第9話 距離が近い
「凛音」
「……はい」
「いや、返事が固い」
「急に呼ぶから」
「さっき、家ではその呼び方でいいって」
「言ったけど」
凛音はオムライスの皿を両手で持ったまま、テーブルの前で止まっていた。
顔は赤い。
耳も赤い。
それなのに、表情だけは必死に平静を保とうとしている。
たぶん本人の中では、今も“氷の令嬢”としての最低限の威厳を保っているつもりなのだろう。
だが、エプロン姿でオムライスを持ったまま、名前を呼ばれて硬直している時点で、威厳はだいぶ行方不明だった。
「嫌なら戻すけど」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ、凛音」
「……はい」
「やっぱり返事が固い」
「慣れてないの」
「俺も慣れてない」
「高坂くんが言い出したのに」
「それはそう」
俺は皿を受け取りながら、内心でかなり動揺していた。
凛音。
たった三文字。
それを口にするだけで、部屋の温度が少し変わった気がする。
もちろん、ただの呼び方だ。
同じ家に住んでいるのだから、名字より名前の方が自然かもしれない。
そういう理屈はいくらでもつけられる。
でも実際に呼んでみると、理屈では済まなかった。
距離が一気に縮まった。
玄関からリビングまでの距離が、突然半分になったみたいな感覚。
今まで「氷室さん」と呼ぶことで保っていた薄い壁が、名前一つで少し崩れた。
「……高坂くん」
「ん?」
「その」
凛音は自分の席に座り、スプーンを手に取った。
けれど、まだオムライスには手をつけない。
「私も、家では呼び方を変えた方がいい?」
俺は息を止めかけた。
来た。
ついに来た。
昨夜、寝言に近い形で聞いてしまった呼び方。
悠真くん。
あれを、起きている凛音の口から聞くことになるのか。
まずい。
聞きたい。
でも聞いたらたぶん死ぬ。
主に俺が。
「無理しなくていいよ」
俺はできるだけ平静に答えた。
「急に変えると、凛音も困るだろ」
言ってから、しまったと思った。
二回目の凛音。
凛音はスプーンを握ったまま、ぴたりと止まった。
「……今、自然に呼んだ」
「ごめん」
「謝らなくていい」
「でも、固まってる」
「心の準備をしていなかっただけ」
「呼ぶたびに準備がいるのか?」
「最初は必要」
「じゃあ、予告する?」
「それはそれで困る」
「難しいな」
「難しいわ」
凛音はようやくオムライスを一口食べた。
さっき少し破れてしまった卵の部分を、俺がケチャップで妙なくまにしてごまかしたやつだ。
彼女はしばらく黙って咀嚼していた。
俺は少し不安になる。
「どう?」
「……おいしい」
小さな声だった。
でも、ちゃんと聞こえた。
「よかった」
「卵、少し破れたけど」
「味は変わらないだろ」
「でも、見た目が」
「俺はこのくま、けっこう好きだけど」
「変なくまなのに?」
「変だからいいんじゃないか?」
凛音は皿の上のケチャップくまを見た。
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「高坂くんらしい」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんか」
「褒めてる」
言い直した声が少し柔らかくて、俺は返事に困った。
名前呼びを解禁したせいだろうか。
いつもの会話なのに、妙に近い。
いや、実際に近いのかもしれない。
テーブルを挟んで向かい合っているだけなのに、凛音の表情の変化がいつもよりよく見える。
スプーンを持つ指先。
考えるときに少しだけ伏せる目。
照れたときに視線を逃がす癖。
この数日で知ったことが、またひとつずつ増えていく。
「高坂くん」
「ん?」
「食べないの?」
「あ、食べる」
「冷めるわ」
「はい」
スプーンを取って一口食べる。
卵は少し火が入りすぎているところもあるが、十分うまい。むしろ、凛音が真剣に作ったと思うと、余計にうまく感じる。
「おいしい」
「本当に?」
「本当に」
「破れてても?」
「破れてても」
「くまが変でも?」
「くまは俺のせいだろ」
「そうだった」
凛音がまた少し笑った。
危ない。
この笑顔に慣れるのは危険だ。
慣れたら、もっと見たくなる。
もっと笑わせたくなる。
そうなると、ただの同居人ではいられなくなる。
もうだいぶ怪しいけれど。
◇
夕食後、俺たちは並んで食器を洗った。
俺が洗い、凛音が拭く。
この役割も、もう自然になってきた。
最初は肩が触れそうになるだけで息が止まりそうだったのに、今は少しだけ慣れている。
少しだけだ。
完全には無理だ。
だって横にいるのは凛音である。
「凛音、そっちの皿お願い」
「……はい」
「やっぱり固い」
「だから、急に呼ぶと」
「今のは作業連絡だろ」
「作業連絡でも、名前は名前」
「じゃあ、皿をお願い」
「それだと誰に言っているかわからない」
「二人しかいないけど」
「正確性は大切」
凛音はまじめな顔で皿を受け取った。
でも、耳は赤い。
俺は水を止め、少しだけ笑った。
「高坂くん」
「はい」
「笑ってる」
「笑ってない」
「口元」
「真剣」
「嘘」
同じやり取りを、たぶん何回もしている。
それなのに飽きない。
不思議だ。
学校では一言も話さないよう気をつけているのに、家ではこんなに普通に会話している。
秘密の関係。
そう言うと少し大げさだが、実際、俺たちは秘密を共有している。
同居していること。
朝食を一緒に食べていること。
夕飯を作り合っていること。
停電の日に手を繋いだこと。
そして今、名前で呼ぶことを許されたこと。
どれも学校では言えない。
だから余計に、家の中だけが特別になる。
「このあと、どうする?」
皿をしまいながら俺が聞くと、凛音は少し考えた。
「勉強」
「さすが」
「高坂くんもするでしょう」
「まあ、少しは」
「寝不足なんだから、早めに終わらせた方がいい」
「母親みたいだな」
「同居人としての生活管理」
「便利な言葉だな、同居人」
「便利ではなく、正確」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
凛音は満足そうに頷いた。
その仕草が、少しだけ得意げに見えた。
◇
リビングのテーブルで勉強することになった。
別々の部屋でやればいいのに、なぜか自然とそうなった。
凛音は数学の問題集を広げ、俺は英語の課題を開く。
最初はちゃんと集中していた。
少なくとも、俺は集中しようとしていた。
しかし、同じテーブルで凛音が勉強しているというだけで、集中力はじわじわ削られていく。
ページをめくる音。
シャープペンの先が紙を滑る音。
考え込むときに、凛音が少しだけ髪を耳にかける仕草。
全部が気になる。
俺は英文を読んでいるはずなのに、頭に入ってくるのは隣の音ばかりだった。
「高坂くん」
「ん?」
「この英文、さっきから同じところを見ている」
「え?」
「五分くらい」
「……よく見てるな」
「視界に入るから」
「そっか」
「集中できない?」
「いや、できる」
「無理しなくていいわ」
「大丈夫」
そう言って英文に目を戻す。
三行読んだところで、凛音が小さく言った。
「……私も、少し集中できない」
俺は顔を上げた。
「凛音が?」
「名前」
「え?」
「呼ばれると、頭に残る」
彼女は問題集を見たまま言った。
顔は横を向いている。
でも、耳は赤い。
「だから、少しだけ集中できない」
反則だった。
それを本人が言うのは、完全に反則だった。
「じゃあ、しばらく呼ばない方がいい?」
「それは」
凛音はペンを止めた。
「……少し寂しい」
俺は完全に固まった。
今、普通に本音が出た。
昼間の凛音なら絶対に言わないような言葉。
夜に寝ている俺へ向けてしか言えなかったはずの言葉。
それが、今は起きている状態でこぼれている。
「凛音」
「……なに」
「今の、すごく可愛い」
言った瞬間、俺は自分を殴りたくなった。
何を言っているんだ。
自然に出すぎだろ。
凛音はというと、完全に停止していた。
シャープペンを持ったまま、一ミリも動かない。
「……高坂くん」
「はい」
「そういうのは」
「うん」
「急に言わないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「いいけど?」
「……もう一度言われたら、勉強できなくなる」
俺は英語の教科書を閉じた。
「休憩するか」
「逃げた」
「正解」
「高坂くん」
「はい」
「私も休憩する」
凛音も問題集を閉じた。
結局、勉強時間は短かった。
でも、たぶん今日の俺たちにはこれが限界だった。
◇
休憩ということで、二人でソファに座った。
そこで新たな問題が発生した。
距離である。
以前の同居契約ルールでは、同じソファに座る場合はクッション一つ分の距離を保つことになっていた。
しかし、今のリビングのソファにはクッションが一つしかない。
しかも、そのクッションは今、凛音が胸元に抱えている。
つまり、距離の目安がない。
「……どうする?」
俺が聞くと、凛音はクッションを抱えたまま、ソファの端に座っていた。
「何が?」
「距離」
「距離」
「クッション一つ分って決めたけど、クッションがそこにある」
「これは防御用」
「防御?」
「……なんとなく」
凛音はクッションを抱きしめたまま、視線を逸らした。
俺は反対側の端に座った。
結果、かなり距離がある。
「これだと遠くない?」
「遠い」
「いいの?」
「……よくはない」
「じゃあ、少し寄る?」
「高坂くんが?」
「俺が」
「私が?」
「凛音がでも」
名前を呼んだ瞬間、凛音の肩が跳ねる。
クッションがぎゅっと潰れた。
「……では、少しだけ」
彼女はほんの少しこちらに寄った。
本当に少し。
たぶん五センチくらい。
「少しすぎないか?」
「少しと言ったでしょう」
「確かに」
「高坂くんも少し寄ればいい」
「わかった」
俺も五センチくらい寄る。
すると凛音がまた五センチ寄る。
なぜか無言の距離詰め合戦になった。
最終的に、二人の間にはクッション一つ分より少し狭い距離が残った。
肩は触れない。
でも、少し動けば触れる。
かなり危険な距離だった。
「何見る?」
俺はテレビのリモコンを持つ。
「料理番組」
「この時間やってるかな」
「録画がある」
「いつの間に」
「生活に必要な情報収集」
「料理番組も生活管理なのか」
「そう」
凛音は真面目に頷いた。
テレビをつけると、録画された料理番組が始まった。
テーマは手軽な弁当のおかず。
凛音は真剣に見ている。
俺も見ているふりをした。
だが、やはり隣が気になる。
クッションを抱えたまま、少し前のめりでテレビを見る凛音。
料理の手順になると、目が真剣になる。
卵焼きのコツが紹介されると、小さく「なるほど」と呟く。
たぶん、明日のサンドイッチか弁当に活かすつもりなのだろう。
「凛音」
「なに?」
「料理、好きなの?」
「……最近は」
「最近?」
「食べてくれる人がいると、少し楽しい」
まただ。
今日は本音がこぼれやすい。
名前呼びが解禁されたせいで、凛音の中の鍵が少し緩んでいるのかもしれない。
「そっか」
「高坂くんは?」
「俺も、食べてくれる人がいると楽しいよ」
「そう」
「明日は俺が朝食作ろうか?」
「朝は私の担当」
「でも、たまには」
「私の担当」
「そこは譲らないんだ」
「譲らない」
凛音はクッションを抱いたまま、きっぱり言った。
「朝、行ってらっしゃいを言う前に、ちゃんと食べてほしいから」
その言葉のあと、凛音は自分で固まった。
俺も固まった。
テレビの中では、料理研究家が明るく卵焼きを巻いている。
現実のリビングでは、二人の高校生が完全に止まっている。
「……今のは」
凛音が小さく言った。
「同居人として」
「うん」
「生活リズムの維持」
「うん」
「それ以上の意味は」
「わかってる」
「本当に?」
「本当に」
俺は頷いた。
でも、心の中では全然わかっていなかった。
わかっているふりをしているだけだ。
たぶん凛音も、それに気づいている。
それでも今は、互いに深く追及しない。
その距離が、心地よくて、もどかしい。
番組が終わる頃、俺は少し伸びをした。
その拍子に、肩が凛音の肩に触れた。
ほんの一瞬。
凛音が固まる。
俺も固まる。
「ごめん」
「……別に」
「痛かった?」
「痛くない」
「離れる?」
「……必要ない」
小さな声だった。
俺はそのまま動けなくなった。
肩が触れるか触れないかの距離。
たったそれだけ。
なのに、手を繋いだときと同じくらい心臓が騒ぐ。
凛音はテレビを見ているふりをしていた。
でも、視線が少し揺れている。
クッションを抱く手に力が入っている。
俺は思った。
こんなの、新婚夫婦みたいじゃないか。
いや、夫婦っぽいことは禁止だ。
そう決めたばかりだ。
けれど、禁止したところで、日常は勝手に近づいてくる。
朝食。
夕飯。
皿洗い。
勉強。
ソファ。
名前呼び。
一つ一つはただの日常なのに、好きな人と一緒だと全部が特別になる。
◇
夜。
凛音が先に風呂に入った。
俺はリビングで教科書を開いていたが、ほとんど内容が入ってこなかった。
今日は距離が近すぎた。
名前呼び。
オムライス。
勉強中の「少し寂しい」。
ソファで肩が触れたこと。
全部が頭の中でぐるぐる回っている。
シャワーの音が止まり、しばらくして凛音がリビングに戻ってきた。
風呂上がりの彼女は、髪をゆるくまとめ、淡い色の部屋着を着ていた。
学校の凛音とも、エプロン姿の凛音とも違う。
家の中だけの姿。
俺は視線を逸らした。
「上がったのか」
「ええ」
「じゃあ、俺も入る」
「うん」
できるだけ普通に立ち上がる。
普通に。
絶対に動揺を見せない。
そう思いながら、自分の部屋へ着替えを取りに行った。
しかし、部屋に入ったところで気づく。
「……あれ?」
部屋着にしているシャツがない。
椅子の背にかけておいたはずだ。
洗濯に出したか?
いや、今日はまだ出していない。
念のためクローゼットを見てもない。
ベッドの上にもない。
「どこやったっけ」
首を傾げながら廊下に出る。
洗面所かと思って向かったが、そこにもない。
リビングに戻りかけたところで、凛音の部屋のドアが少しだけ開いているのが見えた。
中から小さな声が聞こえる。
「……落ち着く」
俺は足を止めた。
聞き覚えのある声。
凛音だ。
そして、その言葉にも覚えがある。
停電の夜、俺の袖を掴んで寝ぼけていたときと同じ。
俺は嫌な予感と、妙な期待が同時に胸に湧くのを感じた。
いや、見るな。
人の部屋を勝手に覗くのはだめだ。
そう思った。
でもドアは開いている。
声は聞こえている。
そして俺のシャツが見当たらない。
まさか。
いや、そんな。
俺は廊下で数秒迷ったあと、小さく声をかけた。
「凛音?」
部屋の中で、何かが止まった。
完全な静寂。
「俺のシャツ、知らない?」
返事がない。
「凛音?」
さらに一歩近づいた瞬間、開いたドアの隙間から中が見えた。
凛音が、ベッドの上で固まっていた。
風呂上がりの髪を少し濡らしたまま。
そして両手で、俺のシャツを抱きしめていた。
顔を半分うずめるようにして。
その姿のまま、彼女は俺を見た。
俺も彼女を見た。
時間が止まる。
凛音の顔が、ゆっくり、ゆっくり赤くなっていく。
「……これは」
彼女の声は震えていた。
「違うの」
何がどう違うのか。
俺には、まだわからなかった。




