第53話 好きにならないでね、契約の改定
恋人になった翌朝。
……と言っていいのかどうか、俺は起きてから三分ほど悩んだ。
昨日の夜、俺と凛音は互いに好きだと確認した。
そして、同居契約ルールの紙にまで書いた。
『互いに、好きであることを確認済み』
『恋人として、少しずつ』
『でも、逃げない』
文字にすると、かなりすごい。
昨日の夜はそれを見て、二人で固まった。
固まったあと、凛音は真面目な顔で言った。
「厳重管理が必要ね」
と。
恋人になって最初にする会話が、厳重管理。
俺たちらしいと言えば、かなり俺たちらしい。
けれど、その紙を思い出すだけで、朝から胸が忙しかった。
リビングへ行くと、凛音はキッチンにいた。
いつも通り制服にエプロン。
いつも通りの味噌汁の匂い。
いつも通りの朝。
……では、なかった。
凛音は振り返った瞬間、完全に固まった。
俺も固まった。
たった「おはよう」を言うだけなのに、昨日までとは意味が違う。
「……おはよう」
先に言ったのは俺だった。
凛音は少しだけ視線を落とし、それから小さく答えた。
「おはよう、悠真くん」
名前。
朝から名前。
しかも、恋人になったあとの名前呼び。
破壊力が以前とは比べものにならなかった。
「……おはよう、凛音」
「二回目?」
「いや、返したかった」
「そう」
凛音は耳まで赤くしながら、味噌汁をよそった。
「朝食、できているわ」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
その短いやり取りだけで、もう十分に甘い。
これで一日もつのか不安になる。
テーブルに並んだ朝食は、ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、ほうれん草のおひたし。
いつものメニューなのに、卵焼きだけ少し厚い。
いや、気のせいかもしれない。
でも、たぶん気のせいではない。
一口食べる。
甘い。
いつもより明らかに甘い。
「凛音」
「何?」
「卵焼き、甘くない?」
凛音の箸が止まった。
「……砂糖の分量を、少し間違えたの」
「凛音が?」
「間違えることもあるわ」
「昨日の影響?」
「……朝食中に危険な話題を出さないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
そこで凛音は、少しだけ目を伏せた。
「嬉しいから、困る」
まだその言葉は残っている。
でも昨日までとは違う。
もう、好きだとわかっている相手に言われる「嬉しいから困る」だ。
俺は味噌汁を飲み、なんとか落ち着こうとした。
落ち着けなかった。
◇
朝食を終えたあと、凛音はいつもの同居契約ルールの紙をテーブルへ持ってきた。
昨日の夜に書き足した部分を見て、二人ともまた少し黙る。
『互いに、好きであることを確認済み』
強い。
何度見ても強い。
「……昨日、本当に書いたのね」
「書いたな」
「夢ではなかったのね」
「夢じゃないよ」
俺がそう言うと、凛音は少しだけ頬を赤くした。
「うん」
その返事が柔らかい。
柔らかすぎて、朝のリビングが危険な空間になっている。
凛音は紙の上の古いルールを指で示した。
「今日は、この部分を見直したいの」
「最初の方?」
「ええ」
そこには、同居を始めた日に書いたルールが残っていた。
『互いを恋愛対象として意識しない』
『必要以上に近づかない』
『夜間の接触禁止』
今見ると、かなり無理がある。
特に一行目。
完全に破綻している。
「これ、もう守れてないな」
「守れていないわね」
「というか、最初から守れてたのか?」
俺が何気なく言うと、凛音の手が止まった。
少しだけ視線が泳ぐ。
これは何かある。
「凛音?」
「……最初から、守れていなかったかもしれない」
小さな声だった。
「どういう意味?」
凛音はペンを置き、両手を膝の上で握った。
昨日の告白のときと少し似た姿勢。
「最初に、言ったでしょう」
「好きにならないでね、って?」
「……うん」
その言葉を口にすると、凛音は明らかに恥ずかしそうにした。
「あれは、本当にひどい言い方だったと思っているわ」
「俺は、かなり真に受けた」
「そうよね」
「だから、凛音に嫌われないようにしようって思ってた」
「……嫌っていないのに」
「それは昨日、知った」
「遅すぎるわ」
「言ったのは凛音だろ」
「そうだけど」
凛音は少しだけ唇を尖らせた。
その表情が可愛くて、少し笑いそうになる。
でも、今は大事な話だ。
「本当は、どういう意味だったんだ?」
俺が聞くと、凛音は深呼吸した。
「本当は」
「うん」
「悠真くんに、これ以上私を好きにさせないでほしかった」
「……え?」
「違うわ。言い方が変ね」
凛音は自分で少し混乱したように首を振る。
「私が、これ以上悠真くんを好きになるのが怖かったの」
昨日も聞いた言葉。
でも、こうして改めて聞くと、また胸に来る。
「あの時点で、もう?」
「……うん」
凛音は、顔を赤くしながらも頷いた。
「中学の頃から、少しずつ気になっていた。ちゃんと話したことが多かったわけではないけれど、悠真くんが人に気づかれないところで手伝っていたり、面倒くさそうにしながら結局最後までやったりするところを見ていたから」
「そんなところ見られてたのか」
「見ていたわ」
「気づかなかった」
「気づかれないようにしていたから」
凛音は少しだけ目を伏せた。
「だから、契約結婚の話が出たとき、私はかなり動揺したの」
「そうだったのか」
「表には出さなかったけど」
「出てなかったな」
「出したら、終わると思ったから」
「何が?」
「私の心臓が」
「そこか」
「大事な問題よ」
凛音は真面目だった。
俺は少し笑った。
凛音も、ほんの少しだけ笑う。
「それで、好きにならないでねって言ったのか」
「ええ」
「あれは」
「うん」
「自分に言ってた?」
凛音は、少し驚いたように俺を見た。
それから、ゆっくり頷いた。
「そうかもしれない」
「凛音が、俺を好きになりすぎないように?」
「……うん」
「それ、無理だったな」
凛音は完全に赤くなった。
「悠真くん」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しい?」
「……嬉しい」
最近、凛音はちゃんと「嬉しい」と言う。
困るより先に。
それが嬉しくて、俺はまた胸がいっぱいになった。
「俺も、実は最初から凛音が好きだった」
今度は俺が言う番だった。
凛音の目が大きくなる。
「最初から?」
「うん。契約の前から」
「……いつから?」
「たぶん、入学してすぐくらい」
「そんなに?」
「そんなに」
凛音は完全に固まってしまった。
俺は少し照れながら続ける。
「凛音、学校では近寄りがたいって言われてたけど、俺はずっと気になってた」
「どこが?」
「人に見られていないところで、ちゃんと優しいところ」
「私が?」
「うん」
「そんなところ、あった?」
「あるよ。落とし物を拾って、持ち主が恥ずかしくないように黙って机に置いてたり。文化祭の準備で誰も気づいてないミスを、先生に報告する前に自分で直してたり」
「……見ていたの?」
「見てた」
凛音は両手で顔を覆った。
「お互い、見すぎ」
「たしかに」
「怖いわ」
「でも、嬉しいだろ?」
俺が聞くと、凛音は顔を覆ったまま小さく頷いた。
「……かなり」
その声が可愛くて、今度こそ少し笑ってしまった。
「笑った?」
「嬉しくて」
「なら、許す」
「許された」
凛音は手を下ろした。
まだ赤いけれど、表情は柔らかい。
「じゃあ」
「うん」
「私たち、最初から両片思いだったのね」
「そうなるな」
「かなり遠回りしたわ」
「でも、その遠回りがなかったら、今みたいにはならなかったかも」
「……そうね」
凛音は古いルールを見つめた。
その目は、恥ずかしそうで、少し懐かしそうだった。
◇
契約改定会議が始まった。
凛音がそう呼んだわけではない。
俺が「会議みたいだな」と言ったら、凛音が「大事な契約改定だから」と真顔で返したのだ。
なので、これは契約改定会議である。
凛音はペンを持ち、古いルールの横に小さく印をつけた。
「旧ルールは、現状と矛盾しているわ」
「かなり」
「だから、改定が必要」
「旧ルール、消す?」
俺が言うと、凛音はすぐには答えなかった。
紙をじっと見つめている。
『互いを恋愛対象として意識しない』
どう考えても守れていない。
だが、この一文があったからこそ、俺たちは長い間すれ違って、焦れて、近づいてきた。
凛音も同じことを思っているのか、少しだけ目を細めた。
「消すのは、少し寂しい」
「寂しい?」
「恥ずかしいけれど」
「うん」
「これはこれで、思い出だから」
胸が温かくなった。
凛音は、過去の不器用さまで大事にしようとしている。
冷たい言葉だった。
勘違いの原因だった。
でも、それすら今の俺たちには思い出になっている。
「じゃあ、取り消し線だけ引く?」
「それがいいわ」
凛音は丁寧に、旧ルールに一本線を引いた。
消すのではなく、残す。
過去として。
そして、その下に新しいルールを書く。
「新ルールは?」
俺が聞くと、凛音は少し考えた。
「互いを大事にする」
「いいな」
「ただし、学校では節度を守る」
「それも大事だな」
「名前呼びは家の中を基本とする」
「佐野と白川さん対策?」
「ええ」
「強い」
凛音は真剣に頷いた。
そして紙に書いた。
『新:互いを大事にする。ただし学校では節度を守る』
書いたあと、二人でその文字を見つめた。
恋愛対象として意識しない、から。
互いを大事にする、へ。
たった一文なのに、ずいぶん遠くまで来た気がした。
「凛音」
「何?」
「俺、凛音を大事にする」
凛音はペンを持ったまま固まった。
「……契約文の確認?」
「うん。でも、本気で」
「悠真くんは、そういうことをすぐ言う」
「恋人だから、言っていいかと思って」
「恋人」
凛音はその単語に反応してまた赤くなる。
「まだ慣れないな」
「慣れないわ」
「でも、嫌じゃない?」
「嫌ではない」
「嬉しい?」
凛音は視線を落とした。
それから、小さく言った。
「嬉しい」
俺は満足した。
かなり。
「凛音は?」
「私?」
「俺を大事にしてくれる?」
凛音は、少しだけ真面目な顔になった。
「もちろん」
即答だった。
「悠真くんを、大事にする」
言葉が、まっすぐ届いた。
俺は何も言えなくなった。
凛音は少しだけ照れたように目を伏せる。
「契約文の確認だから」
「そうだな」
「でも、本気で」
「うん」
互いを大事にする。
かなり簡単な言葉なのに、今の俺たちには一番しっくりきた。
◇
改定作業が終わったあとも、凛音は古いルールをじっと見ていた。
取り消し線の引かれた一文。
『互いを恋愛対象として意識しない』
凛音はそこを指先でなぞり、少しだけ困ったように笑った。
「最初の私、かなり無理をしていたのね」
「俺も、かなり無理してた」
「悠真くんも?」
「うん。凛音を好きにならないようにしようって思ってた」
「できた?」
「できるわけない」
凛音は、驚いたように俺を見た。
それから、少しだけ笑った。
「私も」
「できなかった?」
「できるわけなかった」
同じ言葉だった。
それだけで、笑ってしまう。
凛音も笑った。
あの頃の俺たちは、真剣に距離を取ろうとしていた。
でも、取れなかった。
むしろ、取ろうとすればするほど意識した。
今なら笑える。
その全部が、恋人になるまでの遠回りだったから。
「この紙、どうする?」
俺が聞くと、凛音はすぐに答えた。
「残すわ」
「厳重管理?」
「もちろん」
「どこに?」
「例の写真と同じくらい大事なものだから」
凛音はそこまで言って、自分で赤くなった。
「……今のは」
「うん」
「かなり大事、という意味で」
「わかってる」
「本当に?」
「うん。嬉しい」
「悠真くんは、何を言っても嬉しいと言う気がする」
「凛音が言うからな」
「ずるい」
「恋人だから」
「その言葉もずるい」
凛音はそう言ったけれど、口元は少し笑っていた。
俺は新旧ルールが並んだ紙を見つめる。
契約で始まった同居。
でも今は、自分たちで関係を選び直している。
親同士の都合でもなく。
最初の利害一致だけでもなく。
俺たちが、俺たちの意思で。
「凛音」
「何?」
「これからも、必要ならルールを変えよう」
「ええ」
「そのたびに、ちゃんと話して」
「うん」
「逃げずに」
「……うん」
凛音は、紙の最後に小さく書き足した。
『必要に応じて、二人で話して改定する』
その一文が、やけに俺たちらしかった。
「契約夫婦なのに、契約を恋人仕様に改定してるな」
「契約夫婦で、恋人だから」
凛音は真面目に言った。
そして、言ってから顔を赤くした。
「今の、かなりすごいこと言ったな」
「言わないで」
「ごめん」
「でも」
「うん?」
凛音は紙をそっと折りたたんだ。
「間違ってはいないわ」
その言葉だけで、俺はまた胸がいっぱいになった。




