第54話 恋人一日目の朝
目が覚めた瞬間、俺は天井を見つめたまま固まった。
いつもの天井。
いつもの朝。
目覚ましが鳴る少し前の、まだ部屋の空気が静かな時間。
何も変わっていないはずだった。
なのに、胸の奥だけが明らかに昨日までと違っていた。
「……恋人」
小さく呟いた。
自分で言って、自分で布団をかぶりたくなった。
昨日、俺と凛音は契約を改定した。
『互いを恋愛対象として意識しない』
その古いルールには取り消し線が引かれた。
そして、新しいルールが書かれた。
『互いを大事にする。ただし学校では節度を守る』
『恋人として、少しずつ』
『でも、逃げない』
文字にして残した。
あれは夢ではない。
凛音は俺を好きだと言ってくれた。
俺も凛音に好きだと言った。
そして俺たちは、恋人になった。
……なった、はずだ。
「恋人一日目、か」
言葉にすると、急に現実味が増した。
恋人一日目。
何をすればいいのかは、まだよくわからない。
ただ、朝ご飯を食べる。
学校へ行く。
学校では名字呼び。
家では、名前。
たぶん、それだけだ。
それだけのはずなのに、俺はベッドから起き上がるだけで妙に緊張していた。
◇
リビングへ行くと、キッチンから甘い匂いがした。
味噌汁の匂い。
焼き魚の匂い。
そして、卵焼きの匂い。
ただし、今日の卵焼きの匂いは、いつもより甘い気がした。
「おはよう」
俺が声をかけると、凛音が振り返った。
制服にエプロン。
髪はきれいに整えている。
見た目はいつもの凛音だ。
でも、目が合った瞬間、彼女の頬がふわっと赤くなった。
「……おはよう」
そこで一度、凛音は言葉を止めた。
俺も止まった。
次が来るとわかったからだ。
凛音はお玉を持ったまま、少しだけ視線を落とした。
それから、小さく息を吸う。
「おはよう、悠真くん」
朝から、名前だった。
昨日までも何度か呼ばれていた。
でも、恋人になってから初めての朝に言われると、威力が違った。
「……おはよう、凛音」
俺も返す。
凛音は味噌汁をよそう手を一瞬止めた。
耳まで赤い。
「今のは」
「うん」
「恋人として、通常の挨拶をしただけ」
「うん」
「特別な意味を足しすぎないで」
「いや、もうかなり特別だろ」
「悠真くん」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
凛音はそこで、少しだけ目を伏せた。
「……嬉しいから、困る」
その言葉を聞いて、俺の胸が温かくなる。
恋人になっても、凛音は凛音のままだ。
真面目で、照れ屋で、言い訳が少し長くて、嬉しいと言う前に困ると言う。
でも、前よりちゃんと嬉しいと言ってくれる。
それだけで、朝の空気が甘くなる。
テーブルにつくと、朝食が並んでいた。
ご飯。
味噌汁。
焼き鮭。
ほうれん草のおひたし。
そして卵焼き。
明らかに、いつもより色艶がいい。
いや、卵焼きに色艶という表現が正しいのかはわからない。
でも、今日はそう見えた。
「いただきます」
「どうぞ」
一口食べる。
甘い。
かなり甘い。
過去最高と言っていいくらい甘い。
俺は箸を止めた。
凛音がこちらを見る。
「……何?」
「卵焼き」
「うん」
「甘い」
凛音の肩がびくっと揺れた。
「……砂糖の量を間違えたの」
「凛音が?」
「間違えることもあるわ」
「昨日も似たようなこと言ってなかったか」
「今日は、昨日より少しだけ」
「少し?」
「……かなり」
凛音は観念したように視線を落とした。
「朝から少し落ち着かなかったから」
「俺も」
「悠真くんも?」
「うん。恋人一日目だから」
言った瞬間、凛音は箸を置いた。
「その単語は危険」
「恋人?」
「そう」
「でも、そうだろ?」
「そう、だけど」
凛音は両手で湯飲みを持つ。
そして、かなり真剣な顔で言った。
「まだ、処理が追いついていないの」
「感情処理?」
「ええ」
「それは俺も」
「同じ?」
「同じ」
そう言うと、凛音は少しだけ安心したように息を吐いた。
「なら、よかった」
「よかったのか?」
「私だけが朝から変なのかと思ったから」
「俺もかなり変だぞ」
「……そう」
凛音は少しだけ笑った。
その笑顔が、恋人になって初めての朝に見る笑顔だと思うと、また胸が忙しくなる。
俺は卵焼きをもう一口食べた。
甘い。
でも、うまい。
「甘いけどうまい」
「本当に?」
「本当に」
「甘すぎない?」
「いや、甘い」
「……正直ね」
「でも好きな味」
凛音が完全に固まった。
俺も自分で言ってから少し照れた。
「卵焼きの話」
凛音がすぐに言う。
「うん。卵焼きの話」
「でも」
「でも?」
「……言われて、嬉しい」
今度は困るより先に、嬉しいと言った。
俺は箸を持ったまま動けなくなる。
凛音は赤くなりながらも、目を逸らしすぎないようにしていた。
逃げない。
昨日、紙に書いた通りだ。
俺も、ちゃんと受け止める。
「俺も、嬉しい」
「何が?」
「凛音が嬉しいって言ってくれるのが」
「……悠真くんは、朝から強い」
「凛音の名前呼びも十分強い」
「公平?」
「公平」
二人でそんなことを言って、少し笑った。
恋人一日目の朝食は、予想よりずっと甘かった。
主に卵焼きと、会話が。
◇
朝食の片づけを終えると、いつもの登校準備の時間になった。
ここからが問題だった。
家の中では恋人。
でも、学校ではまだ秘密。
少なくとも、堂々と恋人として振る舞うわけにはいかない。
そもそも、俺たちは契約結婚の同居生活自体を周囲に隠している。
そこで恋人になったなどと言ったら、情報量が多すぎて佐野と白川さんが爆発する。
いや、爆発はしないだろうが、絶対に詰められる。
凛音は玄関で鞄を肩にかけながら、ものすごく真剣な顔をしていた。
「悠真くん」
「うん」
「確認します」
「はい」
「学校では、高坂くんと氷室さん」
「はい」
「家では、名前呼び」
「はい」
「ただし、無理のない範囲」
「はい」
「学校で名前が出そうになったら、深呼吸して言い直す」
「はい」
「はいは一回」
「今のは項目ごとの返事」
「……それは、まあ」
凛音は少しだけ頷いた。
それから、玄関のドアを見つめる。
「学校では秘密」
「うん」
「恋人だと、まだ言わない」
「うん」
「態度にも出しすぎない」
「それが一番難しいかもしれない」
「悠真くんは、顔に出るから」
「凛音も耳に出る」
「……お互い、危険ね」
「かなり」
凛音は深呼吸した。
「高坂くん」
「もう学校モード?」
「練習」
「氷室さん」
「……うん」
「学校ではこれで」
「ええ」
そこで、少し沈黙が生まれた。
今から俺たちは、恋人なのに恋人ではない顔をして学校へ行く。
昨日までと同じように。
でも、もう昨日までとは違う。
「行ってくる」
俺が言うと、凛音は一瞬だけ寂しそうな顔をした。
同じ家から出るのに、時間をずらす。
いつものことだ。
でも、恋人一日目の今日は、それが少しだけ寂しい。
「……行ってらっしゃい」
凛音が言った。
そこで終わると思った。
けれど彼女は、小さく付け足した。
「悠真くん」
不意打ちだった。
俺はドアノブに手をかけたまま固まる。
「今のは」
凛音はすぐに言った。
「家の中だから」
「うん」
「玄関は家だから」
「うん」
「学校に出たら、高坂くん」
「わかってる」
「反応しすぎ」
「無理だろ」
凛音は少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ、もう一度」
「え?」
「言い直すわ。学校モードで」
凛音は背筋を伸ばした。
「行ってらっしゃい、高坂くん」
「行ってきます、氷室さん」
名字で呼び合った瞬間、妙に距離ができた。
でも、その距離はもう冷たくない。
学校で守るための距離。
二人の秘密を大事にするための距離だ。
俺はドアを開けた。
廊下に出る直前、もう一度だけ振り返る。
凛音は小さく手を振った。
ほんの少し。
学校では絶対にしないような、家だけの仕草。
それだけで、胸が温かくなった。
◇
学校へ着くと、佐野は一目で何かを察した。
最悪である。
「高坂」
「何」
「お前、昨日何かあったな」
「何もない」
「嘘が早い」
「今日もそれか」
「いや、今日は顔が別格」
「別格って何だよ」
「恋人一日目みたいな顔」
心臓が止まるかと思った。
こいつはエスパーか。
俺はできるだけ平静を装い、席に座る。
「意味がわからない」
「わかりやすい反応ありがとう」
「反応してない」
「した」
佐野はにやにやしている。
でも、声は小さい。
周囲に聞かれないようにはしてくれている。
そこだけはありがたい。
「ま、詳しくは昼に聞くわ」
「聞くな」
「じゃあ放課後」
「聞くな」
「その反応がもう答えなんだよな」
佐野は楽しそうに自分の席へ戻った。
駄目だ。
学校では秘密。
初日から難易度が高すぎる。
廊下で凛音とすれ違ったのは、二時間目の休み時間だった。
いつものように会釈だけ。
そのはずだった。
目が合う。
一秒。
凛音の耳が赤くなる。
俺もたぶん顔が赤くなる。
会釈。
通過。
それだけ。
それだけなのに、後ろの方で白川さんが「あー」と小さく呟いた気がした。
聞かなかったことにした。
◇
昼休み、佐野の追及は予想通りだった。
「で、何があった?」
「何も」
「高坂、お前は今日から『何も』の発音禁止な」
「理不尽」
「顔が全部言ってる」
「具体的には?」
「昨日までのジレジレと違って、今日の顔は確定後」
「探偵かよ」
「恋愛相談の佐野だから」
「それ、まだ続いてたのか」
「続いてる」
佐野はパンを食べながら、少しだけ真面目な顔をした。
「まあ、言いたくないなら聞かないけど」
「本当か?」
「今は」
「信用できない」
「でも、よかったな」
その一言が、妙にまっすぐだった。
俺は返事に詰まる。
「何が?」
「何かは知らんけど」
「知らないのかよ」
「でも、お前がそういう顔してるなら、たぶんいいことだろ」
佐野は笑った。
からかい半分、祝福半分。
そんな顔だった。
「……まあ」
俺は小さく言った。
「いいことは、あった」
「おー」
「大声出すな」
「出してない。心の中で胴上げしてる」
「やめろ」
佐野は声を殺して笑った。
友人というのは、本当に少し面倒で、かなりありがたい。
◇
凛音の方も、白川さんから逃げられなかったらしい。
放課後、帰宅してから彼女が言った。
「白川さんに、顔が恋人初日だと言われたわ」
俺は思わず鞄を落としそうになった。
「佐野も似たようなこと言ってた」
「……情報共有していないのに?」
「してないはずだよな」
「私たち、そんなに顔に出ているの?」
「たぶん」
「危険ね」
「かなり」
二人でリビングに立ったまま、同時にため息をついた。
学校では秘密。
初日から前途多難すぎる。
「でも」
凛音が言った。
「何?」
「秘密にするのは、嫌ではないわ」
「そうなのか?」
「うん」
凛音は少しだけ頬を赤くした。
「家に帰ると、名前で呼べるから」
その一言で、俺は動けなくなる。
今日、何度目だろう。
凛音の不意打ちが強すぎる。
「凛音」
「何?」
「好きだ」
自然に出た。
凛音は真っ赤になった。
でも、逃げなかった。
「……私も、好き」
小さな返事。
恋人一日目の夕方。
学校では名字で隠して、家では名前で少しずつ近づく。
どうやら俺たちは、しばらくこの難しい秘密生活を続けることになりそうだった。




