第50話 告白前夜、眠れない二人
眠れるわけがなかった。
布団に入ったのは、いつもより少し早い時間だった。
風呂にも入った。
歯も磨いた。
スマホも枕元ではなく、机の上に置いた。
明日の授業の準備も済ませた。
やるべきことは全部終わっている。
だから、あとは寝るだけ。
それだけのはずだった。
「……無理だろ」
俺は天井を見上げたまま、小さく呟いた。
昨日、凛音は言った。
『次は、ちゃんと言う』
練習ではなく。
自分の言葉で。
その言葉が、ずっと頭の中に残っている。
凛音が言いたいこと。
俺が言いたいこと。
たぶん、もう答えは同じ場所にある。
でも、まだ言っていない。
言ってしまったら、すべてが変わる。
契約結婚。
同居人。
学校では名字呼び。
家では少しだけ名前呼び。
看病。
喫茶店。
相合傘ではない傘。
写真。
大事という名前のアルバム。
その全部の先にある言葉を、俺たちはまだ持て余している。
「……好きだ」
試しに言ってみた。
部屋には俺しかいない。
誰にも聞こえない。
それなのに、心臓が変な音を立てた。
駄目だ。
たった三文字なのに、重すぎる。
「凛音が、好きだ」
もう一度。
さっきより少し具体的に。
声に出した瞬間、顔が熱くなった。
自分の部屋で、ひとりで、何をやっているんだと思う。
でも、言わなければ練習にならない。
凛音はきっと、もっと怖いはずだ。
いつも冷静に見えて、本当は誰より不器用で、言葉ひとつに真剣で、名前を呼ぶだけでも心拍数を気にするような人だ。
その凛音が「ちゃんと言う」と言った。
なら俺も、逃げるわけにはいかない。
「俺は、凛音のことが好きだ」
今度は少しだけ言えた。
けれど、言ったあとに布団を頭までかぶりたくなった。
明日、本人を前にして言えるのか。
起きている凛音に。
目を合わせて。
逃げずに。
「……無理じゃないか?」
弱音が出る。
でも、すぐに別の声が頭の中で返す。
言いたいんだろ。
そうだ。
怖い。
でも、言いたい。
今の関係が変わるのは怖い。
けれど、言わないまま何も変わらない方が、もっと怖い。
俺は布団から顔を出し、天井を見つめた。
「好きだ」
もう一度、小さく言う。
「俺も、好きだ」
自分で言って、少し笑ってしまった。
俺も、というのは気が早すぎる。
まだ凛音が何を言うかは聞いていない。
でも、たぶん。
本当にたぶんだけど。
俺は、その言葉を返したいと思っている。
◇
同じ頃。
氷室凛音も眠れていなかった。
ベッドに入って、部屋の明かりを消して、しばらく目を閉じてみた。
けれど、まぶたの裏に浮かぶのは、今日の悠真の顔ばかりだった。
言いたいことの練習。
入口に立って、何度も言いかけた。
『私は、高坂くんといると……』
その先が出なかった。
好き。
たったそれだけ。
なのに、声にならなかった。
悔しいと思った。
怖いと思った。
でも、それ以上に、言いたいと思った。
凛音は布団の中で横を向いた。
机の上に置いたスマホが目に入る。
その中には、悠真と一緒に写った写真がある。
アルバム名は、うっかり見られてしまった。
『大事』
見なかったことにはできない、と彼は言った。
でも、誰にも言わない。大事にする、とも言ってくれた。
あの返事を見たとき、凛音はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
ずるい。
本当に、ずるい。
悠真は待ってくれる。
急かさない。
からかわない。
でも、逃げ道を残したまま、ちゃんと近くにいてくれる。
だからこそ、言いたくなる。
待ってくれるから、甘えたくなる。
でも、甘えてばかりではいけない。
「……好きです」
凛音は布団の中で、小さく呟いた。
声が震えた。
誰も聞いていないのに、心臓が大きく鳴る。
「悠真くんが、好きです」
言った瞬間、布団を顔まで引き上げた。
無理。
これは無理。
本人の前で言える気がしない。
でも、言わないと伝わらない。
沙耶の言葉が蘇る。
『それ、もう答えじゃん』
そうかもしれない。
もう答えは出ている。
あとは、言うだけ。
その「だけ」が、どうしようもなく難しい。
凛音はゆっくり布団から顔を出した。
暗い部屋。
静かな夜。
この家のどこかに、悠真がいる。
同じ屋根の下にいるのに、まだ遠い。
でも、最初よりはずっと近い。
「私は、悠真くんのことが……」
そこまで言って、止まる。
胸元をぎゅっと押さえる。
「好き」
声になった。
小さすぎる声だったけれど、確かに言えた。
凛音は目を閉じる。
明日。
明日、言う。
たぶん。
いや、たぶんではだめ。
言うと決めた。
悠真くんに。
ちゃんと。
自分の言葉で。
「……明日」
呟いたのに、胸の奥が落ち着かない。
明日まで待つ。
たった一晩。
それだけなのに、やけに遠い。
もし明日、言えなかったら。
また練習だけで終わってしまったら。
また「次は」と言って逃げてしまったら。
そう考えた瞬間、凛音は布団を押しのけて起き上がった。
「……水」
そう自分に言い訳した。
喉が渇いた。
だから水を飲みに行く。
それだけ。
決して、悠真の部屋の前まで行こうとしているわけではない。
そう思いながら、凛音は部屋のドアを開けた。
◇
俺も、同じような言い訳をしていた。
水を飲む。
それだけだ。
眠れないから、少し水を飲んで、気分を落ち着かせる。
決して、凛音に会いに行くわけではない。
そんな言い訳を胸の中で繰り返しながら、俺は部屋のドアを開けた。
そして、廊下に出た瞬間。
少し先で、凛音と目が合った。
「……」
「……」
二人とも、完全に固まった。
夜の廊下。
部屋着姿。
同時に部屋を出てきた俺たち。
凛音は目を見開いている。
俺もたぶん同じ顔をしている。
「……水?」
俺が先に聞いた。
凛音は一拍遅れて頷いた。
「水」
「俺も」
「……そう」
「……うん」
沈黙。
あまりにもわかりやすい沈黙だった。
どちらも、水だけが目的ではない。
少なくとも、俺はそうだ。
そしてたぶん、凛音も。
「眠れなかった?」
俺が聞くと、凛音は視線を少しだけ落とした。
「……少し」
「少し?」
「かなり」
「俺も」
凛音が顔を上げる。
「悠真くんも?」
「うん」
「どうして?」
「凛音が、次はちゃんと言うって言ったから」
凛音の頬が赤くなる。
廊下の薄い明かりでもわかるくらいに。
「……私も」
「うん」
「悠真くんも、ちゃんと言うって言ったから」
「そっか」
「うん」
また沈黙。
でも、さっきよりは少しだけ柔らかい。
俺たちは、どちらからともなくリビングへ向かった。
電気はつけなかった。
キッチンの小さな灯りだけをつけ、二人分の水をコップに注ぐ。
凛音は両手でコップを持った。
その指先が少し震えている。
「寒い?」
俺が聞くと、凛音は首を横に振った。
「寒くはない」
「じゃあ」
「緊張」
正直な答えだった。
俺も自分のコップを持つ手を見る。
「俺も」
「悠真くんも?」
「うん。緊張してる」
「……同じね」
「同じだな」
二人で水を飲む。
ただ水を飲んでいるだけなのに、やけに静かで、重い時間だった。
でも、不思議と嫌ではない。
この静けさの中に、言葉が近づいてきているのがわかる。
「凛音」
「何?」
「明日、言うつもりだった?」
凛音はコップを置いた。
かすかに音が鳴る。
「……うん」
「俺も」
「そう」
「でも、眠れなかった」
「私も」
「明日まで待つの、長いな」
そう言うと、凛音は何も答えなかった。
ただ、コップを両手で包んだまま、少しだけ下を向いている。
その表情を見て、俺は胸が苦しくなった。
今、言ってしまいたい。
そう思った。
でも、それは俺だけのタイミングでいいのか。
凛音は、自分からも言いたいと言った。
その気持ちを、俺は大事にしたい。
「凛音」
「……うん」
「俺、今すぐ言いそうになってる」
凛音の目が揺れた。
「……私も」
声が震えていた。
「でも、悠真くんに先に言わせたら、たぶん私はまた甘えてしまう」
「甘えてもいいよ」
「だめ」
凛音は小さく首を横に振った。
「これは、自分で言いたいの」
「うん」
「悠真くんに言われるのを待つだけじゃなくて」
「うん」
「私からも、ちゃんと」
凛音の声が、そこで止まる。
でも、逃げてはいない。
手は震えている。
顔も赤い。
けれど、彼女はまっすぐこちらを見た。
「明日じゃなくて」
凛音は小さく息を吸った。
俺は、何も言わずに待った。
彼女の言葉を遮らないように。
彼女が自分の意思で踏み出す、その瞬間を壊さないように。
「今……言ってもいい?」
その声は、かすかに震えていた。
でも、確かに届いた。
夜のリビングで。
キッチンの小さな灯りの下で。
水を飲むため、という下手な言い訳で出てきた二人が、もう戻れないところまで来ていた。
俺はゆっくり頷いた。
声を出したら、先に何かを言ってしまいそうだったから。
凛音は、胸元で手を握った。
その瞳が揺れている。
けれど、逃げていない。
そして俺は、その続きを聞くために、ただ静かに彼女を見つめていた。




