第49話 言いたいことの練習
写真には、不思議な力がある。
一枚あるだけで、何もなかったことにできなくなる。
凛音と並んで写った写真。
凛音が「恋人みたい」と呟いた写真。
そして、凛音のスマホの中で『大事』という名前のアルバムに入れられた写真。
それを見てしまってから、俺は妙に落ち着かなかった。
いや、落ち着かないのはいつものことかもしれない。
凛音と同居を始めてから、落ち着いていた日の方が少ない気すらする。
けれど今日は、いつもと少し違った。
写真がある。
証拠みたいに。
俺たちが、ただの同居人ではない距離にいることの証拠みたいに。
夕飯のあと、俺はリビングで課題を開いていた。
凛音は向かい側で参考書を読んでいる。
静かな時間だった。
でも、何度か目が合った。
そのたびに、どちらかが先に視線を逸らす。
視線を逸らしたあと、どちらもたぶん同じことを思い出していた。
あの写真。
恋人みたい。
大事。
その単語が、言葉にしていないのに空気に混ざっている。
「……悠真くん」
凛音が小さく呼んだ。
俺はシャーペンを止めた。
家の中で名前を呼ばれることには、少しずつ慣れてきた。
慣れてきたはずなのに、まだ心臓は律儀に反応する。
「何?」
「課題、進んでる?」
「少し」
「少し?」
「凛音が前にいると、集中力が半分になる」
言ってから、少し直接すぎたと思った。
凛音は参考書を閉じかけて、また開いた。
顔が赤い。
「……そういうことを、勉強中に言わないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから?」
「……困る」
いつもの返事。
でも、最近の凛音の「困る」は、前よりずっと柔らかい。
拒むためではなく、受け止めきれないから困る。
そんな感じがする。
「凛音は進んでる?」
「私も、少し」
「珍しいな」
「……写真のことを思い出していたから」
俺の手が止まった。
凛音は言ってから、耳を赤くした。
でも、取り消さなかった。
「写真?」
「……昨日の」
「大事アルバムの?」
「悠真くん」
「ごめん」
「忘れてほしいとは言ったけれど、完全に忘れられると、それはそれで少し……」
「少し?」
「残念」
今日も強い。
凛音は、自分でも驚くくらい一歩ずつ前に出ている。
それが嬉しくて、俺の方が言葉に詰まる。
「忘れないよ」
俺は言った。
「あれは、俺も大事だから」
凛音は参考書の端を指で押さえた。
「……うん」
それだけで、リビングの空気がまた甘くなった。
勉強どころではない。
しかし、二人ともそれを口にしないまま、しばらく課題を続けるふりをした。
◇
夜。
風呂を済ませ、部屋に戻って少し経ったころだった。
扉の外で、足音が止まった。
もう、その足音だけでわかる。
凛音だ。
小さなノック。
「悠真くん」
「起きてる」
「入ってもいい?」
「いいよ」
扉が開いた。
凛音は部屋着姿で立っていた。
髪は下ろしている。
手にはスマホを持っていない。
つまり、写真を見せに来たわけではない。
何か別の用がある。
それは表情でわかった。
いつもより少し緊張している。
でも、逃げる気配はない。
「どうした?」
俺が聞くと、凛音は入口の近くで立ち止まったまま、両手を前で握った。
「……練習を、したいの」
「練習?」
「うん」
「名前呼び?」
「それも、まだ練習中だけど」
凛音は小さく首を横に振った。
「今日は、別の練習」
その言い方で、胸が鳴った。
何となくわかった。
たぶん、俺がずっと待っている言葉に近いもの。
でも、まだ完全なそれではない。
「言いたいことの練習?」
俺が聞くと、凛音は目を見開いた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……うん」
部屋が静かになった。
練習。
告白ではない。
でも、告白に近い。
凛音は前に言った。
自分からも、ちゃんと言いたいことがある、と。
その練習をしに来た。
それがどれだけ勇気のいることか、考えるだけで胸が苦しくなる。
「ここでいい?」
俺はベッドの端に座り直した。
「無理なら扉越しでもいいし、入口でもいい」
「入口がいい」
「うん」
「まだ、近いと……言葉が出なくなりそうだから」
「わかった」
凛音は入口のそばに立ったまま、深呼吸をした。
一度。
二度。
それでも、言葉はすぐには出てこない。
俺は待った。
急かさない。
茶化さない。
笑わない。
たぶん、今の俺にできる一番大事なことは、それだった。
「悠真くん」
「うん」
「私は」
凛音の声が少し震えた。
けれど、止まらない。
「私は、高坂くんといると……」
呼び方が戻った。
悠真くんではなく、高坂くん。
たぶん、言葉が重くなった瞬間に、少し距離を取らないと耐えられなかったのだろう。
でも、それでいい。
無理に名前で呼ぶ必要はない。
凛音が言いやすい距離でいい。
「うん」
「高坂くんといると、落ち着く」
凛音は、ゆっくり言った。
「でも、落ち着かない」
「うん」
「ご飯を作るのも、食べてもらうのも、帰ってきた声を聞くのも、夜に部屋の前まで来るのも」
言葉をひとつずつ選んでいる。
慎重に。
でも、確実に。
「全部、前より普通になったのに、普通じゃない」
「うん」
「嬉しいのに、怖い」
「うん」
「近づきたいのに、近づくと心臓が忙しい」
凛音はそこで少しだけ目を伏せた。
「でも、離れたいとは思わない」
俺は息を止めた。
凛音の言葉が、ひとつずつ胸に落ちてくる。
これは練習だ。
そう言われている。
でも、練習の言葉も本音だ。
嘘ではない。
むしろ、練習だからこそ、逃げずに本音を出そうとしてくれている。
「私は、高坂くんといると……」
凛音はもう一度言った。
そこから先。
最後の言葉。
たぶん、俺も凛音も同じ言葉を想像していた。
好き。
たったそれだけ。
でも、凛音の唇は震えて、音にならなかった。
「……ごめんなさい」
凛音は小さく言った。
「まだ、出ない」
「謝らなくていい」
「でも」
「言おうとしてくれた」
俺はできるだけ静かに言った。
「それだけで、すごく嬉しい」
凛音の目が揺れた。
「本当に?」
「本当に」
「途中まででも?」
「途中まででも」
「最後まで言えなくても?」
「うん」
俺は少しだけ笑った。
「俺も、同じだから」
「同じ?」
「俺も、凛音といると落ち着く。でも落ち着かない」
凛音が小さく息を呑んだ。
「ご飯作ってくれるのも、一緒に食べるのも、帰ってきておかえりって言うのも、夜に来てくれるのも」
俺は言葉を選びながら続けた。
「全部、普通になってるのに、普通じゃない」
「……うん」
「凛音といると嬉しい。でも怖い」
「悠真くんも?」
「俺も」
「怖いの?」
「怖いよ」
正直に言った。
「言ったら変わるから。今のままじゃなくなるから」
「うん」
「でも、言わないままでいるのも、最近は怖い」
凛音の目が大きくなった。
たぶん、同じことを思っていたのだろう。
「俺も、最後の言葉はまだ言ってない」
「うん」
「でも、言いたい」
「……うん」
「凛音に」
名前を呼ぶと、凛音は少しだけ肩を揺らした。
でも逃げなかった。
「だから、練習するなら、俺も一緒にする」
「一緒に?」
「うん」
「二人で?」
「二人で」
凛音は少し考えたあと、小さく頷いた。
「それなら、少し怖くないかもしれない」
「じゃあ、やろう」
「何を?」
「言いたいことの練習」
俺がそう言うと、凛音は少しだけ笑った。
「変な練習」
「俺たちらしいだろ」
「……そうね」
◇
俺たちは、変な練習を始めた。
凛音は入口に立ったまま。
俺はベッドの端に座ったまま。
距離はある。
でも、言葉はちゃんと届く距離だった。
「まず、私から?」
「凛音が始めた練習だから」
「……わかった」
凛音は深呼吸した。
「私は、高坂くんといると」
「うん」
「毎日が、少し違って見える」
「うん」
「朝ご飯を作るのも、前はただの習慣だったのに、今は……反応が気になる」
「俺の?」
「うん」
「弁当も?」
「……うん」
「悠真くん用?」
「それは忘れて」
「忘れられない」
「努力して」
凛音は少しだけ頬を赤くしながら続けた。
「雨の日も、喫茶店も、写真も」
「うん」
「全部、大事になった」
大事。
その言葉に、また写真のアルバム名を思い出す。
凛音も思い出したのか、少しだけ目を伏せた。
「私は、高坂くんといると……」
また、最後の手前まで来る。
でも、そこから先は出ない。
凛音は唇を結んで、悔しそうに目を伏せた。
「……ここまで」
「十分」
「次、悠真くん」
「俺か」
「公平」
「勝負じゃないけどな」
「少し、勝負」
凛音が真面目に言うので、俺は少し笑った。
でも、すぐに真面目に戻る。
「俺は、凛音といると」
言っただけで、凛音の表情が変わる。
名前。
俺は家で普通に呼んでいる。
それでも、こういう話の中で呼ぶと、やっぱり重みが違う。
「毎日が、前より楽しみになった」
俺は続けた。
「朝起きるのも、学校から帰るのも、夕飯を考えるのも」
「うん」
「誰かを待つのも、待たれるのも」
凛音は静かに聞いている。
「写真を残したいと思ったのも、凛音が初めてだった」
凛音の顔が赤くなる。
「弁当のメモも、雨の日の袖も、名前呼びも」
「……うん」
「全部、忘れたくない」
俺はそこで一度、言葉を止めた。
次に来る言葉は、わかっている。
好きだ。
でも、今は練習。
凛音が練習だと言った。
俺も一緒に練習すると言った。
だから、まだ最後の一線は越えない。
「俺は、凛音といると……」
そこまで言って、止めた。
出そうになった。
かなり危なかった。
凛音も気づいたのだろう。
胸元で手を握る力が強くなっている。
「……ここまで」
俺が言うと、凛音は小さく息を吐いた。
「同じね」
「同じだな」
「最後だけ、出ない」
「でも、近い」
「近いわね」
二人でそんなことを言って、少しだけ笑った。
笑えるような状況ではないはずなのに、笑えた。
それが不思議だった。
怖い。
でも、ひとりじゃない。
たぶん、だから笑えた。
◇
練習は、思ったより長く続いた。
凛音は何度か言い直した。
「私は、高坂くんといると、家に帰るのが楽しみになる」
「私は、悠真くんといると……」
名前で呼んだ瞬間、凛音は止まった。
でも、戻らなかった。
「……悠真くんといると、ちゃんと自分の気持ちを見てもいいと思える」
その言葉は、かなり強かった。
俺も返した。
「俺は、凛音といると、自分が思ってたより誰かに甘えたい人間なんだってわかった」
「甘えているの?」
「たぶん」
「……それは、少し嬉しい」
「凛音も、甘えていいからな」
「難しいわ」
「少しずつ」
「少しずつ」
そんなやり取りを繰り返すうちに、練習なのか会話なのかわからなくなってきた。
けれど、それでよかった。
言いたいことの周りを、二人でゆっくり歩いている。
中心にある言葉にはまだ触れない。
でも、近づいている。
確実に。
やがて、凛音は小さく息を吐いた。
「今日は、ここまで」
「うん」
「かなり言った気がする」
「俺も」
「でも、最後はまだ言えていない」
「俺も」
凛音は入口のところで、少しだけ背筋を伸ばした。
「次は」
彼女は言った。
「次は、ちゃんと言う」
俺の心臓が、強く鳴った。
「……うん」
「練習ではなく」
「うん」
「ちゃんと、自分の言葉で」
「俺も、ちゃんと言う」
凛音は小さく頷いた。
その顔は赤かった。
でも、いつもよりずっとまっすぐだった。
「怖い?」
俺が聞くと、凛音は少しだけ考えた。
「怖い」
「俺も」
「でも」
「うん」
「言いたい」
その言葉だけで十分だった。
凛音は扉に手をかける。
「おやすみ、悠真くん」
「おやすみ、凛音」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
俺はしばらく、ベッドの端に座ったまま動けなかった。
次は、ちゃんと言う。
凛音はそう言った。
俺もそうすると決めた。
告白前夜という言葉が、頭に浮かぶ。
まだ、明日言うと決まったわけではない。
でも、もう遠くはない。
たぶん、本当にすぐそこまで来ている。
俺は布団に入り、目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
けれど、今夜はそれでもいい気がした。
言いたいことが、胸の中でずっと熱を持っていた。




