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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第51話 今、言ってもいい?

 凛音は、胸元で両手を握っていた。


 キッチンの小さな灯りだけがついた夜のリビング。


 テーブルの上には、水を飲んだあとのコップが二つ並んでいる。


 ただ水を飲みに来ただけ。


 そういうことにしておけば、まだ戻れたのかもしれない。


 でも、もう無理だった。


 俺も、凛音も、眠れなかった。


 同じ理由で。


 同じ言葉を胸に抱えて。


「明日じゃなくて」


 凛音の声は震えていた。


 けれど、その目は逃げていなかった。


「今……言ってもいい?」


 俺は頷いた。


 声を出したら、先に俺が何かを言ってしまいそうだったから。


 今は、凛音の言葉を聞きたかった。


 彼女が自分で言うと決めた言葉を、最後まで待ちたかった。


 凛音は、小さく息を吸った。


 いつもの彼女なら、ここで一度視線を逸らす。


 あるいは「やっぱり明日」と言って引き返す。


 そんな逃げ道を、少し前の凛音なら選んでいたかもしれない。


 でも、今夜の凛音は違った。


 怖がっている。


 緊張している。


 それでも、俺の方を見ていた。


「私は」


 最初の一音が、リビングに落ちた。


「私は、悠真くんと一緒にいる時間が……好き」


 そこで一度、彼女は唇を結んだ。


 好き。


 その言葉だけで、俺の心臓が大きく鳴った。


 けれど、凛音はまだ続けようとしている。


 俺は黙って待った。


「朝、ご飯を作るのも」


 凛音は、ひとつずつ思い出すように言った。


「悠真くんが帰ってきて、ただいまって言うのも。弁当箱を返してくれるのも。夜、部屋の前で話すのも」


「うん」


 思わず短く返してしまう。


 凛音は少しだけ目を揺らしたが、止まらなかった。


「最初は、契約だから一緒にいるだけだと思っていたわ。そう思おうとしていた」


「うん」


「そうしないと、怖かったから」


 凛音の指先に、少し力が入る。


「本当は、ずっと前から……悠真くんのことが気になっていたのに」


 胸が詰まった。


 ずっと前から。


 その言葉は、俺の知らない凛音の時間を連れてきた。


「でも、最初に言ってしまったでしょう」


 凛音は、少しだけ苦しそうに笑った。


「絶対に好きにならないでね、って」


「ああ」


「あれは、本当は……悠真くんに好きにならないでほしかったわけじゃない」


 凛音の声が、さらに小さくなる。


「私が、これ以上好きになってしまうのが怖かったの」


 もう、何も言えなかった。


 あの冷たい言葉。


 契約のはじまり。


 俺がずっと真に受けていた言葉。


 その裏に、そんな意味があった。


「悠真くんが優しいから、困った」


 凛音は言った。


「家事ができて、気遣いができて、私が冷たくしても怒らなくて、でも距離を取りすぎると寂しそうな顔をするから」


「それ、顔に出てた?」


「出ていたわ」


「そっか」


「出ていたから、余計に困った」


 凛音は、ほんの少しだけ笑った。


 でも、すぐに真剣な顔に戻る。


「寝ている悠真くんにしか言えなかったことも、たくさんある。ずるいことをしたと思っている」


「ずるくない」


「ううん。ずるかったわ。返事をされない場所に逃げていたから」


 彼女は首を横に振った。


「でも、悠真くんは気づいていても、待ってくれた」


「……うん」


「看病したときも、手を握られたときも、名前を呼ばれたときも。喫茶店で写真を撮ったときも。雨の日に傘に入ったときも」


 ひとつひとつ、俺たちの時間が言葉になっていく。


 その全部が、今この瞬間につながっている。


「私、もう契約だから一緒にいるだけじゃ嫌なの」


 凛音の声が、震えた。


 でも、はっきりしていた。


「親同士の都合とか、利害が一致したからとか、そういう理由だけで隣にいるのは、もう嫌」


「凛音」


「私は」


 彼女は、俺の名前を呼ぶ代わりに、まっすぐ俺を見た。


「私が、悠真くんと一緒にいたい」


 胸の奥が熱くなる。


 凛音はそこで一度、目を伏せそうになった。


 けれど、踏みとどまった。


 そして、最後の言葉を言った。


「私は、悠真くんのことが好きです」


 時間が止まった。


 言葉は静かだった。


 叫ぶような告白ではない。


 ドラマみたいな派手さもない。


 夜中のリビングで、二人とも部屋着で、水を飲むために出てきたという下手な言い訳のあとで。


 それでも、その言葉は、今まで聞いたどんな言葉よりもまっすぐだった。


 凛音は言い切ったあと、すぐに視線を落とした。


 胸元で握った手が震えている。


「……言えた」


 小さく、自分に言い聞かせるような声。


 俺はすぐに返事をしたかった。


 けれど、その瞬間に言葉を重ねるのが惜しかった。


 凛音が、ここまで自分で歩いてきた。


 逃げずに、最後まで言った。


 だから俺は、一拍だけ待った。


 凛音が言い切った言葉が、ちゃんと空気に残るように。


 彼女の勇気が、ちゃんとここにあると感じられるように。


 その一拍が、凛音には不安だったのかもしれない。


 彼女の目が、少し揺れた。


「悠真くん」


「うん」


「返事は……その」


「凛音」


 俺は、できるだけゆっくり名前を呼んだ。


 凛音が顔を上げる。


 その目は少し潤んでいた。


 不安そうで、恥ずかしそうで、でも逃げていない。


 俺はもう、待たせたくなかった。


「俺も、凛音が好きだ」


 言えた。


 練習していた言葉より、ずっと自然に出た。


 凛音が目を見開く。


「……本当に?」


「本当に」


「契約だからじゃなくて?」


「契約だからじゃない」


「同居人として、ではなく?」


「同居人としてだけじゃない」


 俺は、少しだけ息を吸った。


「俺は、凛音が好きだ。朝ご飯を作ってくれるところも、心配しすぎるところも、名前を呼ぶだけで真っ赤になるところも、ルールを書いて自分で引っかかるところも」


「そこも?」


「そこも」


「……恥ずかしい」


「でも、好きだ」


 凛音の目から、ふっと力が抜けた。


 泣きそうに見えた。


 でも、彼女は泣かなかった。


 代わりに、両手で口元を押さえた。


「悠真くん」


「うん」


「もう一回、言って」


 今度は俺が固まった。


「え?」


「一回だと、夢みたいだから」


「夢じゃないよ」


「でも、もう一回」


 凛音は真剣だった。


 俺は、胸がいっぱいになりながら頷いた。


「好きだよ、凛音」


 凛音は、今度こそ完全に赤くなった。


 そして、少しだけ肩を震わせた。


「……私も」


「うん」


「私も、好き」


 その言葉は、さっきより少し柔らかかった。


 告白というより、返事のようだった。


 俺は笑いそうになって、でも笑ったら凛音が困るかもしれないと思って、少しだけこらえた。


 凛音はすぐに気づいた。


「笑いそう?」


「嬉しくて」


「笑ってもいいわ」


「いいのか?」


「今日は、特別」


 そう言われたら、もう無理だった。


 俺は笑った。


 凛音も、泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。


     ◇


 両想いになった。


 たぶん、そういうことだ。


 俺は凛音が好きで、凛音も俺が好き。


 長いこと、互いに気づいていないふりをして、勘違いして、寝たふりして、名前で動揺して、喫茶店でカップルセットを断り、雨の日に相合傘ではない何かをした。


 その全部を経て、ようやく言葉になった。


 なのに。


 俺たちは、そのあと何をすればいいのかわからなかった。


 凛音は両手でコップを持ったまま固まっている。


 俺も、テーブルの前で固まっている。


 数秒。


 十数秒。


 かなり長い沈黙。


「……えっと」


 先に口を開いたのは俺だった。


「うん」


「両想い、ってことでいいのか?」


 言ってから、ものすごく間抜けな確認だと思った。


 でも、凛音は真面目に頷いた。


「たぶん」


「たぶん?」


「いえ、違うわ」


 凛音は小さく首を横に振った。


「両想い、です」


 言い直した。


 敬語になっている。


 よほど緊張しているのだろう。


「じゃあ」


「じゃあ?」


「どうする?」


「どうする、とは?」


「いや、その……恋人、なのか?」


 凛音の顔が、また一気に赤くなった。


「恋人」


「うん」


「契約上は夫婦だけれど」


「それはそうなんだけど」


「恋人」


「うん」


 凛音は、ものすごく真剣に考え込んだ。


 告白直後に考えることなのだろうか。


 でも、凛音らしい。


「手続きが必要では?」


「恋愛に手続きはないと思う」


「でも、関係性が変更されたのだから、記録が」


「記録?」


「同居契約ルールの紙」


「ああ」


 俺は思わず笑った。


「そこに書くのか?」


「必要では?」


「互いに好きであることを確認済み、みたいに?」


 言った瞬間、凛音は両手で顔を覆った。


「それは、文字にすると危険」


「凛音が言い出したんだぞ」


「言い出したけれど、想像したら危険だった」


「どうする?」


「でも、記録は必要」


「真面目だな」


「大事なことだから」


 大事。


 その言葉を聞いて、写真のアルバムを思い出す。


 凛音も思い出したのか、少しだけ目を伏せた。


「……大事なことは、なくさないようにしたい」


 その声があまりに柔らかくて、俺は何も言えなくなった。


「じゃあ、書こう」


 俺は言った。


「でも今日は、もう少し落ち着いてからでいいんじゃないか」


「落ち着けると思う?」


「……無理かもしれない」


「私も無理」


 二人で顔を見合わせる。


 そして、なぜか少し笑った。


 好きだと言い合ったのに、何をすればいいかわからない。


 恋人になったのかどうかも、手続きが必要かも、ルールに書くかどうかもわからない。


 でも、不思議と不安ではなかった。


 戸惑っている。


 照れている。


 どうしようもなく落ち着かない。


 それでも、胸の奥は温かかった。


「凛音」


「何?」


「今、手、繋いでもいい?」


 言ってから、自分で驚いた。


 なぜ急に。


 でも、何かしたかった。


 告白したあと、言葉だけでは足りなくて、けれど抱きしめるにはまだ早すぎる気がして。


 だから、手。


 これまで何度も理由をつけて繋いだ手を、今度は理由なしで。


 凛音は目を丸くした。


 そして、ゆっくり自分の手を見た。


「……体温管理ではなく?」


「うん」


「再発防止でもなく?」


「うん」


「安全確保でもなく?」


「うん」


「好きだから?」


 凛音が自分で言って、自分で固まった。


 俺も固まった。


 けれど、ここで逃げるのは違う。


「そう」


 俺は言った。


「好きだから」


 凛音は、もう限界という顔をした。


 でも、小さく頷いた。


「……いい」


 彼女が手を差し出す。


 俺はその手を取った。


 冷たい。


 少し震えている。


 でも、逃げない。


 俺の手の中で、凛音の指がゆっくりと落ち着いていく。


「……悠真くんの手、温かい」


「凛音の手は冷たいな」


「緊張しているから」


「俺も緊張してる」


「でも温かい」


「体質かな」


「便利な体質」


「便利ではなく?」


「……今日は、便利でいい」


 凛音が小さく笑った。


 手を繋いだまま、二人でまた固まる。


 好きだと言った。


 好きだと返した。


 手を繋いだ。


 それでもまだ、次に何をすればいいのかわからない。


 だけど、たぶん今はこれでいい。


 俺たちは、ようやく同じ場所に立ったばかりなのだから。

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