第43話 悠真くん用ではありません
朝、キッチンから卵を焼く匂いがした。
それだけで、今日の朝はもう少し危険だとわかった。
なぜなら、凛音が卵焼きを作っている日は、だいたい俺の心臓にも何かが起きるからだ。
リビングへ行くと、凛音は制服の上にエプロンをつけ、いつもより少し真剣な顔で弁当箱を並べていた。
弁当箱は二つ。
一つは凛音のもの。
もう一つは、明らかに俺のものだった。
「おはよう」
「……おはよう、高坂くん」
家なのに、名字だった。
昨日の学校で「ゆ――」と言いかけた件がまだ尾を引いているのだろう。
俺は椅子に座りながら、弁当箱を見る。
「今日、弁当?」
「ええ」
「俺の分も?」
「食材が余ったから」
「久しぶりに聞いたな、その理由」
「事実よ」
「余る前提で食材買ってない?」
「……計算上、余ったの」
「それは余ったと言うのか」
「言うわ」
凛音は真面目な顔で卵焼きを切り分けた。
今日の卵焼きは、少し厚めで、きれいな黄色をしている。
隣には鶏そぼろ、ほうれん草のおひたし、ミニトマト、そして小さなチーズ焼きブロッコリー。
完全に俺の好みだった。
「これ、すごいな」
「普通」
「普通の弁当には、俺がブロッコリー避けないようにチーズ焼き入ってないと思う」
凛音の手が止まる。
「……栄養バランス」
「生活管理?」
「ええ」
「名前呼び管理の次は栄養管理か」
「高坂くんは、油断すると野菜を後回しにするから」
「観察されてるな」
「観察」
凛音はそう言いながら、弁当箱の蓋を閉めようとした。
その前に、小さな付箋を取り出す。
どうやら弁当箱の上に貼るつもりらしい。
俺は何気なく見ていた。
凛音はペンを持ち、さらさらと文字を書く。
『悠真くん用』
そこまで書いたところで、凛音の手が完全に止まった。
俺も止まった。
空気も止まった。
弁当箱の上の小さな付箋に、はっきりと書かれている。
悠真くん用。
凛音はゆっくり俺を見た。
俺も、ゆっくり凛音を見た。
「……今のは」
「見た」
「見ないで」
「もう見た」
「忘れて」
「無理」
「努力して」
「努力しても無理」
凛音は顔を赤くして、慌てて付箋を剥がした。
「これは、書き間違い」
「書き間違いで下の名前とくん付けまで出る?」
「出る場合もあるわ」
「かなり限定的な場合だな」
「高坂くん」
「はい」
「これは、学校に持っていく弁当だから」
「うん」
「もしこの付箋が貼られていたら、終わっていたわ」
「佐野に見られたら終わりだな」
「白川さんにも伝わる」
「情報網が怖い」
「本当に怖いわ」
凛音は別の付箋を取り出し、今度は慎重に書いた。
『高坂くん用』
書いたあと、それを見てまた少し固まる。
「これも危険では?」
俺が言うと、凛音は真剣に頷いた。
「危険ね」
「じゃあ、何も貼らない方がいいんじゃないか」
「でも、どちらかわからなくなる」
「弁当箱、違うだろ」
「念のため」
「念のためが危険すぎる」
凛音は少し考え、最終的に付箋にこう書いた。
『大』
俺は思わず笑った。
「大?」
「高坂くんの方が少し量が多いから」
「合理的」
「ええ」
「でも、俺のこと大って書かれるの、ちょっと面白いな」
「笑わないで」
「ごめん」
「名前を書くより安全」
「それは間違いない」
凛音は弁当箱を布で包み、俺に差し出した。
「はい」
「ありがとう、凛音」
名前を呼ぶと、凛音の肩が少しだけ跳ねた。
家だからいい。
そういうルールだ。
それでも、まだ慣れないらしい。
「……どういたしまして」
「今日も楽しみにしてる」
「期待しすぎないで」
「無理」
「努力して」
「努力はする」
凛音は目を伏せた。
それから、本当に小さな声で言った。
「……悠真くん用、ではありません」
「うん」
「食材が余っただけ」
「うん」
「でも」
「でも?」
「食べてくれたら、嬉しい」
その一言で、朝から俺の心臓は完全に負けた。
◇
学校では、弁当箱の扱いに細心の注意を払う必要があった。
何しろ今日の弁当は、危うく「悠真くん用」と書かれかけた弁当である。
いや、書かれた。
貼られなかっただけだ。
鞄の中に入っているだけなのに、妙に存在感がある。
昼休み。
俺が弁当箱を取り出すと、佐野は即座に反応した。
「お」
「何」
「今日は例の弁当復活か」
「見るな」
「見るだろ。久しぶりじゃん」
「久しぶりってほどじゃない」
「で、今日の理由は?」
「食材が余った」
「出た、名言」
「名言にするな」
「そのうち辞書に載るぞ。食材が余る、意味・好きな相手に弁当を作る際の照れ隠し」
「勝手に辞書を作るな」
佐野は笑いながら、俺の弁当を覗き込んだ。
蓋を開けた瞬間、佐野の目が細くなる。
「うわ、ガチだ」
「ガチって言うな」
「鶏そぼろ、卵焼き、ほうれん草、ブロッコリーチーズ焼き。完全に高坂仕様じゃん」
「なぜわかる」
「お前、ブロッコリーそのままだと避けるけど、チーズ焼きだと食うだろ」
「お前まで観察してるのか」
「友人だからな」
「便利だな、友人」
「便利ではなく正確」
「それやめろ」
佐野は楽しそうに笑ったあと、少し声を落とした。
「で、今日は何かメモとか入ってないの?」
「ない」
「怪しい」
「本当にない」
「弁当箱の底とか」
「見るな」
「見るなと言われると見たくなる」
「やめろ」
俺は弁当箱を自分の方へ寄せた。
底に何かあるわけではない。
たぶん。
いや、ないはずだ。
凛音はそこまでしない。
……と思う。
弁当を食べる。
うまい。
卵焼きは甘め。
鶏そぼろは少し生姜が効いていて、ご飯が進む。
チーズ焼きブロッコリーは、悔しいくらい食べやすい。
「顔」
佐野が言った。
「何」
「幸せそう」
「弁当がうまいから」
「誰の弁当かも大事だろ」
「……うまいから」
「否定が弱い」
佐野は焼きそばパンをかじりながら、ふっと笑った。
「まあ、ちゃんと礼言っとけよ」
「言う」
「名前で?」
「学校では名字」
「お、ルールあるんだ」
「しまった」
また余計なことを言った。
佐野は完全に楽しんでいる。
「家では?」
「聞くな」
「やっぱり家では違うんだな」
「聞くな」
俺は弁当に集中するふりをした。
でも、頭の中には朝の付箋が残っている。
悠真くん用。
あれを思い出すだけで、弁当の味がさらに甘くなる気がした。
◇
そのころ凛音は、沙耶の前で弁当を開けていた。
「凛音」
「何」
「今日のお弁当、気合い入ってるね」
「普通よ」
「その普通、もう信じてない」
「いつも通り」
「じゃあ、誰かの分も作った?」
凛音の箸が止まった。
沙耶はそれを見逃さない。
「あ、作ったんだ」
「……食材が余っただけ」
「出た」
「何が?」
「食材が余っただけ、って便利だね」
「便利ではなく正確」
「高坂くんも同じこと言いそう」
凛音は黙った。
最近、自分の口癖が悠真に移っている気がする。
そして、悠真の言い回しも自分に移っている気がする。
それが少し嬉しいと思ってしまうのが、さらに困る。
「ねえ、凛音」
「何」
「誰かのために作るお弁当って、楽しい?」
直球だった。
凛音は完全に動けなくなった。
卵焼きを箸で持ち上げたまま、固まる。
「……一般論?」
「うん。一般論」
「料理は、食べる人の好みに合わせると改善点が明確になるわ」
「それ、楽しい?」
「……」
沙耶はにこにこしている。
逃がす気がない。
でも、悪意はない。
凛音は少しだけ視線を落とした。
今朝の付箋を思い出す。
悠真くん用。
あれは失敗だった。
でも、書こうとした自分の気持ちは、間違いではなかった。
悠真くんに食べてほしい。
美味しいと思ってほしい。
元気でいてほしい。
そう思って作った。
「……楽しい、かもしれない」
小さく答えると、沙耶の目が少しだけ丸くなった。
「凛音が認めた」
「一般論」
「はいはい、一般論ね」
「本当に」
「でも、良かった」
「何が?」
「凛音が楽しそうだから」
その言葉に、凛音は少し戸惑った。
沙耶は笑っている。
でも、からかうだけの顔ではない。
「大事にしてるんだね」
凛音は返事をしなかった。
けれど、否定もしなかった。
卵焼きを一口食べる。
甘い。
高坂くん好み。
いや、家では。
悠真くん好み。
そう思っただけで、また顔が熱くなった。
◇
放課後。
俺は家に帰ると、まず弁当箱を洗おうとした。
凛音に作ってもらった弁当箱を、そのまま返すのは嫌だったからだ。
キッチンで洗剤を出していると、凛音が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「……洗っているの?」
「うん」
「私が洗うのに」
「作ってもらったから、洗うくらいは」
「でも」
「ありがとう。今日もうまかった」
凛音は言葉を止めた。
鞄を持ったまま、キッチンの入口で固まっている。
「卵焼きも、鶏そぼろも、ブロッコリーも」
「ブロッコリー、食べた?」
「食べた」
「避けなかった?」
「チーズ焼きだったから」
「……よかった」
凛音は小さく息を吐いた。
その安心した声が、妙に胸に響く。
「凛音」
「何?」
「弁当、嬉しかった」
「食材が余っただけ」
「うん」
「悠真くん用では、ないから」
自分で言った。
言ってから、凛音は完全に赤くなった。
俺も、蛇口を止めたまま固まった。
「……今のは」
「自分で言ったな」
「忘れて」
「無理」
「努力して」
「今日は努力できない」
「高坂くん」
「だって、嬉しかったから」
凛音は顔を逸らした。
「……そういうことを、すぐ言う」
「言いたかった」
「ずるい」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから困る?」
「……かなり」
凛音は小さく答えた。
俺は弁当箱を洗い終え、水気を拭いた。
そのまま返そうとして、ふと思いつく。
「凛音、ちょっと待って」
「何?」
俺はメモ帳を取り出した。
小さな紙に、短く書く。
『今日もありがとう』
それを弁当箱の中にそっと入れて、蓋を閉めた。
「これ、返却」
「中に何か入れた?」
「見ればわかる」
「今?」
「今でも、あとでも」
凛音は迷ったあと、その場で弁当箱を開けた。
メモを見る。
そして、動かなくなった。
「……高坂くん」
「うん」
「こういうことをされると」
「うん」
「また作りたくなる」
その言葉で、俺は胸がいっぱいになった。
「じゃあ、また食べたい」
凛音はメモを両手で持ったまま、赤い顔で頷いた。
「……食材が余ったら」
「うん」
「また、作る」
彼女はそう言って、メモを大事そうに持った。
たった一枚の紙。
でも、今の俺たちには十分すぎるくらいの言葉だった。




