がまだ通常運転に戻っていない。


 昼休み。


 俺は購買でパンを買おうとして、財布を忘れたことに気づいた。


「最悪だ……」


 朝、緊張しすぎて机の上に置いてきたらしい。


 弁当もない。


 これは昼抜きか。


 そう思っていたとき、後ろから静かな声がした。


「高坂くん」


 振り向くと、凛音が立っていた。


 廊下の一角。


 周囲に生徒はいる。


 凛音が俺に声をかけたことで、いくつかの視線がこちらに向いた。


「氷室さん?」


「これ」


 彼女は小さな紙袋を差し出した。


「忘れ物」


「え?」


「財布。玄関に置いてあった」


 俺は目を丸くした。


「え、わざわざ持ってきてくれたの?」


「たまたま見つけただけ」


「でも、学校で渡したら……」


「誰かに見られると困るから、早く受け取って」


「あ、うん。ありがとう」


 紙袋を受け取る。


 中には確かに俺の財布が入っていた。


 助かった。


 本当に助かった。


 けれど、それ以上に問題なのは。


「……」


「……」


 凛音が俺を見ている。


 周囲も見ている。


 学校では必要以上に親しくしない。


 そのルールが頭をよぎる。


 俺はできるだけ自然に言った。


「助かった。ありがとう、氷室さん」


「別に」


 凛音は踵を返そうとした。


 その瞬間、紙袋の中から何かが落ちた。


 小さな包み。


 拾い上げると、それは手作りらしいサンドイッチだった。


「……これは?」


 俺が聞くと、凛音の顔が固まった。


 完全に固まった。


 周囲の視線がさらに増える。


「それは」


「財布じゃないよな」


「……余っただけ」


「余った?」


「朝、作りすぎたの」


「氷室さんが?」


「何か問題?」


「いや、ないけど」


「なら食べればいいでしょう」


 声は冷たい。


 でも、耳が赤い。


 俺はもう、そのサインを知っている。


 知ってしまっている。


「ありがとう」


「だから、余っただけ」


「うん。助かる」


「勘違いしないで」


「しないよ」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶん?」


 凛音がじっと俺を見る。


 俺は慌てて言い直した。


「しない。絶対しない」


「ならいい」


 凛音はそれだけ言って、すぐに廊下の向こうへ歩いていった。


 残された俺は、紙袋とサンドイッチを手に立ち尽くす。


 周囲の生徒たちの視線が刺さる。


 そして佐野が、いつの間にか隣に立っていた。


「高坂」


「なんだ」


「今の何?」


「財布」


「いや、財布にサンドイッチはついてこないだろ。現代の財布すごすぎるだろ」


「余ったらしい」


「氷室さんの手作りが?」


「たぶん」


「お前、いつの間に氷室さんとそんな関係に?」


「そんな関係じゃない」


 俺は即答した。


 即答しなければならなかった。


 でも、その声が少し強すぎたせいで、佐野は余計に目を細めた。


「ふーん」


「なんだよ」


「いや、別に」


 佐野はにやにやした。


「高坂、お前さ」


「違う」


「まだ何も言ってない」


「違うから」


「だから何が?」


「全部」


「怪しすぎるだろ」


 俺は返す言葉に困った。


 正確には、全部違わない。


 同じ家に住んでいる。


 朝食も一緒に食べた。


 昨夜、凛音が俺の部屋に来た。


 そして今、手作りサンドイッチをもらった。


 だが、どれも説明できない。


 説明した瞬間、終わる。


 俺はサンドイッチの包みを見つめた。


 綺麗に切られた三角形。


 中身は卵とハム、それから少しだけレタス。


 俺の好きな組み合わせだった。


 もちろんこれも、母さん情報ということになるのだろう。


 たぶん。


 たぶん、そういうことにしておいた方がいい。


     ◇


 放課後。


 家に帰る時間は、凛音と少しずらす約束だった。


 俺は図書室で時間を潰してからマンションに戻った。


 玄関を開けると、リビングから物音がした。


「ただいま」


 そう言うと、少し間があった。


 それから凛音の声が返ってくる。


「……おかえり」


 昨日より、少しだけ自然だった。


 俺は靴を脱ぎながら、口元が緩みそうになるのを必死にこらえた。


 リビングに入ると、凛音がテーブルでノートを広げていた。


 勉強中らしい。


 しかし、俺が入った瞬間、彼女はさっと何かをノートの下に隠した。


「今、何隠した?」


「何も」


「明らかに隠したけど」


「気のせい」


「そんなに速い気のせいある?」


「ある」


「強引だな」


 凛音は無表情のまま、ノートを閉じた。


 気になる。


 かなり気になる。


 でも、無理に見るのはだめだ。


 俺たちはまだ、そこまで踏み込める関係ではない。


「サンドイッチ、ありがとう」


 俺が言うと、凛音の指がぴくりと動いた。


「余っただけ」


「美味しかった」


「……そう」


「卵、少し甘めだったよな。俺、あれ好き」


「知ってる」


「……母さん?」


「お母様」


「そっか」


 同じやり取り。


 でも、そのあと凛音がほんの少し俯いた。


「本当に、美味しかった?」


「うん」


「残さなかった?」


「全部食べた」


「そう」


 凛音はノートに視線を落とした。


「なら、よかった」


 小さな声だった。


 それだけで、今日一日の疲れが全部どこかへ行った気がした。


 夕食を終え、風呂に入り、部屋に戻る。


 昨日と同じ夜。


 でも、俺は昨日とは違っていた。


 布団に入っても、すぐには目を閉じられない。


 なぜなら、考えてしまうからだ。


 今夜も来るのか。


 凛音は、また俺の部屋に来るのか。


 来てほしいと思っている自分がいる。


 同時に、来たら今度こそ心臓が危ないとも思う。


 俺は枕を抱えて寝返りを打った。


「……寝よう」


 寝たふりではなく、本当に寝よう。


 そうすれば何も問題はない。


 もし凛音が来ても、俺は知らないままでいられる。


 そう思って目を閉じた。


 しかし、眠気はなかなか来なかった。


 一時間くらい経ったころ。


 廊下の床が、小さく鳴った。


 来た。


 俺は反射的に呼吸を整えた。


 まただ。


 また寝たふり耐久戦が始まる。


 扉が、静かに開く。


 甘いシャンプーの匂い。


 近づいてくる足音。


 そして、ベッドの横で止まる気配。


 昨日と同じ。


 でも、俺の心臓は昨日よりずっとうるさかった。


「……寝てる?」


 凛音の声。


 俺は答えない。


 凛音は少し間を置いてから、小さく呟いた。


「今日、サンドイッチ……美味しいって言ってくれた」


 その声が、嬉しそうで。


 俺は胸の奥を掴まれたような気がした。


「よかった……」


 凛音が息を吐く。


「作りすぎたって嘘、変じゃなかったかな」


 変だった。


 かなり変だった。


 でも嬉しかった。


「本当は、朝から高坂くん用に作っただけなのに」


 知っていた。


 いや、正確には薄々そうだと思っていた。


 でも本人の口から聞くと、破壊力が違う。


「……明日も作ったら、迷惑かな」


 迷惑なわけがない。


 俺は叫びたかった。


 毎日でも食べたい。


 でも、言えるわけがない。


 凛音はまた、布団を少し直した。


 そのとき、俺の手が布団の外に出ていたらしい。


 彼女が気づいた。


「手、冷たそう」


 凛音の指先が近づいてくる。


 昨日と同じように、途中で止まるのかと思った。


 だが今夜は違った。


 ほんの一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 凛音の指先が、俺の手の甲に触れた。


 温かかった。


 俺は全身に力が入りそうになるのを必死にこらえた。


 凛音もすぐに手を離す。


「……触っちゃった」


 小さな声。


「ごめん」


 謝るくらいなら、触れなければいい。


 そう思うのに。


 俺はもう、その一瞬の温度を忘れられそうになかった。


「でも、少しだけだから」


 凛音は誰に言い訳するでもなく呟いた。


「少しだけなら、許して」


 俺は寝たふりを続けた。


 続けるしかなかった。


 すると、凛音が急に慌てたような声を出した。


「……え」


 なんだ。


 俺は目を開けないまま、意識だけを集中させる。


 凛音が何かを取り出したような音。


 スマホだろうか。


 画面の明かりが、まぶた越しに少しだけわかった。


「通知……今?」


 凛音が小声で呟く。


 その直後。


 ぽすん、と何か軽いものが布団の上に落ちた。


 俺の手のすぐ近く。


 たぶん、スマホ。


 凛音が息を呑んだ。


 俺も息を止めかけた。


 まずい。


 このままだと、拾うときに彼女が近づく。


 いや、それ以前に、画面がこっちを向いている気配がする。


 俺は薄く、ほんの薄く目を開けた。


 バレない程度に。


 本当に、まつ毛の隙間から少しだけ。


 そして見えた。


 スマホの画面。


 ロック画面に表示された写真。


 それは――中学時代の俺だった。


 図書室で、本を抱えて笑っている俺。


 俺自身も覚えていないような、少し昔の俺。


 凛音のスマホの待ち受け画像が。


 俺だった。


 目を閉じた。


 すぐに閉じた。


 しかし、もう遅い。


 見てしまった。


 完全に見てしまった。


「……だめ」


 凛音が震える声で言った。


「これは、見られたら死ぬ」


 俺は布団の中で、心の底から同意した。


 見た側も、わりと死にそうだ。


 凛音は慌ててスマホを拾い上げる。


 足音が後ずさる。


「……おやすみ、高坂くん」


 昨日よりもずっと早口だった。


 扉が閉まる。


 静寂。


 俺は布団の中で、ゆっくりと目を開けた。


 天井が見える。


 でも、頭の中にはさっきの画像しか浮かばない。


 中学時代の俺。


 凛音のスマホ。


 待ち受け。


「……母さん情報じゃないよな、これは」


 誰もいない部屋で、俺は小さく呟いた。


 そしてその夜も、俺はなかなか眠れなかった。

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