第46話 看病のお礼のお礼
放課後、スーパーの袋を片手に帰るのは、少しだけ落ち着かなかった。
中身は、卵、鶏ひき肉、玉ねぎ、きのこ、牛乳、少し良いバター。
それから、凛音が好きそうな甘すぎないデザート用に、プレーンヨーグルトと蜂蜜も買った。
別に、特別な日ではない。
誕生日でもないし、記念日でもない。
けれど、俺の中では少しだけ特別だった。
今日は、凛音に夕飯を作る。
看病のお礼の、さらにお礼。
言葉にすると妙だ。
お礼に喫茶店へ行った。その帰りに手を繋いだ。雨の日には傘に入れてもらった。弁当も作ってもらった。
お礼がどんどん増えている。
でも、何かしたかった。
凛音が俺の体調をあれだけ気にしてくれたこと。
お粥を作ってくれたこと。
夜、そばにいてくれたこと。
名前を呼んでくれたこと。
その全部に対して、俺も何か返したかった。
玄関を開けると、まだ凛音は帰っていなかった。
「ただいま」
誰もいない部屋に、小さく言う。
この家に住み始めた頃なら、こんなことはしなかったと思う。
けれど今は、自然に出る。
凛音がいなくても、ここは二人で暮らす場所だから。
俺はキッチンへ向かい、買ってきた食材を並べた。
今日作るのは、和風オムライス。
普通のケチャップ味ではなく、だしを少し効かせた卵料理。
中身は鶏そぼろときのこの混ぜご飯。上にふわっと卵をのせて、あんかけを少しだけかける。
甘すぎず、重すぎず、凛音が好きそうな味。
……のつもりだ。
「失敗したら終わるな」
ひとりで呟き、すぐに首を振った。
終わりはしない。
でも、凛音に食べてもらうと思うと、普段より緊張する。
包丁を握り、玉ねぎを刻み始めたところで、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
凛音の声。
「おかえり」
キッチンから返すと、リビングに入ってきた凛音が立ち止まった。
「……高坂くん?」
「うん」
「何をしているの?」
「夕飯」
「それは見ればわかるわ」
「なら、聞かなくても」
「なぜ高坂くんが一人で夕飯を作っているのかを聞いているの」
凛音は鞄を置くより先に、キッチンへ近づいてきた。
目が少しだけ鋭い。
病み上がりの経過観察が、まだ完全には終わっていないらしい。
「もう体調は戻っただろ」
「戻ったけれど、無理は」
「してない。今日は無理しない範囲」
「包丁を持っている」
「包丁くらい使える」
「それは知っているけれど」
凛音は、まな板の上の玉ねぎ、鍋、ボウルに割った卵を順に見た。
「何を作るつもり?」
「和風オムライス」
「和風?」
「凛音、甘すぎない味が好きだろ。あと、卵料理はわりと好きそうだから」
言った瞬間、凛音の動きが止まった。
しまった。
まだ序盤なのに、少し踏み込みすぎたかもしれない。
「……私の好きな味に?」
「うん」
「どうして?」
「看病してくれたお礼」
「それは喫茶店で済んだでしょう」
「でも、まだ足りない気がして」
「お礼が連鎖しているわ」
「たしかに」
俺が笑うと、凛音は少し困ったように眉を下げた。
「高坂くん」
「ん?」
「そういうことをされると、また私も何か返したくなる」
「じゃあ、また俺が返す」
「終わらないでしょう」
「終わらなくてもよくないか?」
自然に出た言葉だった。
凛音は、完全に固まった。
俺も少し遅れて意味に気づく。
終わらなくてもいい。
お礼をし合う関係。
ご飯を作ったり、心配したり、傘に入れたり、名前を呼んだり。
そういうやり取りが終わらないなら、それはたぶん、俺にとってかなり幸せなことだ。
「……高坂くんは」
「はい」
「夕飯を作り始める前から、心臓に悪い」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから?」
「……かなり、困る」
凛音は顔を赤くして、ようやく鞄をソファに置いた。
「手伝うわ」
「今日は俺が作る」
「でも」
「凛音は座って待ってて」
「それは落ち着かない」
「俺も凛音に看病されてたとき、何もしないの落ち着かなかったからわかる」
「なら、私も何か」
「じゃあ、味見係」
「味見係?」
「凛音の好きな味にしたいから」
また止まった。
今日は俺の言葉が全部地雷を踏んでいる気がする。
いや、甘い方向の地雷だ。
凛音は口元を押さえ、少しだけ視線を逸らした。
「……味見なら」
「うん」
「必要ね」
「必要」
「生活管理ではなく、品質管理」
「新しい管理が出た」
凛音は真面目な顔で言ったが、耳は赤かった。
◇
鶏ひき肉を炒めると、キッチンに香ばしい匂いが広がった。
玉ねぎ、きのこ、少しの醤油、みりん、だし。
甘くなりすぎないように、みりんは控えめ。
凛音は少し離れたところに立ち、俺の手元を見ている。
「座ってていいぞ」
「味見係は工程確認も必要」
「厳しい」
「高坂くんが私の好きな味にすると言ったから」
「責任重大だな」
「ええ」
凛音は真剣だった。
でも、どこか嬉しそうでもあった。
俺は小皿に具を少し取って、凛音に差し出した。
「味見お願いします」
「いただきます」
凛音は小さなスプーンで一口食べた。
その瞬間、少しだけ目が丸くなる。
「どう?」
「……おいしい」
短い言葉だった。
けれど、声が本当に柔らかかった。
「よかった」
「甘すぎない。でも、ちゃんと優しい味」
「凛音っぽい味にしたかった」
自分で言ってから、これは何だと思った。
料理の味を人に例えるな。
しかも本人の前で。
凛音はスプーンを持ったまま、顔を真っ赤にしている。
「……私っぽい味?」
「えっと、落ち着く感じというか」
「高坂くん」
「はい」
「料理中に、そういうことを言うと危険」
「包丁置いててよかった」
「本当に」
二人で少し笑った。
その笑いが自然だったから、余計に胸が温かくなる。
卵を焼く段階では、凛音が少しだけ近づいてきた。
「卵、火を入れすぎない方がいいわ」
「先生、お願いします」
「先生ではないけど」
「卵焼きの先生だろ」
「……それは、少し嬉しい」
「認めるんだ」
「卵料理は、少し自信があるから」
「知ってる。凛音の卵焼き、うまいし」
凛音は視線を落とした。
「高坂くんの卵料理も、たぶんおいしい」
「まだ完成してないぞ」
「途中の匂いでわかる」
「それ、すごく嬉しいな」
「……高坂くんは、嬉しいことが多いわね」
「凛音といると多い」
また言ってしまった。
凛音は今度、深く息を吸った。
たぶん自分を落ち着かせている。
「今日は、危険な日ね」
「俺が?」
「二人とも」
「公平?」
「公平」
凛音はうなずいた。
卵をフライパンに流し入れる。
じゅっと小さな音がして、黄色い膜が広がった。
凛音が横から少し助言する。
「そこ、火を弱めて」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
「焦らないで」
「はい」
「今のは?」
「項目ごとの返事」
「……それなら、まあ」
いつものやり取りがキッチンに戻ってくる。
けれど、いつもよりずっと近い。
肩が触れそうになる。
触れない。
でも、触れそうでいることを二人とも意識している。
そんな距離だった。
◇
完成した和風オムライスをテーブルに並べた。
ふわっとした卵の上に、だしのあんが薄くかかっている。
付け合わせは、ほうれん草のおひたしと、きのこのスープ。
デザートにヨーグルトと少しの蜂蜜。
凛音は席に座って、少しだけ驚いたように見ていた。
「本当に、ちゃんと作ったのね」
「疑ってた?」
「疑ってはいないけど、思ったより本格的」
「凛音に出すから」
凛音はスプーンを持ったまま止まった。
「……そういうことを」
「今日、何回目だろうな」
「数えきれないわ」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「今日は?」
「嬉しい方が、かなり勝っている」
凛音はそう言って、スプーンを入れた。
卵とご飯を一緒にすくい、一口食べる。
俺は、たぶん今までで一番緊張していた。
テストの返却より緊張する。
凛音はゆっくり飲み込むと、少しだけ目を伏せた。
「……好き」
時間が止まった。
俺は呼吸を忘れた。
凛音も、自分で言ってから完全に固まった。
スプーンを持ったまま、耳まで赤くなっていく。
「料理の話」
彼女はすぐに付け足した。
「今のは、この料理の味が好きという意味」
「わかってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「一瞬、心臓が止まりかけた」
「私も止まりかけたわ」
凛音はスプーンを置いて、両手で頬を押さえた。
「言葉の順番を間違えた」
「いや、でも」
「でも?」
「嬉しかった」
凛音はしばらく黙った。
そして、小さな声で言う。
「……料理は、本当に好き」
「ありがとう」
「悠真くんの作るご飯、好き」
今度は、ちゃんと言った。
名前つきで。
俺は完全に動けなくなった。
凛音は、赤い顔のまま、でも逃げなかった。
「料理の話」
「うん」
「でも」
「うん」
「ちゃんと、言いたかった」
胸の奥が、熱くなる。
告白ではない。
まだ、その言葉ではない。
でも、凛音が一歩ずつ近づいてくれているのがわかった。
「俺も」
俺はゆっくり言った。
「凛音に作れてよかった」
「……うん」
「また作る」
「お礼が続くわ」
「続いていいって言っただろ」
「それは、心臓に悪い」
「でも嫌じゃない?」
凛音は視線を落とした。
それから、静かに頷いた。
「嫌ではないわ」
◇
夕飯は、ゆっくり進んだ。
凛音は何度も「おいしい」と言ってくれた。
最初の一回だけで十分だったのに、二回、三回と。
そのたびに俺の心臓が少しずつ忙しくなる。
「高坂くん」
「家では?」
つい言ってしまった。
凛音はスプーンを止める。
「……悠真くん」
「はい」
「今、それを求めるのはずるい」
「ごめん」
「でも、言えたから……今日は勝ち」
「勝負だったのか」
「少し」
凛音はスープを飲みながら、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺は思う。
ああ、好きだ。
もう、何度でも思う。
でも、言うのはまだ少し先。
凛音が自分の言葉を探している。
俺も、ちゃんと言うタイミングを探している。
もどかしい。
でも、このもどかしさすら、今は少し愛おしかった。
食後、凛音が皿を運ぼうとしたので、俺は止めた。
「今日は俺が片づける」
「作った人が片づけまでするのは大変」
「じゃあ一緒に」
「……それなら」
結局、二人で片づけた。
俺が洗って、凛音が拭く。
単純な作業なのに、なんだか満たされていた。
「悠真くん」
「うん?」
凛音は皿を拭きながら、少しだけ顔を赤くしていた。
「今日のご飯、本当に嬉しかった」
「よかった」
「看病のお礼のお礼は、受け取ったわ」
「じゃあ、次は?」
「次?」
「お礼のお礼のお礼」
「本当に終わらないわ」
「終わらなくていい」
凛音は皿を置き、こちらを見た。
もう、前ほど驚かなかった。
代わりに、小さく笑った。
「……そうね」
「え?」
「終わらなくても、いいかもしれない」
俺は、皿を洗う手を止めた。
凛音はすぐに視線を逸らす。
「今のは」
「うん」
「お礼の話」
「わかってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
「じゃあ、本当に」
凛音は少しだけ安心したように息を吐いた。
でも俺にはわかる。
たぶん、凛音もわかっている。
お礼の話だけではない。
この関係が、終わらなくてもいい。
そう思っていることを。
その夜、凛音は俺の部屋の前まで来た。
いつものように小さくノック。
「悠真くん」
「起きてる」
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ、食べてくれてありがとう」
「……おやすみ」
「おやすみ、凛音」
扉は開かなかった。
でも、それで十分だった。
扉の向こうから、凛音の小さな声がもう一度聞こえた。
「悠真くんのご飯、また食べたい」
俺はしばらく返事ができなかった。
ようやく声を出す。
「また作る」
「……うん」
足音が遠ざかる。
部屋に一人残された俺は、天井を見上げて息を吐いた。
告白まではまだ届いていない。
でも、その手前の言葉が、今夜もまたひとつ増えた。




