第47話 笑った顔を、残したい
人の笑った顔というものは、意外とすぐ消える。
ほんの数秒。
長くても、十秒あるかどうか。
その瞬間を逃すと、もう同じ表情には戻らない。
似たような笑顔は見られるかもしれない。
でも、まったく同じものは二度とない。
だからだろうか。
その夜、凛音が笑った瞬間、俺は思ってしまった。
残したい、と。
◇
きっかけは、本当に些細なことだった。
夕飯のあと、俺たちはリビングでお茶を飲んでいた。
昨日の「看病のお礼のお礼」として作った和風オムライスは、どうやら凛音の中でかなり高評価だったらしく、今日の朝も、学校から帰ってきたあとも、彼女は何度か思い出したように言った。
「昨日のご飯、本当においしかった」
と。
そのたびに俺は照れた。
そして、そのたびに凛音も照れた。
なぜ作った側と食べた側が両方照れるのかは、俺にもよくわからない。
ただ、それが今の俺たちらしかった。
「次は何がいい?」
俺が聞くと、凛音は湯飲みを両手で持ちながら少し考えた。
「次?」
「また作るって言っただろ」
「でも、お礼のお礼のお礼になってしまうわ」
「もうそのへんは、気にしなくていいんじゃないか」
「気にしなくていい?」
「終わらなくてもいいって、凛音も言ったし」
凛音は湯飲みを持つ手を止めた。
「……それを、すぐ持ち出す」
「だって嬉しかったから」
「悠真くん」
名前で呼ばれた。
まだ毎回ではない。
家でも、ふいに呼ばれると俺の心臓は止まりかける。
でも、凛音は少しずつ自然に呼べるようになってきていた。
そして俺も、少しずつ返事できるようになってきている。
「はい」
「そういうことを言うと、次のご飯を考えられない」
「じゃあ、考えるのはあとにする?」
「……うん」
凛音は湯飲みに視線を落とした。
でも、口元が少しだけ緩んでいる。
笑っている。
ほんの少し。
学校で見せる整った微笑みではない。
白川さんと話しているときの、柔らかい笑顔でもない。
家で、俺の前でだけ出る、気の抜けたような小さな笑顔。
それを見た瞬間、俺は思った。
あ。
今の顔、残したい。
「凛音」
「何?」
「今、すごくいい顔してた」
言ってから、少し直接すぎたと思った。
凛音は当然のように固まった。
「……顔?」
「笑ってた」
「笑っていた?」
「うん」
「普通に?」
「かなり自然に」
「それは、どういう意味?」
「可愛かったって意味」
凛音の顔が一気に赤くなった。
湯飲みをテーブルに置く音が、かちゃりと鳴る。
「悠真くん」
「はい」
「夜に、そういうことを急に言わないで」
「昼ならいい?」
「昼も危険」
「じゃあ、いつなら」
「……言われたら、いつでも危険」
「なるほど」
俺が笑うと、凛音は少しだけむっとしたようにこちらを見る。
でも、その顔もまた可愛い。
まずい。
今日は防御力が低い。
「また笑った」
「ごめん」
「何がおかしいの」
「凛音の反応が」
「からかっている?」
「違う。可愛いと思ってる」
「同じくらい危険」
凛音は顔を赤くしたまま、湯飲みを持ち直した。
「……悠真くんは、最近言葉が直接的になっている」
「凛音も名前呼び増えたし、お互い様かもしれない」
「そういう問題?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
「じゃあ、そういうことにしておく」
「ずるい」
凛音はそう言って、また少し笑った。
さっきよりも、さらに自然に。
俺はその顔を見て、やっぱり思ってしまった。
写真に残したい。
でも。
勝手に撮るのは違う。
絶対に違う。
この笑顔は、俺が大事にしたいものだからこそ、勝手に奪ってはいけない。
俺はスマホに手を伸ばしかけて、すぐに止めた。
凛音はその動きを見逃さなかった。
「悠真くん?」
「いや」
「今、スマホを取ろうとした?」
「……した」
「なぜ?」
「写真」
言ってしまった。
凛音の目が少しだけ大きくなる。
「写真?」
「今の笑った顔を、残したいと思った」
リビングが静かになった。
エアコンの小さな音だけが聞こえる。
凛音はしばらく何も言わなかった。
俺はすぐに言葉を足す。
「でも、勝手に撮るのは違うと思ったから、やめた」
「……うん」
「嫌なら、もちろん撮らない」
「嫌、というより」
凛音は視線を落とした。
「写真は、少し苦手」
「そっか」
「学校でも、集合写真以外はあまり撮らない」
「じゃあ、やめよう」
俺がすぐに言うと、凛音は少しだけ顔を上げた。
「すぐ、やめるの?」
「凛音が苦手なら」
「……そう」
「残したいとは思ったけど、凛音が嫌な方が嫌だから」
凛音はまた黙った。
湯飲みを両手で包んでいる。
その指先が少し動いた。
「……そういうところ」
「うん?」
「ずるい」
「今日は何回目だろうな」
「数えないで」
凛音は小さく息を吐いた。
それから、かなり迷ったあとで言った。
「一枚だけなら」
「え?」
「一枚だけなら、いい」
「本当に?」
「ただし」
「ただし?」
「変に撮らないで」
「変にって?」
「変には変よ」
「難しいな」
「あと、誰にも見せない」
「もちろん」
「白川さんにも、佐野くんにも」
「見せない」
「SNSにも」
「絶対に載せない」
「保存場所も」
「俺のスマホだけ」
「……うん」
凛音は、まだかなり緊張している顔だった。
でも、拒んではいない。
一枚だけならいい。
その言葉が、俺にはすごく嬉しかった。
「じゃあ、撮っていい?」
「……うん」
凛音は姿勢を正した。
背筋を伸ばし、表情を整える。
一瞬で、学校の氷室凛音に近い顔になった。
美人だ。
とても整っている。
でも、俺が残したかった笑顔とは違った。
「凛音」
「何?」
「それ、証明写真みたいになってる」
「どういう顔をすればいいかわからないの」
「さっきみたいに笑えばいい」
「さっきみたいに、と言われて笑えるものではないわ」
「それはそうか」
「写真は難しい」
凛音は真剣だった。
あまりにも真剣なので、俺は少し笑ってしまった。
「笑わないで」
「ごめん」
「悠真くんが笑うから、余計にわからなくなる」
「じゃあ、写真じゃなくていいよ」
「でも」
凛音は少しだけ口を尖らせた。
「撮ってほしいと言ったわけではないけれど、撮らないと言われると、それはそれで少し……」
「少し?」
「……残念」
俺はスマホを落としそうになった。
凛音は本当に、最近こういう不意打ちが増えた。
しかも本人は照れながらも逃げない。
逃げないから、こちらの心臓が逃げ場をなくす。
「じゃあ、撮る」
「うん」
「無理に笑わなくていい」
「でも、笑った顔を残したいのでしょう」
「それはそうだけど」
「なら、少し努力する」
「努力して笑うのも凛音らしいな」
「笑うところ?」
「いや、可愛いところ」
「悠真くん」
「はい」
「撮影前に心拍数を上げないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから?」
「……今日は、かなり」
凛音はそう言って、少しだけ笑った。
あ。
今だ。
俺はすぐにスマホを構えた。
でも、凛音が気づいてまた固まる。
「待って」
「待つ」
「今のは不意打ち」
「不意打ちの方が自然だった」
「でも、心の準備が」
「写真って難しいな」
「難しいわ」
二人で、結局笑ってしまった。
◇
最初は、凛音だけを撮る予定だった。
リビングのソファに座った凛音を、俺が向かい側から撮る。
それで終わるはずだった。
しかし、凛音はスマホのカメラを向けられると、どうしても表情が硬くなる。
「凛音、少し肩に力入ってる」
「入るわ」
「自然に」
「自然とは、意識した時点で消えるものよ」
「名言みたいだな」
「本当にそう思っている」
何度か試しても、凛音は真面目な顔になってしまう。
それはそれで綺麗なのだが、俺が残したかった笑顔とは違う。
俺はスマホを下ろした。
「やっぱり、今日はやめる?」
「……まだ、一枚も撮れていない」
「無理しなくていい」
「無理ではないけど、難しい」
凛音は少し考えたあと、ぽつりと言った。
「悠真くんも、写る?」
「俺も?」
「その方が、少し自然にできるかもしれない」
「一緒に?」
「……うん」
凛音は自分で言ってから、顔を赤くした。
俺も固まった。
凛音単体の写真を撮る予定が、なぜか二人で写る流れになっている。
これは危険だ。
かなり危険だ。
でも、嫌ではない。
「じゃあ、自撮り?」
「それは難しそう」
「タイマー使うか」
「スマホを置ける場所」
「テーブルかな」
俺はスマホをテーブルの上に置き、少し角度を調整した。
画面にソファが映る。
二人で並んで座れば、ちょうど入る。
凛音はソファの端に座っている。
俺がその横に座る。
距離が微妙に空いている。
画面を見ると、二人の間に明らかな空白がある。
「遠いな」
「近すぎるのも」
「画面に入りにくい」
「……それは、仕方ない」
凛音が少しだけこちらへ寄った。
まだ少し遠い。
俺も少し寄る。
肩が触れそうになる。
画面の中の俺たちは、ぎこちない。
でも、確かに二人で写っている。
「タイマー、三秒でいい?」
「短くない?」
「十秒だと逆に緊張しそう」
「それはあるわ」
「じゃあ三秒」
「うん」
俺はタイマーをセットし、急いでソファに戻った。
三秒。
二秒。
一秒。
シャッター音。
撮れた。
二人で画面を覗き込む。
そこには、少し硬い顔の俺と、かなり緊張した顔の凛音が写っていた。
「……硬いな」
「硬いわね」
「もう一枚だけ?」
「一枚だけと言ったのに」
「今のは練習ということで」
「ずるい」
「ごめん」
「でも……もう一枚だけ」
凛音が小さく言った。
少しずつ、彼女の中でも写真を残したい気持ちが出てきているのかもしれない。
俺はもう一度タイマーをセットする。
今度は十秒にした。
「十秒?」
「少し話してる間に撮れた方が自然かも」
「なるほど」
タイマーが始まる。
俺はソファに戻り、凛音の隣に座った。
「凛音」
「何?」
「今日はありがとう」
「写真のこと?」
「それも。あと、撮らせてくれること」
「……うん」
「嬉しい」
「また」
「うん?」
「嬉しいことが多いわね」
「凛音がいると多いから」
凛音が目を丸くする。
そして、困ったように笑った。
その瞬間。
シャッター音が鳴った。
俺たちは同時に画面を見た。
今度の写真は、さっきと違った。
俺は少し笑っている。
凛音も、照れたように、でもちゃんと笑っている。
肩は触れていない。
でも、かなり近い。
画面の中の二人は、どう見てもただの同居人には見えなかった。
「……撮れたな」
「撮れたわね」
「これ、いい写真だと思う」
「……うん」
凛音は画面をじっと見つめていた。
自分の写真が苦手だと言っていたのに、今は目を逸らさない。
「消す?」
俺が聞くと、凛音はすぐに首を横に振った。
「消さない」
「保存していい?」
「……うん」
「誰にも見せない」
「絶対に」
「約束」
「約束」
凛音は画面から目を離さない。
そして、本当に小さな声で呟いた。
「これ、恋人みたい」
時間が止まった。
俺も凛音も、動かない。
言った本人が、一番驚いていた。
凛音はゆっくりこちらを見る。
俺も、ゆっくり彼女を見る。
「……今のは」
凛音の声が震える。
「写真の印象として」
「うん」
「客観的に」
「うん」
「そう見える、という意味で」
「うん」
言い訳がどんどん重なっていく。
でも、俺は写真から目を離せなかった。
画面の中の俺たちは、確かに恋人みたいだった。
まだ、そうではない。
まだ言葉にはしていない。
でも、そう見える。
そう見えて、嫌ではない。
俺はゆっくり聞いた。
「凛音は、そう見えるの嫌?」
凛音は答えなかった。
答えないまま、写真を見つめている。
そして、ほんの少しだけ首を横に振った。
その小さな動きだけで、俺の胸はいっぱいになった。




