第1話 絶対に好きにならないでね
父さんが真顔で変なことを言い出すときは、たいていろくなことがない。
たとえば小学生のころ、「男なら一度はキャンプだ」と言って、俺を真冬の河川敷に連れていったときもそうだった。結果、テントの張り方を間違えて夜中に崩壊し、俺たちは車の中で震えながらカップ麺を食べた。
中学二年の夏、「人生経験だ」と言って町内会の盆踊り大会の司会を押しつけてきたときもそうだ。俺はマイクの電源が入っていることに気づかず、「焼きそば食いてえ」と全町内に放送した。
だから、今朝。
朝食の味噌汁を飲んでいた俺に向かって、父さんが妙に改まった顔で、
「悠真。お前、今日からしばらく女の子と暮らすことになった」
と言った瞬間、俺は味噌汁を気管に入れた。
「ごほっ、ごほっ……な、なに言ってんの?」
「女の子と暮らすことになった」
「聞こえなかったわけじゃないんだよ。聞こえたから困ってるんだよ」
父さんは悪びれもせず、焼き鮭の骨を器用に外している。
俺の母さんはというと、いつも通りの穏やかな笑みで漬物を小皿に移していた。つまり、止める気はない。むしろ共犯者側の顔だった。
「相手は氷室さんのところのお嬢さんだ」
「氷室?」
その名字を聞いた瞬間、箸を持つ手が止まった。
氷室。
俺の通っている私立桜峰学園で、その名字を知らない生徒はいない。
氷室凛音。
学年トップクラスの成績。整いすぎた顔立ち。腰まで届きそうな黒髪。いつも背筋が伸びていて、声をかけるだけでこちらが緊張してしまうような、近寄りがたい雰囲気。
学校では、誰が言い出したのか知らないが、彼女はこう呼ばれている。
氷の令嬢。
本人の前でそんな呼び方をする命知らずはいないけれど、それでも誰もが納得してしまうくらい、氷室凛音は冷たく見える美少女だった。
そして俺、高坂悠真は。
その氷の令嬢に、中学のころから片想いしている。
「……いや、待って。氷室って、氷室凛音のこと?」
「そうだ」
「学校の?」
「そうだ」
「うちの学年の?」
「そうだ」
「俺の知ってる?」
「お前が何人氷室凛音さんを知ってるのか、父さんは逆に知りたい」
父さんが味噌汁をすすった。
俺はもう味噌汁どころではない。
「なんで? なんで俺が氷室さんと暮らすの?」
「向こうのご両親がしばらく海外に行くことになってな。凛音さんの生活環境の都合もある。それに、うちも今、母さんが来月から親戚の店を手伝う件があるだろう」
「それと俺が女の子と同居する話は、だいぶ距離があると思うんだけど」
「親同士が昔からの知り合いなんだ。お互い信用できる家で、生活の面倒を見合う。そういう話だ」
「寮とか、親戚の家とか、他にもあるだろ」
「もちろん本人の意思も確認済みだ」
そこで、母さんがやっと口を開いた。
「悠真。嫌なら断っていいのよ?」
優しい声だった。
けれど、その目は言っていた。
断れるものなら断ってみなさい、と。
この家の本当の権力者は、昔から母さんである。
「……氷室さんは、いいって言ったの?」
「ええ。条件付きでね」
「条件?」
母さんはにっこり笑った。
「恋愛感情を持ち込まないこと」
その一言で、俺の心臓が変な音を立てた。
恋愛感情を、持ち込まないこと。
つまり、相手は最初からそういう可能性を潰しにきている。
俺は茶碗の白米を見つめた。急に味がしなくなった。
中学のころ、図書室で一度だけ氷室さんと話したことがある。
たった数分だった。
彼女が高い棚の本を取ろうとしていて、届かなそうだったから、俺が代わりに取った。それだけのことだ。
ありがとう、と彼女は言った。
その声が、妙に耳に残った。
その日から、俺は彼女を目で追うようになった。
別に、何かできたわけじゃない。
告白なんて当然できないし、同じクラスになったこともない。廊下ですれ違っても、挨拶する勇気すらなかった。
ただ、遠くから見ているだけだった。
そんな相手と、今日から暮らす。
普通なら天国みたいな話かもしれない。
けれど、最初から「恋愛感情禁止」と釘を刺されているなら、話は別だ。
これは夢ではない。
拷問だ。
「悠真」
父さんが真面目な顔になる。
「勘違いするなよ。向こうは大切なお嬢さんだ。お前に変な期待をしているわけじゃない。ただ、学校も同じだし、生活のリズムも近い。お互いに都合がいい。それだけだ」
「わかってるよ」
わかっている。
わかっているから、苦しい。
俺は味噌汁の椀を置いた。
「で、いつから?」
「今日から」
「急すぎるだろ!」
「若いうちは適応力だ」
「その言葉で片づけていい規模の話じゃないんだよ!」
父さんは笑っていた。
母さんも笑っていた。
俺だけが笑えなかった。
なぜなら俺は、これから自分の片想い相手と、恋愛感情を隠したまま同居しなければならないからだ。
どう考えても、人生の難易度設定がおかしい。
◇
放課後。
俺は指定されたマンションの前に立っていた。
駅から少し離れた、落ち着いた住宅街にある高層マンション。エントランスには観葉植物が並び、自動ドアの向こうにはホテルみたいなロビーが見える。
正直、俺の家とは空気の値段が違った。
「……本当にここで合ってるのか」
スマホに送られてきた住所を何度も確認する。
間違っていない。
父さんいわく、ここは氷室家が所有している部屋の一つらしい。しばらく使っていなかった場所を、今回の同居用に整えたのだそうだ。
いや、同居用にマンションの一室を整えるってなんだ。金持ちの発想は、たまに日本語なのに理解できない。
エントランスで部屋番号を押すと、少し間があってからインターホンが繋がった。
『……はい』
冷たい、けれど澄んだ声。
聞き間違えるはずがない。
「高坂です」
『開けます』
短い返事のあと、自動ドアが開いた。
その瞬間、なぜか背筋が伸びた。
エレベーターに乗り、指定された階で降りる。廊下は静かで、足音だけがやけに大きく響いた。
部屋の前に立つ。
インターホンを押すより先に、扉が開いた。
そこにいたのは、氷室凛音だった。
学校の制服姿ではない。
白いブラウスに、淡いグレーのロングスカート。髪はいつもより少し柔らかく下ろされていて、学校で見るときよりもずっと近い距離にいる。
そのせいで、顔の整い方が暴力みたいに伝わってきた。
綺麗だ。
心の中でそう思って、すぐに自分を殴りたくなった。
今日から俺は、この人を好きになってはいけない。
いや、正確にはもう好きなのだけれど、それを絶対に表に出してはいけない。
「遅かったのね」
凛音はいつもの無表情で言った。
「ご、ごめん。電車が少し遅れて」
「知ってる。桜峰線、十七分遅延していたから」
「……調べたの?」
「同居人の帰宅時間を把握するのは、生活管理として当然でしょう」
「そ、そうかな」
「そうよ」
ばっさりだった。
彼女は横に避ける。
「入って」
「お邪魔します」
「今日からここがあなたの家でもあるのだから、その言い方は少し変」
「じゃあ……ただいま?」
口に出した瞬間、凛音のまつ毛がわずかに揺れた。
けれど、それは本当に一瞬だけだった。
「……好きにすれば」
低い声でそう言って、彼女は廊下の奥へ歩いていく。
俺は靴を脱ぎながら、胸の奥を押さえた。
まずい。
今の「ただいま」だけで、だいぶまずい。
リビングに入ると、広い空間が広がっていた。
大きすぎないソファ。木目のテーブル。白いカーテン。余計なものがなくて、けれど生活感がまったくないわけでもない。
部屋の片隅には、未開封の段ボールがいくつか積まれていた。俺の荷物もすでに運び込まれているらしい。
「あなたの部屋はそっち」
凛音が廊下の奥を指差す。
「家具は最低限そろっている。足りないものがあれば言って。共用スペースはリビング、キッチン、洗面所、浴室。冷蔵庫の中身は一応確認しておいて。勝手に使っていいものと、私のものを分けてあるから」
「あ、ありがとう」
「それと」
彼女はテーブルの上に一枚の紙を置いた。
そこには、几帳面な文字でこう書かれていた。
『同居契約ルール』
俺は思わず紙を見つめる。
「……本格的だな」
「当然でしょう。曖昧なまま暮らすと、互いに不快な思いをする可能性があるもの」
「まあ、それはそうだけど」
「確認して」
言われるまま、俺はルールを読む。
一、互いの私室には許可なく入らない。
二、学校では必要以上に親しくしない。
三、家事は分担制。ただし得意不得意に応じて調整可。
四、生活費は両家で折半。個人の嗜好品は各自負担。
五、恋愛感情を持ち込まない。
五番目で、目が止まった。
紙の上の文字が、やけに濃く見えた。
「そこ、重要だから」
凛音が言った。
顔を上げると、彼女はまっすぐ俺を見ていた。
冷たい瞳。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「高坂くん」
「なに?」
「絶対に、私を好きにならないでね」
呼吸が、半分だけ止まった。
知っていた。
朝、母さんから聞いていた。
それでも本人の口から言われると、破壊力が違った。
しかも彼女は、まるで事務連絡のような顔をしている。
「……わかってる」
俺はなんとか笑った。
笑えていたかは、自信がない。
「俺も、氷室さんに迷惑かけるつもりはないから」
「そう」
「ただの同居人、だろ?」
「ええ。ただの同居人よ」
その言葉は、正しい。
正しすぎて、胸に刺さった。
凛音は少しだけ視線を外した。
「それと、私のことは学校と同じでいいから」
「氷室さん?」
「ええ。私もあなたを高坂くんと呼ぶ」
「わかった」
距離を保つための呼び方。
そう考えれば納得できる。
けれど、なぜだろう。
ほんの一瞬だけ、彼女が残念そうに見えた。
いや、気のせいだ。
俺の願望がそう見せているだけだ。
「夕食は?」
凛音が急に聞いてきた。
「え?」
「食べるでしょう。今日は初日だから、こちらで用意してある」
「あ、うん。助かる」
「苦手なものは入れていないつもり」
「苦手なもの?」
「ピーマン。あと、辛すぎるもの。貝類もあまり得意じゃないでしょう」
「……なんで知ってるの?」
思わず聞いてしまった。
凛音は一瞬だけ固まった。
本当に一瞬だった。
けれど、俺は見逃さなかった。
「事前に聞いたから」
「誰に?」
「あなたのお母様」
「母さん、そんなことまで話したのか」
「生活に必要な情報だから」
「そっか」
納得しかけて、また引っかかる。
俺が貝類を苦手なのは、家族でも最近はあまり気にしていない。昔、潮干狩りで食べ過ぎて具合が悪くなって以来、なんとなく避けている程度だ。
母さんがそこまで細かく覚えているだろうか。
いや、覚えているか。母親だし。
俺は無理やり自分を納得させた。
凛音はキッチンに立った。
「手伝うよ」
「いい。座っていて」
「でも、用意してもらうだけって悪いし」
「あなたは移動してきたばかりでしょう。今日はいい」
「いや、料理はできるから。手伝わせて」
そう言うと、凛音がこちらを見た。
「……料理、できるの?」
「一応。家では俺が作ることも多かったし」
「そう」
彼女は少し考えてから、冷蔵庫を開けた。
「じゃあ、味噌汁をお願い」
「了解」
「豆腐は絹。ネギは薄め。出汁はそこ。味噌は合わせ味噌。あなたは濃すぎる味噌汁より、少し薄めの方が好きでしょう」
「だからなんで知ってるの?」
「……お母様」
「母さん、俺の味噌汁の好みまで外部共有してるのか」
「生活に必要な情報だから」
二回目だった。
凛音は表情を変えない。
けれど、よく見ると耳が少し赤い気がした。
いや、気のせいだ。
氷の令嬢の耳が赤くなるなんて、そんな都合のいいことがあるわけがない。
俺たちは並んでキッチンに立った。
同じ空間に、氷室凛音がいる。
包丁で野菜を切る音。
鍋の湯気。
味噌を溶く香り。
普通の夕飯の準備なのに、俺には全部が非日常だった。
「高坂くん」
「ん?」
「その鍋、火が強い」
「あ、悪い」
「あと、ネギ」
「ネギ?」
「厚い」
「厳しいな」
「味噌汁のネギは薄い方がいい」
「氷室さんの好み?」
「……あなたの好みでしょう」
言ってから、凛音が動きを止めた。
俺も止まった。
今、確かに彼女は言った。
あなたの好みでしょう、と。
まるで、ずっと前から知っているみたいに。
「……お母様から聞いた」
凛音が先に言い訳した。
「まだ何も言ってないけど」
「顔に出ていた」
「俺、そんな顔してた?」
「してた」
きっぱり言われた。
俺は苦笑して、ネギを薄く切り直した。
夕食は、予想以上に穏やかだった。
凛音は学校で見るよりも少しだけ口数が多かった。とはいえ、普通の人と比べればかなり少ない。
でも、会話が途切れても嫌な沈黙ではなかった。
「おいしい」
俺がそう言うと、凛音の箸が一瞬だけ止まった。
「……そう」
「うん。すごく」
「なら、よかった」
声は平坦だった。
けれど、そのあと彼女が少しだけ俯いて、味噌汁を飲むふりをしたのを俺は見た。
もしかして照れているのか。
いや、ない。
それはさすがに俺の脳が都合よく働きすぎている。
夕食後、食器を洗い、風呂の順番を決め、自分の部屋に荷物を運んだ。
部屋にはベッドと机と本棚が置かれていた。
窓の外には、夜の街灯が見える。
俺はベッドに座り、深く息を吐いた。
「……今日から、ここで暮らすのか」
隣の部屋には、氷室凛音がいる。
ただの同居人。
恋愛感情禁止。
絶対に好きにならないでね。
頭の中で、彼女の声が何度も繰り返される。
俺は枕に顔を埋めた。
「無理だろ、そんなの」
好きになるなと言われて、好きじゃなくなれるなら、そもそも片想いなんて苦労しない。
でも、約束は約束だ。
彼女がそれを望んでいるなら、俺は守らなければならない。
好きだと悟られない。
期待しない。
勘違いしない。
距離を保つ。
この同居を壊さない。
俺は何度も自分に言い聞かせた。
やがて部屋の明かりを消し、布団に入る。
緊張して眠れる気がしなかった。
けれど、知らない天井をぼんやり見つめているうちに、少しずつ意識が沈んでいく。
そのときだった。
かすかな音がした。
扉の向こう。
廊下の床が、ほんの小さく鳴った。
俺は目を閉じたまま、息を止める。
気のせいかと思った。
でも、次の瞬間。
俺の部屋のドアノブが、ゆっくりと回った。
心臓が跳ねた。
え。
誰。
いや、この部屋に来る可能性がある人間なんて一人しかいない。
扉が、ほんの少しだけ開く。
廊下の薄明かりが、細い線になって部屋に差し込んだ。
俺は反射的に寝たふりをした。
なぜ寝たふりをしたのか、自分でもわからない。
ただ、この状況で「起きてるけど?」と言えるほど、俺の心臓は強くなかった。
静かな足音。
ゆっくり、近づいてくる。
ベッドの横で、誰かが立ち止まった。
甘いシャンプーの匂いがした。
氷室さんだ。
間違いない。
俺の心臓は、今にも布団を突き破りそうだった。
彼女は何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている気配がする。
時間にすれば、ほんの数秒だったのかもしれない。
でも俺には、永遠みたいに長かった。
やがて、凛音が小さく息を吐いた。
学校で聞く声とは、まるで違う。
柔らかくて、頼りなくて、少し震えているような声だった。
「……本当に、いる」
俺は動けなかった。
凛音はベッドのそばにしゃがみ込んだらしい。
布団の端が、ほんの少しだけ揺れた。
「今日から毎日、一緒なんだ」
その言葉は、夜の部屋に溶けるくらい小さかった。
けれど、俺の耳にははっきり届いた。
冷たいはずの氷室凛音が。
俺を好きになるなと言った彼女が。
まるで大切な秘密を確かめるみたいに、そんな声で呟いた。
俺は目を閉じたまま、呼吸の仕方を忘れかけていた。
そして彼女は、さらに小さく言った。
「……どうしよう。嬉しい」
その瞬間。
俺の中で、今日一日かけて必死に積み上げた覚悟が、音もなく崩れた。




