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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第55話 学校では、まだ高坂くんと氷室さん

 恋人になったからといって、学校のチャイムが特別な音に変わるわけではない。


 教室の机はいつも通りだし、黒板もいつも通りだし、担任の朝の連絡もいつも通り少し長い。


 だけど、俺の中だけはまったくいつも通りではなかった。


 斜め前の席の女子がプリントを配っている。


 窓際では佐野があくびをしている。


 廊下を歩く足音が聞こえる。


 そんな何でもない日常の中で、俺は何度も自分に言い聞かせていた。


 学校では、高坂くんと氷室さん。


 学校では秘密。


 家では、悠真くんと凛音。


 ……駄目だ。


 最後を思い出しただけで顔が熱くなる。


「高坂」


 隣から佐野の声が飛んできた。


「何」


「お前、今日も顔がうるさい」


「昨日も言ってなかったか、それ」


「昨日よりうるさい」


「顔は喋らない」


「お前の顔は喋るし、今日は校内放送くらい音量ある」


「嫌すぎる」


 俺は教科書を開くふりをして視線を逸らした。


 すると佐野は机に肘をつき、声を落とした。


「で、昨日何があった?」


「何も」


「その『何も』は昨日使用禁止にしただろ」


「お前に禁止される筋合いはない」


「じゃあ言い方を変える。おめでとう」


 心臓が止まりかけた。


 俺は教科書のページをめくる手を止める。


「……何が」


「何か」


「知らないのに祝うな」


「知らないけど、祝った方がいい顔してる」


「顔で全部判断するな」


「だって顔に出てるから」


 佐野はにやにやしていた。


 けれど、その目はからかいだけではなかった。


 昨日の「よかったな」と同じで、どこか本気で安心しているような顔だった。


「言いたくないなら聞かない」


「本当か?」


「今は」


「やっぱり信用できない」


「でもさ」


 佐野は少しだけ真面目な声になった。


「氷室さん、今日も学校では氷室さんなんだろ?」


「……当たり前だろ」


「じゃあ、ちゃんと守れよ」


「わかってる」


「お前、顔に出るから」


「それはもう何回も聞いた」


「あと、うっかり名前呼びしそう」


「しない」


「本当に?」


「しない」


「じゃあ、氷室さんの下の名前言ってみ?」


「言わない」


「お、学習してる」


「お前の誘導に乗るか」


 佐野は笑った。


 そのあと、窓の外をちらっと見てから言う。


「まあ、隠すなら隠し通せよ。中途半端にすると、氷室さんが困る」


 その一言だけは、まっすぐ胸に入ってきた。


「……わかってる」


「ならいい」


「お前、たまにちゃんと友人だな」


「普段も友人だろ」


「普段は探偵と野次馬の間くらい」


「ひどい評価だな」


「正確だろ」


「便利ではなく正確、ってやつか」


「それ、もう言うな」


 俺が本気で嫌そうに言うと、佐野は肩を揺らして笑った。


     ◇


 問題は、凛音の方も同じだったらしい。


 二時間目の休み時間。


 廊下で凛音とすれ違った。


 いつもの一秒会釈。


 それだけ。


 俺たちは学校でそう決めている。


 目が合う。


 凛音の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 昨日までなら、それだけでも危険だった。


 今日はもっと危険だった。


 なぜなら、その目が「恋人を見る目」になっている気がしたからだ。


 いや、俺の気のせいかもしれない。


 たぶん気のせいではない。


 凛音はすぐに表情を戻した。


 学校の氷室凛音。


 冷静で、隙がなくて、必要以上に人と距離を詰めない彼女。


 だけど耳が少し赤い。


 完全に出ている。


 俺もたぶん出ている。


「……高坂くん」


 凛音が小さく言った。


 学校用の呼び方。


 それだけで、なぜか胸が鳴った。


「氷室さん」


 俺も返す。


 名字で呼び合うだけなのに、そこに秘密がある。


 家では違う呼び方をしている。


 互いに好きだと言った。


 恋人になった。


 それを誰にも言わず、廊下でただ名字を呼ぶ。


 それだけの行為が、妙に甘く感じた。


「体調は」


 凛音が言いかけて、少しだけ止まる。


 学校では、あまり心配しすぎると不自然だ。


 でも心配してしまう。


 そのせめぎ合いが、一瞬で顔に出ていた。


「大丈夫」


 俺は短く答えた。


「昨日も今日も問題ない」


「……そう」


 凛音は少しだけ安心したように目を伏せた。


 その瞬間だった。


 背後から、明るい声がした。


「凛音」


 白川沙耶。


 終わった。


 いや、何もしていない。


 していないのに、なぜか終わった気がした。


 白川さんはにこにこしながら近づいてきて、俺と凛音を交互に見た。


「おはよう、高坂くん」


「おはよう、白川さん」


「凛音、顔赤いよ」


「赤くないわ」


「耳」


「気のせい」


「気のせいで耳って赤くなるんだっけ?」


「なる場合もあるわ」


「へえ」


 白川さんは楽しそうに笑った。


 凛音は無表情を保っている。


 保っているつもりなのだろう。


 けれど、俺から見るとかなり限界だった。


「高坂くんも、顔赤いね」


「俺も?」


「うん。二人して朝から何かあった?」


「何も」


 俺と凛音の声が重なった。


 最悪だった。


 白川さんの笑顔が、さらに深くなる。


「息ぴったり」


「偶然です」


 凛音が即答する。


「私、何も言ってないのに敬語になってるよ」


「……白川さん」


「はいはい。今日はここまでにしておくね」


 今日は。


 白川さんはそう言った。


 つまり明日以降もあるということだ。


 去り際、彼女は俺の方を見て、声を落とした。


「高坂くん」


「何?」


「凛音を困らせすぎないでね」


「……わかってる」


 そう答えると、白川さんは少しだけ優しい顔をした。


「ならよし」


 そして凛音の腕を軽く引いて、廊下の先へ連れていった。


 凛音は一度だけこちらを振り返った。


 ほんの一瞬。


 学校では氷室さん。


 それでも、その視線は完全に凛音だった。


     ◇


 昼休み。


 佐野の追及は当然のように始まった。


「白川さんから聞いた」


「何を」


「廊下で二人して『何も』ってハモったって」


「情報共有早すぎるだろ」


「外堀連絡網だからな」


「何だよそれ」


「お前らの幸せを見守る会」


「設立するな」


「会員二名」


「少ないのに厄介」


 佐野はパンをかじりながら笑った。


「で、本当に何かあったんだろ」


「……」


「お、沈黙」


「言えない」


「言えない、か」


 佐野は意外にも、それ以上すぐには踏み込んでこなかった。


 ただ、少しだけ表情を和らげる。


「じゃあ、言えるようになったらでいい」


「……珍しいな」


「俺だって、踏み込んでいい線くらいは見る」


「普段から見てくれ」


「普段はギリギリを攻める」


「やめろ」


「でも、高坂」


 佐野は声を少し低くした。


「顔が幸せそうだから、まあいいんじゃね?」


 何も返せなかった。


 幸せ。


 その言葉が、今の自分にあまりにも当てはまりすぎていたからだ。


「……そう見えるか」


「めちゃくちゃ」


「そんなに?」


「めちゃくちゃ」


「隠せてないな」


「全然」


 佐野はあっさり言った。


「氷室さんも?」


「たぶん白川さんが同じこと言ってる」


「だろうな」


 俺はため息をついた。


 学校では秘密。


 まだ高坂くんと氷室さん。


 そのつもりなのに、周囲にはもうかなり漏れている。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 困る。


 かなり困る。


 けれど、完全に嫌ではない。


 凛音がいつも言っていた感覚が、少しわかった気がした。


     ◇


 凛音の昼休みも、ほぼ同じ状況だった。


「凛音」


「何」


「昨日、何かあったね」


「何もないわ」


「その何もないって、もう聞き飽きたかも」


「事実だから」


「凛音、事実って顔してない」


 沙耶は弁当を食べながら、楽しそうに言った。


 凛音は平静を装ってお茶を飲む。


 しかし、湯飲みではなくペットボトルなのに、なぜか両手で持ってしまっていた。


 家で悠真と話すときの癖が出ている。


 それに気づいて、さらに恥ずかしくなる。


「顔が恋人初日」


 沙耶が言った。


 凛音は完全に停止した。


「……白川さん」


「何?」


「その言葉は危険」


「危険ってことは、当たってる?」


「当たっていないわ」


「じゃあ、惜しい?」


「……」


「沈黙」


「白川さんは、佐野くんに似てきたわ」


「えー、それ昨日も言われた気がする」


「褒めていない」


「知ってる」


 沙耶は笑ったあと、少しだけ声を柔らかくした。


「でも、凛音」


「何?」


「嬉しそうだよ」


 凛音は返事ができなかった。


 嬉しい。


 それは否定できない。


 昨日の夜、悠真と好きだと言い合った。


 恋人になった。


 契約を改定した。


 朝、恋人一日目の挨拶をした。


 学校では秘密にしているのに、その秘密すら少し甘い。


「……嬉しいのは」


 凛音は小さく言った。


「悪いことではないでしょう」


 沙耶の目が丸くなった。


 そして、すぐに笑顔になる。


「うん。悪くない。すごくいい」


「でも、学校では」


「名字呼び?」


「ええ」


「高坂くんと氷室さん?」


「そう」


「家では?」


 凛音は沈黙した。


 沙耶はにこにこしている。


 追及されている。


 かなりされている。


 でも、不思議と前ほど嫌ではない。


「……家では、秘密」


「そっか」


「言わないわ」


「うん。聞かないでおく」


「本当に?」


「今日は」


「白川さん」


「でも、よかったね」


 唐突だった。


 凛音は沙耶を見る。


 彼女はからかっていなかった。


「凛音が嬉しそうで、私も嬉しい」


「……ありがとう」


「ただし、学校では気をつけて。凛音、耳が赤くなるから」


「そんなに?」


「すごく」


「……気をつけるわ」


 凛音は耳に手を当てた。


 もう遅い気がした。


     ◇


 放課後。


 俺と凛音は、いつも通り時間をずらして帰った。


 家に着くと、先に帰っていた凛音がリビングにいた。


「ただいま」


 俺が言うと、凛音は立ち上がった。


「おかえり、悠真くん」


 その一言で、学校の緊張が全部ほどけた。


 名字で呼び合っていた一日が終わり、家に帰ってきたのだと実感する。


「ただいま、凛音」


 そう返すと、凛音は少しだけ頬を赤くした。


 でも、逃げなかった。


「学校、危険だったわ」


「こっちも」


「白川さんに、顔が恋人初日と言われた」


「佐野に、顔が幸せそうだって言われた」


「……かなり出ているのね」


「かなりらしい」


 二人で同時にため息をついた。


 けれど、そのため息のあと、少しだけ笑ってしまう。


「学校では、まだ高坂くんと氷室さん」


 凛音が確認するように言った。


「うん」


「でも、家では」


「悠真くんと凛音」


 凛音は少しだけ目を伏せた。


「……うん」


 その「うん」が、今日一日の中でいちばん柔らかかった。


「悠真くん」


「何?」


「学校で秘密にしている分、家で名前を呼ぶと……少し安心する」


 胸が鳴った。


「俺も」


「本当に?」


「本当に。学校で名字呼びしてると、家に帰ったときの名前呼びがすごく嬉しい」


「……そう」


「だから、秘密も悪くないかもしれない」


「秘密が増えすぎているけれど」


「大事な秘密だから」


 凛音は小さく笑った。


「大事」


「うん」


「その言葉、最近増えたわね」


「凛音のアルバム名から」


「悠真くん」


「ごめん」


「でも」


「うん?」


 凛音は、少し照れながら言った。


「間違ってはいないわ」


 もう、今日はそれで十分だった。


     ◇


 その日の夕方。


 学校の廊下では、佐野と白川沙耶が偶然を装って並んで歩いていた。


 もちろん、偶然ではない。


「どうだった?」


 佐野が小声で聞く。


「凛音、顔が恋人初日だった」


「高坂も」


「やっぱり?」


「やっぱり。あれはもう確定どころじゃない」


「うん。確定どころじゃないね」


 二人は顔を見合わせた。


 もはや推理ではない。


 目の前に答えが置かれている状態だった。


「でも、本人たち言わないね」


 沙耶が言う。


「まあ、言わないだろ。あの二人だし」


「隠したいなら、まだ見守る?」


「だな。変に突くと高坂が逃げる」


「凛音も固まる」


「じゃあ、ほどほどに」


「ほどほどに、からかう?」


「そこはやめないんだな」


「少しだけ」


 沙耶は笑った。


 佐野も笑う。


「でもさ」


 佐野が窓の外を見ながら言った。


「よかったな、あいつら」


「うん」


 沙耶は素直に頷いた。


「よかった」


 本人たちはまだ、学校では高坂くんと氷室さんを続けている。


 けれど、友人たちにはもうほとんど隠せていなかった。


 それでも、二人が自分たちのペースで話せるまで、見守る。


 たぶん、それが友人としての距離だった。

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