第44話 雨の日、相合傘ではありません
天気予報は、外れることがある。
朝のニュースでは、夕方まで曇りと言っていた。
降水確率は二十パーセント。
傘を持っていくか少し迷って、結局俺は持っていかなかった。
凛音は持っていた。
玄関でそれを見たとき、俺は少し驚いた。
「今日、雨降るっけ?」
「念のため」
「降水確率二十パーセントだぞ」
「二十パーセントはゼロではないわ」
「真面目」
「高坂くんは、ゼロではない危険を軽く見るところがある」
「風邪の件をまだ言ってる?」
「もちろん」
「信用十割じゃなかったのか」
「信用と備えは別」
凛音は折りたたみ傘を鞄に入れた。
俺はそのとき、「まあ、使わないだろう」と思った。
完全に油断だった。
◇
放課後、校舎の窓に雨粒が当たっていた。
ぽつぽつ、ではない。
しっかり降っている。
空は灰色で、校庭の土はすでに濡れ始めていた。
「……まじか」
昇降口で俺は立ち止まった。
周囲では、傘を持っている生徒たちが次々に出ていく。
持っていない生徒は、友達の傘に入れてもらったり、諦めて走ったりしている。
俺はスマホで雨雲レーダーを見た。
しばらくやみそうにない。
家まで帰れないほどではない。
駅までは走ればなんとかなる。
ただ、病み上がりという単語が頭をよぎった。
もし濡れて帰って、また体調を崩したら。
凛音に怒られる。
いや、怒られるだけならまだいい。
また心配させる。
それは嫌だった。
「高坂」
後ろから佐野が声をかけてきた。
「傘ないの?」
「ない」
「二十パーセントを信じた男の末路」
「うるさい」
「俺もない」
「お前もかよ」
「俺は百パーセントでも忘れる自信がある」
「自慢することじゃない」
佐野は昇降口の外を見ながら、少し考えた。
「走る?」
「駅まで?」
「まあ、いけるだろ」
「俺、病み上がり」
「あ、そうだった」
佐野はそこで、珍しく真面目な顔になった。
「じゃあ走るな。誰かに入れてもらえ」
「誰かって」
「心当たりあるだろ」
「ない」
「即答が嘘」
「ない」
「白川さん経由で聞いたけど、氷室さん折りたたみ持ってるらしいぞ」
「情報網が怖すぎる」
「使えるものは使え」
「学校では名字呼び徹底」
「傘の話から何でそこに飛ぶんだよ」
「いろいろ危険なんだよ」
佐野は笑った。
だが、すぐに肩をすくめる。
「まあ、冗談はともかく、濡れて帰るのはやめとけ。氷室さんじゃなくても心配する」
「お前も?」
「一応」
「一応か」
「友人だからな」
便利な言葉だ。
でも、今日はありがたかった。
「俺は購買でビニール傘売ってないか見てくるわ」
「売ってるのか?」
「たぶんない。でも探す」
「じゃあ俺も」
「高坂は待ってろ。お前が濡れると怒られそうだから」
「誰に」
「さあ?」
佐野は意味ありげに笑って、廊下へ戻っていった。
俺は昇降口に残された。
スマホを見る。
凛音へメッセージを送るべきか迷う。
『傘忘れた』
いや、これだと心配させる。
『雨すごいな』
遠回しすぎる。
『傘ある?』
あからさま。
何を悩んでいるんだ、俺は。
そんなことをしていると、スマホが震えた。
凛音からだった。
『傘、持っていますか?』
見抜かれている。
俺は少し笑ってしまった。
『持ってない』
すぐ既読。
『昇降口にいますか?』
『いる』
『校門では目立つので、少し離れた角のコンビニ前まで来られますか? 濡れない範囲で』
細かい。
だが、ありがたい。
『わかった』
『走らないでください』
『はい』
『はいは一回』
『はい』
ここでもそれか。
俺はスマホをしまい、鞄を頭の上に少し掲げながら、昇降口から出た。
幸い、校門までは屋根のある通路が途中まで続いている。
そこから先は少し濡れるが、走らず早歩きで何とかなる距離だった。
◇
コンビニ前に着くと、凛音はすでにいた。
学校から少し離れた場所。
ここなら同級生に見られる可能性は低い。
彼女は紺色の折りたたみ傘を差していた。
制服姿で、肩に鞄をかけている。
雨の中でも、凛音はきちんとして見えた。
「高坂くん」
「ごめん、待たせた」
「待っていないわ。濡れた?」
「少しだけ」
凛音はすぐに俺の肩と髪を見る。
「少しではない」
「いや、だいぶ少し」
「日本語がおかしい」
「ごめん」
「風邪が治ったばかりなのに」
「すみません」
「謝るより、傘に入って」
凛音は傘を少しこちらへ傾けた。
その動作で、俺は一瞬固まった。
傘に入る。
つまり、相合傘。
いや、違う。
雨を避けるための合理的行動。
体調再発防止。
そう、体調再発防止だ。
「……いいのか?」
「このまま濡れたら再発の危険があるわ」
「体調管理?」
「再発防止」
「なるほど」
「相合傘ではありません」
「まだ何も言ってない」
「顔」
「顔、また喋った?」
「かなり」
凛音は傘を差し出したまま、少しだけ頬を赤くしている。
俺はその隣に入った。
傘は一人用だ。
二人で入るには、どうしても距離が近くなる。
肩が触れそうになる。
凛音は傘を俺の方へ寄せてくれているせいで、自分の肩が少し濡れそうだった。
「凛音、そっち濡れる」
「高坂くんが濡れるよりいい」
「よくないだろ」
「病み上がり」
「もう治った」
「再発防止」
「便利だな、再発防止」
「便利ではなく正確」
いつもの返し。
でも、声が少し近い。
傘の中は、外よりも狭い世界だった。
雨音が、傘の布を叩いている。
ぽつぽつではなく、ぱらぱらと続く細かい音。
外の景色が少し白くかすんで見える。
俺たちは並んで歩き出した。
◇
駅までの道は、いつもより長く感じた。
いや、実際にはいつもと同じだ。
けれど傘の中だと、歩幅を合わせなければならない。
少しでも離れると、どちらかが濡れる。
凛音は傘を持つ手に力を入れていた。
「持とうか?」
俺が言うと、凛音は首を横に振った。
「私の傘だから」
「でも、俺の方が背が高いし、持った方が濡れにくいかも」
「……それは」
「凛音、肩濡れてる」
俺が指摘すると、凛音は自分の肩を見た。
確かに少し濡れている。
彼女は迷ったあと、傘の柄を少しだけこちらへ差し出した。
「じゃあ、少しだけ」
「うん」
俺が傘を受け取る。
そのとき、指が触れた。
ほんの一瞬。
でも、傘の中の空気がさらに狭くなる。
「……ごめん」
「謝ることではないわ」
「うん」
「傘の受け渡し上、必要な接触」
「合理的」
「ええ」
凛音は真面目に言った。
ただし顔は赤い。
俺が傘を持つと、どうしても凛音を濡らさないように意識する。
少し傘を彼女側へ寄せる。
すると、俺の肩が濡れる。
それに気づいた凛音が、すぐに眉を寄せた。
「高坂くん、そっちが濡れている」
「少しくらい平気」
「平気ではない」
「じゃあ、もう少し寄る?」
言った瞬間、凛音が止まりかけた。
俺も自分の発言に気づいて止まりかけた。
だが、雨の中で立ち止まると余計に濡れる。
歩きながら、凛音は小さく言った。
「……再発防止のためなら」
「うん」
「仕方ないわ」
彼女が、半歩だけ近づいた。
肩が触れた。
今度ははっきりと。
制服越しの小さな接触。
喫茶店の帰りに手を繋いだときとは違う。
傘の中で、雨から逃げるために寄り添う距離。
凛音は前を向いたまま、まったくこちらを見ない。
けれど耳が赤い。
俺も前を向くしかなかった。
「これは」
凛音が言う。
「うん」
「相合傘ではなく、体調再発防止」
「うん」
「雨天時の合理的避難行動」
「長いな」
「正確に言う必要があるわ」
「誰に?」
「私に」
この前のカップルセットのときも同じようなことを言っていた。
凛音は、自分に言い聞かせる必要があるときほど説明が長い。
俺は少し笑った。
「笑った?」
「少し」
「高坂くん」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しい?」
「……困る」
「困るのか」
「嬉しいから、困る」
傘の中で聞くその声は、雨音に混ざって少しだけ柔らかかった。
◇
駅へ向かう道の途中、小さな横断歩道がある。
信号待ちで立ち止まると、傘の中の近さがさらに強く意識された。
歩いているときはまだいい。
歩幅を合わせるとか、濡れないようにするとか、言い訳がある。
でも立ち止まると、ただ近い。
凛音は鞄を胸元で持ち直した。
「白川さんに見られたら」
「終わり?」
「終わりではないけれど、かなり説明が必要になる」
「佐野に見られても同じだな」
「二人が情報共有したら」
「もう隠せないかもな」
凛音は少しだけ目を伏せた。
「……隠すの、下手になってきたわね」
「最初からあまり上手くなかった気もする」
「高坂くんが言う?」
「俺も下手」
「そうね」
「そこは否定してほしかった」
「事実だから」
二人で少し笑った。
信号が青になる。
歩き出す。
その瞬間、横から強い風が吹いた。
「わっ」
凛音が小さく声を出す。
傘が煽られ、俺は慌てて柄を握り直した。
凛音の方へ雨が吹き込む。
その瞬間、彼女の手が俺の袖を掴んだ。
ぎゅっと。
反射的に。
俺は動けなくなった。
凛音も、自分が何をしたか気づいて固まる。
風はすぐに弱まった。
傘も安定する。
けれど、凛音の手は俺の袖を掴んだままだった。
「……凛音」
「今のは」
「うん」
「風で傘が揺れたから」
「うん」
「転びそうになったわけではないけれど、念のため」
「うん」
「安全確保」
「合理的」
「……ええ」
凛音は袖を離そうとした。
けれど、途中で止まった。
俺も何も言わなかった。
傘を持つ手とは反対側の袖を、彼女が掴んでいる。
手を繋いでいるわけではない。
でも、近い。
相合傘ではない。
袖を掴まれているだけ。
それなのに、心臓は昨日の手繋ぎを思い出している。
「離した方がいい?」
俺が聞くと、凛音は小さく首を横に振った。
「……駅まで」
「駅まで?」
「雨で足元が滑るから」
「そっか」
「安全確保」
「うん」
「深い意味を、勝手に足さないで」
「わかった」
「本当に?」
「本当に」
と言いながら、俺は完全にはわかっていなかった。
いや、わかっている。
凛音が言い訳を作ってくれていることも。
その言い訳の中に、本音が少しだけ混ざっていることも。
俺は傘を少し持ち直し、凛音が濡れないように歩いた。
彼女は俺の袖を掴んだまま、静かに隣を歩く。
雨音が続いている。
白く曇った道。
狭い傘の中。
この距離が、嫌ではなかった。
むしろ、駅までの道がまた少し短く感じた。
「高坂くん」
「ん?」
「雨の日は、少し危険ね」
「体調的に?」
「それもあるけど」
「けど?」
凛音は俺の袖を握る指に、ほんの少しだけ力を込めた。
「距離が、近くなるから」
その一言で、俺は傘を落としそうになった。
いや、落とさなかった。
そこは何とか耐えた。
「……凛音」
「何?」
「今日は、かなりちゃんと言うな」
「言わないと、伝わらないことがあるから」
以前、喫茶店の帰りに言っていた言葉。
その続きみたいだった。
「でも、言うと心臓に悪いわ」
「俺も悪い」
「なら、公平」
「公平なのか」
「少し」
凛音は真面目に頷いた。
その顔を見て、俺は思う。
もう、ほとんど言っているのと同じだ。
彼女も、俺も。
それでも最後の一言だけ、まだ大事に抱えている。
雨の日の相合傘。
いや、相合傘ではない。
体調再発防止の合理的避難行動。
でも、その中で彼女が袖を掴んでいることだけは、紛れもない現実だった。
◇
駅に着くと、凛音は袖から手を離した。
少しだけ名残惜しそうに見えたのは、俺の都合のいい見方だろうか。
いや、たぶん違う。
凛音は自分の手を見て、少しだけ頬を赤くしていた。
「濡れてない?」
俺が聞くと、凛音は自分の肩を確認した。
「少しだけ」
「ごめん」
「高坂くんの方が濡れている」
「俺は平気」
「帰ったら、すぐ着替えて」
「はい」
「温かいものを飲む」
「はい」
「はいは一回」
「今のは項目ごとの返事」
「……それは、まあ」
凛音は少しだけ口元を緩めた。
駅のホームへ上がる。
傘は閉じた。
傘がなくなると、さっきまでの狭い世界が終わる。
少し寂しい。
でも、隣に凛音がいる。
それだけで十分な気もする。
「高坂くん」
「うん?」
「今日は、家に帰ったら生姜入りのスープにするわ」
「本当に体調管理されてる」
「雨に濡れたから」
「俺が作るの手伝う」
「袖を掴んだから、傘を持つ手が疲れたでしょう」
「それ関係ある?」
「私が作る」
「じゃあ、皿を出す」
「それなら」
いつものやり取り。
けれど、雨の日の余韻が残っている。
ホームに電車が入ってくる音がした。
凛音は少しだけこちらを見た。
「高坂くん」
「何?」
「傘、入れてくれてありがとう」
「凛音の傘だけどな」
「でも、持ってくれたから」
「こちらこそ、入れてくれて助かった」
「……うん」
電車のドアが開く。
俺たちは並んで乗った。
今日は手を繋いでいない。
袖も掴んでいない。
それでも、雨の傘の中で近づいた距離は、簡単には戻らなかった。




