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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第42話 学校で名前を呼びそうになる日

 学校という場所は、家で起きた出来事を持ち込むには向いていない。


 特に、それが名前呼びに関する出来事なら、なおさらだ。


 朝、玄関で凛音は言いかけた。


『行ってらっしゃい、ゆ――』


 あれは危なかった。


 もし学校で出ていたら終わっていた。


 いや、終わりはしないかもしれないが、佐野と白川さんに完全に詰められる未来だけは見える。


 俺は教室の席に着きながら、深く息を吐いた。


 今日は絶対に普通にする。


 学校では高坂くんと氷室さん。


 家では、たまに名前。


 そういうルールだ。


 それなのに。


「高坂」


 佐野が机の横に立った。


「何」


「朝から顔がうるさい」


「顔は喋らない」


「お前の顔はわりと喋る」


「嫌な能力だな」


「何かあっただろ」


「何も」


「昨日より否定が早い」


「朝は忙しいからな」


「じゃあ聞き方を変える。名前で呼ばれた?」


 俺は教科書を落としかけた。


 ぎりぎりで机に押さえる。


 佐野が勝ち誇った顔をした。


「はい確定」


「何がだよ」


「お前、今の反応は確定だろ」


「違う」


「じゃあ誰に名前で呼ばれた?」


「誰にも」


「高坂って名前?」


「名字だろ、それは」


「じゃあ下の名前?」


「……」


「沈黙」


 まずい。


 完全にまずい。


 俺は鞄から筆箱を出すふりをして視線を逸らした。


「朝から変なこと聞くな」


「変なのはお前の反応だよ」


「病み上がりだから」


「もう治ったんだろ」


「精神的には病み上がり」


「恋の病か?」


「黙れ」


 佐野は声を殺して笑った。


 周囲に聞こえないようにしてくれているあたり、最低限の配慮はある。


 ただ、顔が腹立つ。


「まあ、いいけどさ」


「いいなら聞くな」


「でも高坂、学校では気をつけろよ」


「何を」


「名前」


 心臓がまた一回跳ねた。


 佐野は意外と真面目な顔をしている。


「お前が呼ばれる側でも、呼ぶ側でも、学校で出たら面倒だろ。氷室さん、目立つし」


「……わかってる」


「ならいい」


「お前、たまに友達っぽいな」


「普段も友達だろ」


「たまに探偵」


「それも友達の仕事」


「違うと思う」


 佐野は笑って自分の席へ戻っていった。


 からかわれたのに、少しだけ助かった気分だった。


 気をつけろ。


 確かに、その通りだ。


     ◇


 問題は、俺だけではなかった。


 二時間目の休み時間。


 廊下で凛音とすれ違った。


 いつもの一秒会釈。


 そのはずだった。


 けれど今日の凛音は、いつもより明らかに意識していた。


 目が合う。


 一秒。


 会釈。


 通過。


 ……で、終わるはずだった。


 俺の手から、プリントが一枚滑り落ちた。


 何度目だ、この展開。


 呪われているのか、俺のプリントは。


「あ」


 俺が拾おうとすると、凛音も反射的に手を伸ばした。


 指先が近づく。


 凛音が一瞬、息を呑む。


 そして、口が動いた。


「ゆ――」


 廊下の空気が凍った。


 俺の心臓も凍った。


 凛音自身も凍った。


 その直後、彼女は信じられない速さで言い直した。


「高坂くん、プリント」


「……ありがとう、氷室さん」


 俺はプリントを受け取った。


 指先は触れなかった。


 触れなかったのに、心臓は触れたとき以上に騒いでいる。


 凛音の耳が赤い。


 俺もたぶん赤い。


 そして最悪なことに、廊下の少し先に白川さんがいた。


 見ていた。


 完全に見ていた。


 白川さんはにこにこしながら近づいてくる。


「凛音」


「何」


「今、何て言いかけたの?」


「高坂くん」


「その前」


「何も」


「ゆ、って聞こえたけど」


「聞き間違い」


「廊下って耳が悪くなる場所だったっけ?」


 どこかで聞いたような言い回しだった。


 凛音は無表情を保っている。


 だが、耳は真っ赤だ。


 氷の令嬢としては致命的な赤さである。


「白川さん」


「はい」


「次の授業に遅れるわ」


「そうだね。でも一個だけ」


「何」


「高坂くんの下の名前って、悠真くんだよね」


 俺は呼吸を忘れた。


 凛音は完全に停止した。


 白川さんは、にこにこしている。


 悪意はない。


 だが、逃がす気もない。


「そうなの?」


 白川さんが俺を見る。


「……まあ」


「へえ」


「何だよ」


「いや、別に。凛音が言いかけた音と似てるなって」


「白川さん」


 凛音の声が、少し低くなった。


 白川さんは楽しそうに手を振る。


「はいはい。今日はここまでにしておきます」


「今日だけではなく、今後も」


「それは内容によるかな」


「白川さん」


「怒らない怒らない。凛音が困ることはしないよ」


 最後だけ、少し優しい声だった。


 凛音はそれ以上何も言えず、ただ小さく息を吐いた。


 俺はプリントを手に、そっとその場を離れた。


 背中に、白川さんの視線を感じる。


 これはもう、完全に気づかれている。


     ◇


 昼休み。


 佐野は当然のように俺の前に座った。


「高坂」


「何も言うな」


「まだ言ってない」


「言う顔をしてる」


「俺の顔も喋るようになったか」


「お前は口も喋るから厄介だ」


 佐野は購買のパンを開けながら、声を落とした。


「氷室さん、今日お前の名前呼びかけた?」


「聞いてたのか?」


「白川さんから聞いた」


「情報共有早すぎだろ!」


「やっぱり?」


「しまった」


 俺は頭を抱えたくなった。


 佐野と白川さんが繋がっている。


 もう外堀どころか、橋まで架かっている気がする。


「で、実際どうなんだよ」


「どうって」


「名前で呼ばれてるのか?」


「……家では」


 言ってしまってから、俺は自分の口をふさぎたくなった。


 家では。


 最悪の情報である。


 佐野の目が一瞬で輝いた。


「家では?」


「違う。今のは言葉のあや」


「高坂」


「何」


「家では、って何?」


「一般論」


「一般論で家ではって言うやついないだろ」


「いるかもしれない」


「いない」


 佐野はパンを置いた。


 笑っているが、声は意外と穏やかだった。


「まあ、詳しくは聞かないけどさ」


「本当か?」


「今は」


「今は?」


「そのうち自白しそうだから」


「最低だな」


「友人だからな」


 便利すぎる、友人。


 俺はため息をついた。


「でも、学校では名字呼び徹底する。そこは決めてる」


「いい判断だと思う」


 佐野は意外にも真面目に頷いた。


「高坂も氷室さんも、周りから見られやすいしな。特に氷室さんは目立つ」


「わかってる」


「でも家では名前か」


「そこに戻るな」


「いや、いい響きだなと思って」


「お前、楽しんでるだろ」


「だいぶ」


 佐野は悪びれなかった。


     ◇


 そのころ、凛音も沙耶に捕まっていた。


「凛音」


「何」


「悠真くんって呼んでるの?」


「呼んでいないわ」


「今の返事、早すぎ」


「呼んでいない」


「学校では?」


「……学校では、呼ばない」


「じゃあ学校以外では?」


 凛音は箸を止めた。


 失敗した。


 完全に誘導されている。


 沙耶は楽しそうに笑う。


「凛音、嘘下手になったね」


「白川さんが意地悪になったのよ」


「恋する凛音が可愛いから」


「その単語は禁止」


「恋?」


「……禁止」


 凛音は顔を赤くして弁当箱を見る。


 今日の弁当には卵焼きが入っている。


 高坂くん好みにした甘めの卵焼き。


 自分の弁当に入れているのに、食べるたびに悠真の顔が浮かぶ。


 もう、かなり末期だと思う。


「ねえ、凛音」


「何」


「名前で呼びたいなら、呼べばいいと思うよ。少なくとも、家では」


「家では、なんて言っていないでしょう」


「言ってないけど顔に出てる」


「出ていない」


「出てる」


 沙耶は少しだけ優しい顔をした。


「でも、学校では気をつけた方がいいね。凛音、目立つし」


「……わかっているわ」


「高坂くんも困るだろうし」


「うん」


 凛音は小さく頷いた。


 学校で名前を呼びそうになる。


 それは危険だ。


 でも、呼びそうになってしまうほど、家での呼び方が心に残っている。


 悠真くん。


 その響きが、まだ自分の中で熱を持っている。


「白川さん」


「ん?」


「学校では、名字呼びを徹底するわ」


「うん」


「だから、からかわないで」


「わかった。凛音が本気で困ることはしない」


「……ありがとう」


「でも、ちょっとだけ応援はする」


「応援?」


「そう。凛音がちゃんと言えるように」


 凛音は返事をしなかった。


 けれど、否定もしなかった。


     ◇


 放課後。


 帰宅時間をずらして、俺たちは家に戻った。


 玄関で凛音と顔を合わせるなり、二人とも同時に言った。


「学校では名字」


「学校では名字呼び」


 声が重なった。


 俺たちはしばらく見つめ合い、それから少し笑った。


「考えること同じだったな」


「危険だったから」


「今日は本当に危なかった」


「白川さんに完全に見られたわ」


「佐野にも共有されてた」


「……危険ね」


「もう遅い気もする」


「それでも、できることはするべき」


 凛音は鞄を置き、同居契約ルールの紙を持ってきた。


 また増える。


 もはやこの紙は、俺たちの関係の年表みたいになっている。


 凛音はペンを持ち、きっちり書いた。


『学校では名字呼びを徹底する』


『名前を呼びそうになった場合、深呼吸して言い直す』


『友人に探られても、慌てすぎない』


 俺は三行目を見て苦笑した。


「慌てすぎない、ってできるか?」


「努力する」


「俺も努力する」


「高坂くんは、今日『家では』と言いかけたでしょう」


「……なぜ知ってる」


「白川さん経由で佐野くんから伝わる可能性があるから、予測できた」


「怖いな、その情報網」


「怖いわ」


 凛音は真剣だった。


 俺も真剣に頷いた。


「じゃあ、学校では氷室さん」


「高坂くん」


「家では?」


 聞くと、凛音はまた顔を赤くした。


「……名前呼びの練習は、継続」


「たぶん?」


「たぶん」


「無理しない範囲で?」


「ええ」


 凛音は少し迷ったあと、スマホを取り出した。


「メッセージなら、少し言いやすいかもしれない」


「名前?」


「……うん」


 少しして、俺のスマホが震えた。


 凛音からだった。


『家では、名前で呼びます。たぶん』


 俺は画面を見て、しばらく何も言えなかった。


 凛音は目の前にいる。


 なのに、メッセージで来たその一文の破壊力はとんでもない。


「……凛音」


「何?」


「これ、かなり嬉しい」


「声に出して読まないで」


「まだ読んでない」


「顔が読んでいた」


「顔、便利だな」


「便利ではなく正確」


 凛音はそう言って、少しだけ笑った。


 学校では名字。


 家では、たぶん名前。


 その秘密がまたひとつ増えた。

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