第48話 恋人みたい、のあと
「凛音は、そう見えるの嫌?」
自分で聞いておきながら、かなり心臓に悪い質問だった。
画面の中には、俺と凛音が並んで写っている。
凛音は照れたように笑っていて、俺もたぶん似たような顔をしている。
肩が触れているわけではない。
手を繋いでいるわけでもない。
ただ、ソファに並んで座っているだけ。
それなのに、凛音が言った通り、その写真はどこか「恋人みたい」に見えた。
そして俺は、それが嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥が苦しくなるくらい嬉しかった。
だから聞いてしまった。
凛音は、そう見えるのが嫌なのか、と。
凛音はスマホの画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
さっき、彼女はほんの少しだけ首を横に振った。
嫌ではない。
たぶん、そういう意味だった。
でも、言葉にはしていない。
言葉にしなければ、まだ逃げ道がある。
今の俺たちは、そういう場所に立っている。
「……嫌では」
凛音が小さく言った。
声は震えていた。
「ない、わ」
言った。
ちゃんと言った。
俺は胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
「そっか」
「でも」
「うん」
「恋人、という意味ではなくて」
「うん」
「写真の印象として、そう見えるだけで」
「うん」
「つまり、客観的に」
「うん」
「第三者視点で」
「うん」
「……悠真くん」
「何?」
「あまり、うんうん言わないで」
「ごめん。聞いてた」
「聞かれると、余計に言い訳しているみたいになる」
「実際、少し言い訳してないか?」
言った瞬間、凛音がこちらを見た。
じっと。
赤い顔で。
「……少し」
認めた。
俺はもう駄目だった。
今日の凛音は強すぎる。
少し前なら絶対に否定していたところで、少しずつ認めてくれる。
それが嬉しくて、苦しい。
「消す?」
俺はスマホを少し持ち上げた。
凛音の表情が変わる。
「……消すの?」
「凛音が嫌なら」
「嫌とは言っていない」
「でも、恋人みたいって言ったあとだし、気まずいなら」
「気まずくは、ある」
「うん」
「でも、消したいわけではない」
凛音は画面を見つめた。
さっきから、目を逸らさない。
写真が苦手だと言っていた彼女が、ずっとその写真を見ている。
「私、写真はあまり好きではなかった」
「うん」
「どんな顔をすればいいかわからないし、あとで見返すと、どこか作り物みたいに見えるから」
「そうなんだ」
「でも、これは」
凛音はそこで少しだけ言葉を止めた。
「これは、作り物みたいではない」
胸に、静かに響いた。
俺は写真を見る。
確かに、作った顔ではなかった。
タイマーが切れる直前、俺が余計なことを言って、凛音が困ったように笑った。
その瞬間が残っている。
緊張しているけれど、硬くはない。
照れているけれど、隠しきれていない。
俺たちらしい写真だった。
「じゃあ、残す?」
俺が聞くと、凛音はすぐには答えなかった。
けれど、視線は写真から離れない。
「……残したい」
小さな声。
でも、はっきりした声だった。
「うん」
「ただし」
「ただし?」
「誰にも見せない」
「もちろん」
「白川さんにも」
「見せない」
「佐野くんにも」
「絶対見せない」
「もし見せたら」
「見せないって」
「……信用は?」
「十割を維持したい」
「なら、見せないで」
「約束する」
俺がそう言うと、凛音はようやく少しだけ安心したように息を吐いた。
「それと」
「まだある?」
「保存するなら、ちゃんと管理して」
「管理」
「間違えて誰かに見せないように」
「アルバム分ける?」
何気なく言った。
すると凛音が少し考えた。
「……それは、いいかもしれない」
「じゃあ、俺の方は非表示フォルダに入れておく」
「非表示?」
「まあ、普通の写真一覧で見えないように」
「そこまで?」
「誰にも見せない約束だから」
「……ありがとう」
凛音は、少しだけ嬉しそうだった。
写真を残す。
誰にも見せない。
二人だけの写真。
それだけで、胸が妙に落ち着かなくなる。
「凛音のスマホにも送る?」
俺が聞くと、凛音はまた固まった。
「……私のスマホにも?」
「嫌なら送らない」
「嫌ではない」
「じゃあ、送る?」
「でも」
「でも?」
「自分のスマホにあると、見てしまいそう」
「見たら駄目なのか?」
「駄目ではないけど」
「けど?」
凛音は視線を少しだけ落とした。
「たぶん、何度も見る」
俺は言葉を失った。
凛音はすぐに顔を赤くする。
「今のは」
「うん」
「写真として、ちゃんと撮れているか確認するという意味で」
「うん」
「あと、表情が不自然ではないかとか」
「うん」
「悠真くん」
「はい」
「また、うんうん言わないで」
「ごめん。可愛くて」
「謝る場所が違う」
「でも本当だから」
「……本当でも、心臓に悪い」
凛音は両手でスマホを持っていないのに、何かを抱えるように指を重ねた。
「送って」
「いいのか?」
「うん」
「本当に?」
「送ってほしい」
その言葉は、かなり強かった。
俺は頷いて、写真を凛音に送った。
すぐに凛音のスマホが震える。
彼女は画面を確認した。
届いた写真を開く。
そして、また黙って見つめる。
「……本当に、恋人みたい」
ぽつりと、また呟いた。
今度は取り消さなかった。
俺は聞き返さなかった。
凛音も何も言わなかった。
ただ、二人で同じ写真を見ていた。
◇
しばらくして、凛音はスマホを胸元に抱えた。
「保存したわ」
「うん」
「誰にも見せない」
「俺も」
「消さない?」
「消さない」
「……うん」
凛音は小さく頷いた。
その仕草が、約束を確認しているみたいだった。
「でも、写真って不思議ね」
「何が?」
「その時は一瞬なのに、あとで見返せる」
「そうだな」
「笑った顔も、残る」
「残したかったから」
「……悠真くんは、私の笑った顔を残したかったの?」
「うん」
ここは、もう照れずに言うことにした。
いや、照れてはいる。
でも、隠さない。
「学校で見せる顔とは違ったから」
「……そう?」
「うん。家で、俺の前で笑った顔だったから」
凛音は顔を真っ赤にした。
けれど、スマホを抱えた手は緩めない。
「悠真くんは、本当に」
「うん」
「すぐ、そういうことを言う」
「今日は言いたかった」
「今日は?」
「いつも言いたいけど、今日は特に」
「……危険な日ね」
「最近、危険な日が多いな」
「それは、悠真くんのせいもある」
「凛音のせいもあると思う」
「私?」
「今日、恋人みたいって言った」
凛音は言葉に詰まった。
「……それは」
「嫌じゃないとも言った」
「言った、けど」
「俺、かなり嬉しかった」
凛音はもう完全に動けなくなっていた。
でも、今度は逃げなかった。
視線を落として、ぽつりと言う。
「私も」
「うん?」
「悠真くんが、嫌じゃないと思ってくれたのは……嬉しかった」
静かな爆弾だった。
俺は何も言えなかった。
凛音の方が、最近ずっと強い。
いや、強くなろうとしてくれている。
伝えようとしてくれている。
それがわかるから、余計に苦しい。
「凛音」
「何?」
「好きだって言いそうになる」
言った瞬間、空気が止まった。
俺は自分で驚いた。
もうほとんど言っている。
しかし、最後の二文字だけはまだ言っていない。
凛音は目を大きく開いたまま、俺を見ていた。
そして、少しだけ震える声で言った。
「……私も」
今度こそ、完全に何も言えなかった。
凛音はすぐに視線を落とす。
「でも、まだ」
「うん」
「ちゃんと言うときは、ちゃんと言いたい」
「俺も」
「だから」
「待つ」
「また待つの?」
「待つ」
凛音は困ったように、でもどこか安心したように笑った。
「悠真くんは、待つのが上手すぎる」
「実は限界だけどな」
「それも、何度か聞いたわ」
「何度でも言う」
「じゃあ、私も何度でも言うわ」
凛音は写真の入ったスマホをそっと見た。
「ちゃんと言うから」
「うん」
「そのうちじゃなくて、ちゃんと近いうちに」
胸が強く鳴った。
「……うん」
「だから、それまで」
凛音は少しだけ照れながら続けた。
「この写真は、二人だけの秘密」
「わかった」
「秘密が増えるわね」
「多すぎるな」
「でも」
「うん」
「嫌ではない」
それは、今の俺たちをそのまま表す言葉だった。
秘密ばかり。
言い訳ばかり。
まだ正式な言葉はない。
でも、嫌ではない。
むしろ、その秘密を一つずつ大事にしたくなっている。
◇
夜も遅くなり、凛音は自分の部屋へ戻ることになった。
その前に、彼女はもう一度写真を確認していた。
「そんなに見る?」
俺が聞くと、凛音は少し慌てたようにスマホを伏せた。
「確認」
「何の?」
「保存状態」
「データに保存状態ってあるのか?」
「……あるかもしれない」
「便利だな、かもしれない」
「便利ではなく」
「正確?」
「今回は少し違うかもしれない」
凛音は素直に認めた。
それが可愛くて、俺はまた笑いそうになる。
「笑わないで」
「まだ笑ってない」
「笑う前の顔」
「よくわかるな」
「観察」
「写真も観察?」
「……見るだけ」
凛音はそう言って、スマホを鞄ではなく部屋着のポケットへ入れた。
大事にしているのが、明らかだった。
俺はそれを見て、また胸が温かくなる。
「凛音」
「何?」
「写真、送ってよかった」
「私も、送ってもらってよかった」
「そっか」
「うん」
凛音は立ち上がった。
部屋へ戻る前に、リビングの入口で振り返る。
「悠真くん」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ、凛音」
彼女は少しだけ笑って、リビングを出ていった。
俺はソファに残り、スマホの写真をもう一度開いた。
恋人みたい。
凛音の声が耳に残る。
そう見えるのが嫌じゃない。
その言葉も。
写真を見ていると、胸がいっぱいになってくる。
俺は約束通り、写真を非表示フォルダに移そうとした。
操作している途中、ふと通知が来た。
凛音からだった。
『保存しました』
短いメッセージ。
その下に、追加で画像が送られてきた。
スクリーンショットだった。
凛音のスマホの写真アプリらしい画面。
おそらく保存できたことを見せたかったのだろう。
だが、俺の目は別のところに止まった。
写真が入れられているアルバム名。
『大事』
俺は動けなくなった。
凛音が、その写真を入れたアルバムの名前。
大事。
すぐに次のメッセージが来た。
『今のスクリーンショットは忘れてください』
さらに一通。
『アルバム名は見なかったことにしてください』
俺は画面を見つめたまま、しばらく笑うこともできなかった。
嬉しすぎて。
胸が苦しくて。
どう返せばいいかわからなかった。
ようやく、指を動かす。
『見なかったことにはできない』
送ってから、少し考えてもう一通。
『でも、誰にも言わない。大事にする』
既読がついた。
長い沈黙。
そして、凛音から返事が来た。
『ずるい』
それだけだった。
でも、俺には十分すぎた。
写真は、二人だけの秘密になった。
そしてその秘密は、凛音のスマホの中で「大事」という名前をもらっていた。




