第52話 両想いになったあと、まず何をすればいい?
手を繋いでいた。
理由は、体温管理ではない。
再発防止でもない。
安全確保でもない。
好きだから。
ついさっき、俺はそう言った。
そして凛音は、その手を取ってくれた。
夜のリビング。
キッチンの小さな灯り。
テーブルの上には水の入ったコップが二つ。
俺と凛音は向かい合うでもなく、隣に座るでもなく、テーブルの角を挟むような中途半端な位置で手を繋いでいた。
両想いになった。
たぶん、そういうことだ。
いや、たぶんではない。
凛音が言った。
俺も言った。
好きだと。
なのに、告白が終わった瞬間、俺たちは完全に止まっていた。
「……悠真くん」
凛音が小さく呼んだ。
「うん」
「このあと、どうするの?」
「どうする、とは」
「その……両想いになったあとは、一般的に何をするの?」
「一般的に?」
「ええ」
凛音は真剣だった。
真剣すぎた。
好きだと言い合って、手まで繋いでいるのに、彼女はまるで新しい家電の説明書を探しているような顔をしている。
でも、その気持ちはわかった。
俺もわからない。
何をすればいいのか、まったくわからない。
少女漫画やラブコメなら、ここで抱き合ったり、甘い言葉を言ったりするのかもしれない。
でも現実の俺たちは、夜中に水を飲みに来た部屋着の高校生二人である。
しかも契約結婚中。
設定だけ見るとかなり複雑だ。
「……とりあえず」
「とりあえず?」
「水、飲む?」
俺が言うと、凛音は数秒黙った。
そして、こくりと頷いた。
「飲むわ」
手を繋いだままだとコップが取れない。
それに気づいた瞬間、二人の視線が繋いだ手へ落ちた。
離すのか。
離さないのか。
それだけのことに、また妙な緊張が走る。
「……一回、離す?」
俺が聞くと、凛音は少しだけ指に力を込めた。
離したくない。
そう言われた気がした。
いや、言われてはいない。
でも、手の力で伝わった。
「水を飲むためには、片手が必要」
凛音は真面目に言った。
「そうだな」
「だから、これは機能上の都合による一時的解除」
「解除」
「手繋ぎ状態の」
「状態異常みたいに言うな」
「異常ではないわ」
凛音は少しだけ赤くなった。
「正常な……交際初期の接触行為」
「交際初期」
その単語の破壊力がすごかった。
俺の手が少し熱くなる。
凛音にも伝わったのか、彼女の顔がさらに赤くなった。
「今のは」
「うん」
「用語として」
「うん」
「客観的に」
「うん」
「悠真くん、またうんうん言ってる」
「聞いてた」
「聞かれると、困る」
それでも、彼女は手をゆっくり離した。
指が離れる瞬間、ほんの少しだけ名残惜しさが残る。
俺はコップを取り、水を飲んだ。
凛音も同じように飲む。
ただの水なのに、やけに冷たく感じた。
「落ち着いた?」
俺が聞くと、凛音はコップを両手で持ったまま答えた。
「少し」
「少しか」
「かなり落ち着いていないけれど、少しは」
「俺も」
「同じね」
「同じだな」
それだけで、少し笑えた。
両想いになっても、俺たちは俺たちのままだ。
困ったら水を飲む。
言葉に詰まったらルールの話になる。
嬉しくても照れる。
照れても逃げきれない。
そんな二人のままだ。
◇
水を飲み終わったあと、凛音は突然、背筋を伸ばした。
「悠真くん」
「うん」
「手続きが必要だと思うの」
「手続き」
「ええ」
「恋愛に?」
「関係性が変わったのだから」
凛音はとても真剣だった。
「これまで私たちは、契約上は夫婦、実態としては同居人、感情的には……」
そこで止まった。
「感情的には?」
「……両片思い」
「自分で言うと恥ずかしいな」
「非常に恥ずかしいわ」
凛音は顔を赤くしながらも続ける。
「でも、今は両片思いではなくなった」
「両想いだな」
「ええ」
「恋人?」
言った瞬間、凛音の動きが止まった。
さっきも言った単語なのに、やはり破壊力があるらしい。
彼女はコップをテーブルに置き、両手を膝の上で握った。
「それを、確認する必要があるのでは」
「確認」
「ええ」
「どうやって?」
「……同居契約ルールの紙」
出た。
俺たちの関係を見守り続けてきた謎の公式文書。
最初は距離を保つためのものだったのに、今では距離が近づくたびに更新されている。
「今から書くのか?」
「書かないと、落ち着かない気がする」
「落ち着くための文書か」
「そう」
「でも、何て書く?」
俺が聞くと、凛音はかなり真剣に考え込んだ。
「……互いに」
「うん」
「互いに、好意を」
そこまで言って、顔が赤くなる。
「確認……」
「済み?」
「……済み」
「『互いに好意を確認済み』?」
「事務的すぎるわ」
「凛音が言い出したんだぞ」
「でも、実際に文字にすると心臓に悪い」
「じゃあ、『両想いになった』?」
凛音は両手で顔を覆った。
「それは直球すぎる」
「好きって言い合ったあとに直球も何も」
「言わないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから?」
「今は、処理が追いつかない」
「処理」
「感情処理」
凛音は顔を覆ったまま言った。
俺は笑いそうになったが、今笑うと怒られそうだったので堪えた。
「じゃあ、紙に書くのは明日にする?」
「明日だと、今日のことが夢だったみたいになる」
「夢じゃないよ」
「わかっているけれど」
凛音は顔を上げた。
目元が少し赤い。
さっきの告白で、ずっと緊張していたのだろう。
「形がほしい」
小さな声だった。
「この気持ちが、ちゃんとあったってわかる形」
その言葉で、胸の奥が静かになった。
ルールだとか手続きだとか、真面目すぎる話に聞こえる。
でも凛音にとって、それはただの形式ではない。
大事なものをなくさないための形なのだ。
写真に『大事』というアルバム名をつけたみたいに。
「じゃあ、書こう」
俺は立ち上がった。
「紙、持ってくる」
「……うん」
リビングの棚から、いつもの同居契約ルールの紙を出す。
最初の方には、今となっては少し笑ってしまうようなルールが並んでいる。
『互いを恋愛対象として意識しない』
『必要以上に近づかない』
『夜間の接触禁止』
その後に、どんどん増えた。
『寝たふり禁止』
『夜に来る場合は声をかける』
『学校では名字呼びを徹底する』
『家での名前呼びは無理のない範囲で練習する』
すべてが、俺たちの足跡だった。
凛音はその紙を見て、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「最初のルール、今見ると」
「すごいな」
「かなり無理があるわね」
「でも、そのおかげでここまで来たのかも」
「……そうかもしれない」
凛音はペンを持った。
でも、すぐには書けない。
何度かペン先を紙に近づけては止める。
「代わりに書く?」
俺が聞くと、凛音は首を横に振った。
「これは、私も書きたい」
「うん」
凛音は深呼吸した。
そして、ゆっくり書いた。
『互いに、好きであることを確認済み』
文字にした瞬間、二人とも固まった。
想像以上にすごい。
紙に書かれると、現実味がありすぎる。
凛音はペンを握ったまま動かない。
「……書いたわ」
「書いたな」
「これ、かなり」
「かなり?」
「恥ずかしい」
「でも、嬉しい」
俺が言うと、凛音は小さく頷いた。
「……うん」
俺はその下に、もう一行書き足したくなった。
「俺も書いていい?」
「ええ」
凛音からペンを受け取り、その下に書く。
『ただし、無理に急がず、少しずつ進む』
凛音はその文字を見つめた。
「少しずつ」
「俺たちらしいかなって」
「……そうね」
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
「私たちらしい」
私たち。
何気ない言葉なのに、今は全部が特別に聞こえる。
◇
ルールの紙をテーブルに置いたまま、俺たちはしばらくそれを見ていた。
『互いに、好きであることを確認済み』
何度見てもすごい。
さっきまで胸の中だけにあったものが、文字になってそこにある。
凛音はその文字を指でなぞりかけて、途中で止めた。
「……これ、本当に書いたのね」
「書いたな」
「消さない?」
「消したい?」
「消したくない」
即答だった。
彼女は言ってから少し驚いたような顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
「消したくないわ」
「じゃあ、残そう」
「でも、誰にも見られないように」
「絶対に」
「白川さんに見られたら」
「終わるな」
「佐野くんに見られても」
「終わる」
「厳重管理」
「同意」
そんな話をしているうちに、少しだけ空気が日常に戻った。
でも、完全には戻らない。
戻れるはずがない。
好きだと言い合ったあとで、同じリビングにいて、ルールの紙にまで書いたのだから。
「悠真くん」
「うん」
「両想いになったあと、まず何をすればいいか」
「うん」
「水を飲んで、ルールを書いたわ」
「俺たちらしいな」
「かなり」
二人で少し笑った。
笑ってから、凛音は急に真面目な顔になった。
「でも、まだ確認していないことがある」
「何?」
「さっきも少し出たけれど」
「うん」
「私たちは、恋人……で、いいの?」
今度は俺が完全に止まった。
その質問は、真正面から来た。
恋人。
さっきから何度も出ているのに、改めて聞かれると重い。
凛音は真剣だった。
冗談ではない。
言葉の定義を気にしているというより、ちゃんと俺の意思を確認しようとしている。
契約だからではなく。
流れだからでもなく。
俺がどう思っているのかを。
「俺は」
俺はゆっくり答えた。
「凛音の恋人になりたい」
凛音の目が揺れた。
「なりたい?」
「うん」
「もう、なっているのではなく?」
「なっている、でもいい。でも、凛音に聞かれたから、ちゃんと言いたかった」
「……何を?」
「俺は、凛音を恋人として大事にしたい」
言った瞬間、凛音は両手で口元を押さえた。
でも、目を逸らさなかった。
「ずるい」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しい?」
「……嬉しい」
ついに、そのまま言った。
困るでも、心臓に悪いでもなく。
嬉しい、と。
俺は胸がいっぱいになった。
「凛音は?」
俺が聞くと、凛音は深呼吸した。
それから、少し震える声で言った。
「私も、悠真くんの恋人になりたい」
時間が、また止まりそうになった。
さっき告白を聞いたばかりなのに、また新しい言葉が胸に落ちる。
「じゃあ」
「うん」
「恋人、だな」
凛音はこくりと頷いた。
「……恋人」
自分で確認するように呟く。
その顔は真っ赤だった。
でも、どこか幸せそうだった。
俺たちは、また何をすればいいのかわからなくなった。
恋人になった。
そう確認した。
なのに、次の動きがわからない。
凛音はルールの紙を見た。
俺も見た。
「書く?」
俺が聞くと、凛音は真剣に悩んだ。
「書きたいけれど、文字にすると危険」
「でも形がほしい?」
「……ほしい」
「じゃあ、短く」
俺はペンを取った。
今度は凛音に確認してから、下に小さく書いた。
『恋人として、少しずつ』
凛音はそれを見て、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「少しずつ、ばかりね」
「俺たちには必要だろ」
「ええ」
凛音はそっと、その文字の隣に自分の字で書き足した。
『でも、逃げない』
その一行で、俺は胸を掴まれたような気がした。
「凛音」
「何?」
「好きだ」
自然に出た。
凛音は、今度も真っ赤になった。
でも、逃げなかった。
「……私も、好き」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
両想いになったあと、まず何をすればいいのか。
俺たちは、うまくわからなかった。
水を飲んで、手続きを気にして、ルールの紙に書いて、恋人かどうか確認して。
でも、それでよかった。
たぶん、俺たちはこれからもこうやって進んでいく。
不器用に、確認しながら。
少しずつ。
でも、もう逃げずに。




