第45話 友人たちはもう隠す気がない
雨の日の相合傘。
いや、相合傘ではない。
体調再発防止のための合理的避難行動。
凛音は帰宅後、そう言い張った。
俺も一応、それに頷いた。
ただし、あの狭い傘の中で肩が触れたことも、風で傘が煽られたとき凛音が俺の袖を掴んだことも、駅までそのままだったことも、全部覚えている。
覚えているどころか、翌朝になってもまだ鮮明だった。
登校中、俺は何度も自分の袖を見てしまった。
昨日、凛音が掴んでいた場所。
当然、何か跡が残っているわけではない。
でも、残っている気がした。
完全に重症である。
「高坂」
教室に入った瞬間、佐野がこちらを見た。
「何」
「昨日、雨だったな」
「そうだな」
「傘、どうした?」
「……どうにかなった」
「どうにかなった、ねえ」
佐野は妙に楽しそうに笑った。
まずい。
この顔は、何か知っている顔だ。
「お前、昨日濡れなかった?」
「少し」
「病み上がりなのに?」
「すぐ帰って着替えた」
「誰かに怒られた?」
「……別に」
「その間は怒られたやつ」
「怒られてない。注意されただけ」
「誰に?」
「……」
「はい沈黙」
佐野は満足そうに頷いた。
「氷室さん、傘持ってただろ」
「何で知ってる」
「白川さんから」
「お前ら本当に情報網どうなってるんだよ」
「友人ネットワーク」
「怖いな、そのネットワーク」
「有益だろ」
「俺からすると脅威だ」
佐野は笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「で、相合傘?」
「違う」
「違うのか」
「体調再発防止のための合理的避難行動」
言った瞬間、佐野が固まった。
それから、腹を抱えそうな勢いで笑いをこらえる。
「お前、それ誰の言い訳?」
「俺の」
「嘘つけ。完全に氷室さんだろ」
「……」
「沈黙二回目」
駄目だ。
今日は朝から守りが崩れている。
雨の日の余韻が残りすぎている。
佐野は机に肘をつき、声を落とした。
「高坂」
「何」
「そろそろ言えば?」
思ったより直球だった。
俺は一瞬、返事ができなかった。
「何を」
「それを俺に言わせる?」
「……」
「もうさ、見てるこっちがむずむずするんだよ。お前も氷室さんも、ほぼ答え出てるだろ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのはわかってる」
佐野の声は、いつものからかう調子ではなかった。
俺は少し驚いて、彼を見る。
佐野は焼きそばパンを持っていない。
つまり、かなり真面目な状態だ。
「でもさ、待ちすぎて言えなくなることもあるだろ」
「……」
「お前、待つの得意そうに見えるけど、実は限界近い顔してる」
「また顔か」
「顔」
佐野は軽く笑った。
「まあ、無理に急げとは言わないけど。言いたいなら、ちゃんと言えよ。病み上がりとか、快気祝いとか、相合傘じゃないとか、言い訳が増えすぎる前に」
「相合傘じゃない」
「はいはい、合理的避難行動な」
「雑にまとめるな」
「でも、楽しかったんだろ?」
俺は答えに詰まった。
佐野がにやっと笑う。
「ほら」
「……楽しかったよ」
「なら、それだけでも言っとけ」
「言った」
「お、成長」
「上から目線やめろ」
「恋愛相談の佐野だからな」
「その肩書き、まだ生きてたのか」
「生涯現役」
うざい。
でも、ありがたい。
そう思ってしまうあたり、俺もだいぶ佐野に慣らされている。
◇
一方そのころ。
凛音は凛音で、沙耶に捕まっていた。
「凛音」
「何」
「昨日、雨だったね」
「そうね」
「傘、使った?」
「使ったわ」
「誰か入れた?」
凛音の箸が止まった。
昼休み、弁当の時間。
沙耶はにこにこしながら、逃げ道を塞ぐように机へ身を乗り出している。
「……雨で濡れると、体調を崩すから」
「誰が?」
「人は」
「一般論?」
「一般論」
「高坂くん?」
凛音は黙った。
沙耶は「あ、やっぱり」と言いたげに笑った。
「相合傘したんだ」
「相合傘ではないわ」
「じゃあ何?」
「体調再発防止のための合理的避難行動」
沙耶は数秒、真顔で凛音を見た。
それから、口元を押さえた。
「凛音、それ可愛すぎる」
「笑わないで」
「ごめん。でも無理」
「本当に相合傘ではないの」
「うんうん。合理的避難行動ね」
「白川さん、絶対信じていないでしょう」
「信じてるよ。凛音がそう言わないと耐えられないことは」
「……」
図星だった。
凛音は弁当箱の卵焼きを見つめる。
昨日、傘の中は近かった。
肩が触れていた。
袖を掴んだ。
駅まで。
安全確保という言葉を使った。
でも、本当は離したくなかった。
それを思い出すと、まだ顔が熱くなる。
「凛音」
「何」
「もうさ、待ってるだけじゃなくて、言いたいなら言えばいいと思うよ」
沙耶の声が、いつもより少し柔らかくなった。
凛音は顔を上げる。
「簡単に言わないで」
「簡単じゃないのはわかってる」
沙耶は笑わなかった。
「でも、凛音はもう逃げてないじゃん」
「逃げていない?」
「前なら、聞かれたら全部『関係ない』で終わらせてた。今は違う。困って、照れて、でも少しずつ認めてる」
「……そう、かな」
「そうだよ」
沙耶は弁当のミニトマトを箸でつまみながら言う。
「高坂くんのこと、大事なんでしょ」
凛音はすぐには答えられなかった。
でも、否定もしなかった。
大事。
その言葉はもう、あまりに近い。
「……大事」
小さく言った。
沙耶の目が優しく細くなる。
「うん」
「でも、それだけじゃ足りないことも、わかっているわ」
「じゃあ、何?」
「……私からも、言いたいことがある」
言ってしまった。
悠真にだけ言うつもりだった言葉。
それを、沙耶にも少しだけ明かしてしまった。
沙耶は一瞬だけ驚いたように瞬きをした。
それから、からかうのではなく、ただ嬉しそうに笑った。
「それ、もう答えじゃん」
凛音の顔が熱くなる。
「答えではないわ」
「答えだよ」
「まだ言っていないもの」
「でも、言いたいんでしょ」
「……うん」
「じゃあ、あとは言うだけだね」
「そこが一番難しいの」
「知ってる」
沙耶は軽く頷いた。
「だから、練習する?」
「練習?」
「私相手に」
「無理」
「即答」
「高坂くんに言う言葉を、白川さんに言うのは無理」
「あ、それ本人限定なんだ」
「……」
「凛音、今のかなり強いよ」
凛音は両手で弁当箱を押さえた。
逃げられない。
最近の自分は、本当に隠すのが下手になっている。
でも、沙耶の前なら少しだけいいかもしれないとも思う。
この友人はからかう。
間違いなくからかう。
でも、本当に大事なところでは、ちゃんと見守ってくれる。
「白川さん」
「ん?」
「怖いの」
言ってから、凛音は自分で驚いた。
こんなに素直に言えると思っていなかった。
沙耶は茶化さずに聞いてくれた。
「何が?」
「言ったあと、変わることが」
「うん」
「でも、言わないまま変わらないことも、最近は少し怖い」
沙耶はしばらく黙った。
そして、ゆっくり言った。
「それなら、たぶんもう言うタイミングなんだと思う」
「……」
「すぐじゃなくてもいいけど。凛音が自分で、今だって思えたときに」
「うん」
「それまでは、私が見守る」
「からかわずに?」
「少しはからかう」
「白川さん」
「でも、壊さないように」
凛音は小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
沙耶はにっこり笑った。
「で、相合傘はどうだった?」
「白川さん」
「ごめん、ちょっとだけ」
「相合傘ではないわ」
「はいはい、合理的なやつ」
凛音は少しだけむくれた。
でも、心はほんの少し軽くなっていた。
◇
放課後。
俺は佐野に言われた言葉を引きずっていた。
そろそろ言えば。
簡単に言うな、とは思う。
でも、佐野の言葉は突き放したものではなかった。
たぶん、背中を押してくれている。
廊下で凛音とすれ違った。
目が合う。
一秒。
会釈。
通過。
学校では名字呼び。
余計な言葉は交わさない。
でも今日は、目が合った瞬間、凛音も少しだけ何かを言いたそうに見えた。
俺も同じだったと思う。
白川さんと佐野が何か言ったのだろう。
外堀はもう、かなり埋まっている。
家に帰ると、凛音は俺より少し遅れて戻ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
玄関でいつものやり取り。
凛音は靴を脱ぎながら、少しだけこちらを見た。
「高坂くん」
「うん?」
「今日、白川さんに」
「俺も佐野に」
また同時だった。
最近このパターンが増えている。
俺たちは顔を見合わせ、少しだけ笑った。
「そっちからどうぞ」
俺が言うと、凛音は鞄を置きながら言った。
「相合傘のことを聞かれたわ」
「こっちも似たような感じ」
「私は、相合傘ではないと説明した」
「俺も、合理的避難行動だと」
「……言ったの?」
「言った」
「佐野くん、何て?」
「笑ってた」
「白川さんも笑っていたわ」
「だろうな」
二人で少し黙った。
それから、凛音が小さく言う。
「でも」
「うん」
「白川さんに、少しだけ背中を押された」
「俺も、佐野に」
「佐野くんも?」
「そろそろ言えば、って」
凛音の動きが止まった。
「……そう」
「凛音は?」
「言いたいなら言えばいい、と」
「そっか」
「うん」
リビングに入っても、しばらく二人とも座らなかった。
何か、大事な話が始まりそうな空気だった。
でも、まだその一歩を踏み出せない。
凛音も同じように感じているのか、視線が少し揺れている。
「凛音」
「何?」
「俺、言いたいことがある」
凛音の息が止まった。
俺も、自分で言って心臓が跳ねた。
でも、続けた。
「でも、今すぐじゃなくていいって思ってる」
「……うん」
「ちゃんと、凛音が言いたいことを言えるときに、俺も言う」
凛音は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せる。
「私も」
「うん」
「言いたいことがある」
「うん」
「でも、まだ少し怖い」
「俺も怖い」
凛音が顔を上げた。
「悠真くんも?」
名前だった。
家だから。
でも、不意打ちだった。
俺は一瞬固まる。
凛音も言ってから赤くなるが、今日は取り消さなかった。
「……俺も怖いよ」
「そう」
「でも、言いたい」
「……私も」
たったそれだけの会話だった。
告白ではない。
まだ、答え合わせでもない。
でも、お互いが同じ場所に立っていることはわかった。
「夕飯」
凛音が小さく言った。
「作ろうか」
「一緒に」
「うん」
その言葉で、少しだけ空気が日常へ戻った。
でも完全には戻らない。
今日の夕飯は、いつもより少し静かで、少し甘かった。
◇
夜。
凛音は部屋の前に来た。
小さなノック。
「悠真くん」
最初から名前だった。
俺はベッドの上で体を起こす。
「起きてる」
「入ってもいい?」
「いいよ」
扉が開く。
凛音は部屋に入ると、入口の近くで立ち止まった。
まだ距離はある。
でも、最初に比べたらずいぶん近い。
「今日は、少しだけ」
「うん」
「白川さんに言われたこと、考えていたの」
「俺も、佐野に言われたこと考えてた」
「友人は、少し面倒ね」
「でも、ありがたい?」
「……うん」
凛音は小さく頷いた。
「白川さんに、言いたいなら言えばいいと言われた」
「うん」
「でも、言うなら、ちゃんと自分で決めたい」
「うん」
「背中を押されるのはありがたいけれど、押されたから言うんじゃなくて」
凛音は胸元で手を握る。
「私が言いたいから、言いたい」
その言葉が、胸に響いた。
俺は静かに頷く。
「俺もそうする」
「うん」
「佐野に言われたからじゃなくて、俺が言いたいから言う」
凛音は少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、同じね」
「同じだな」
それだけで、十分だった。
凛音は扉へ戻ろうとして、ふと立ち止まる。
「悠真くん」
「うん」
「今日は、まだ言えない」
「うん」
「でも、言う準備はしている」
胸が鳴った。
「俺も」
「……おやすみ」
「おやすみ、凛音」
凛音は少し照れたように目を伏せ、それから部屋を出た。
扉が閉まる。
俺はしばらく、その扉を見つめていた。
友人たちはもう隠す気がない。
俺たちも、たぶんもう隠しきれていない。
それでも最後の一言だけは、ちゃんと自分たちで選びたい。
その一言まで、あと少しだった。




