第41話 おやすみ、悠真くん、の翌朝
眠れなかった。
正確には、眠った。
たぶん眠った。
けれど、眠るまでに相当な時間がかかったし、眠ったあとも何度か目が覚めた。
理由は、言うまでもない。
『……おやすみ、悠真くん』
昨夜、凛音が俺の部屋でそう言った。
寝ている俺にではない。
扉越しでもない。
起きている俺に向かって、ちゃんと目を合わせて、名前で。
悠真くん。
その響きが頭の中で何度も再生されて、布団の中で何度も寝返りを打った。
名前を呼ばれただけ。
たったそれだけのことだ。
でも、凛音にとっても、俺にとっても、たったそれだけではなかった。
最初は名字で呼び合うだけだった。
家でも学校でも、必要以上に近づかないようにしていた。
名前呼び練習会なんて変なものまで開いた。
事故で呼び捨てになったこともあった。
学校で「ゆ……」と言いかけて、二人して寿命が縮んだこともあった。
その全部を経て、昨夜。
凛音は言った。
悠真くん、と。
「……破壊力が高すぎる」
朝、洗面所の鏡の前で俺は呟いた。
目の下に少しだけ寝不足の気配がある。
風邪は治った。
体温も平熱。
でも別の意味で、健康状態は危うい。
顔を洗い、冷たい水でなんとか意識を戻す。
リビングへ行くと、すでに朝食の匂いがした。
味噌汁。
焼いた卵の匂い。
それだけで、少し落ち着く。
「おはよう」
キッチンに声をかけると、凛音が振り返った。
「……おはよう、高坂くん」
いつもの呼び方だった。
少しだけほっとして、少しだけ残念に思った。
その自分のわがままさに、俺は内心で苦笑する。
凛音は制服の上にエプロンをつけている。
髪もきれいに整えていて、見た目はいつもの冷静な凛音だ。
でも、目が合った瞬間、彼女はほんの少しだけ視線を逸らした。
昨日のことを覚えている。
当たり前だ。
忘れられるわけがない。
「眠れた?」
俺が聞くと、凛音の肩が小さく揺れた。
「普通」
「普通?」
「ええ、普通」
「その普通、ちょっと怪しいな」
「高坂くんこそ、少し眠そう」
「……普通」
「それは嘘」
「即断か」
「顔に出ているわ」
俺は椅子に座った。
テーブルには、ご飯、味噌汁、卵焼き、焼き鮭、ほうれん草のおひたし。
完全にいつもの朝食なのに、空気だけが少し違う。
凛音も向かいに座り、箸を取った。
「いただきます」
「いただきます」
同じタイミングで言って、また目が合う。
すぐに逸らす。
落ち着かない。
まるで昨日の喫茶店から、まだ帰ってきていないみたいだった。
「卵焼き、今日も甘いな」
俺が言うと、凛音は少しだけ箸を止めた。
「……高坂くん好みにしただけ」
今度は俺が止まった。
昨日なら、たぶん「少し甘め」とか「砂糖の分量を調整した」と言っていた。
今朝は、ちゃんと俺好みと言った。
「そっか」
「……うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
会話は短い。
でも、ひとつひとつが妙に近い。
俺は味噌汁を飲み、少し気持ちを落ち着かせた。
すると、凛音がこちらをちらりと見た。
「高坂くん」
「ん?」
「昨日のこと」
来た。
俺は箸を置きそうになったが、なんとか持ち直した。
「うん」
「名前のこと」
「うん」
凛音は耳を赤くしながら、味噌汁のお椀を両手で持った。
「……毎回は、無理」
「毎回?」
「その、家で……名前で呼ぶこと」
「ああ」
「昨日は、勢いもあったから」
「勢いだったのか」
「勢いだけではないけれど」
凛音はすぐに言い直した。
その慌て方が、少しだけ嬉しい。
「練習?」
「練習でもあるし」
「うん」
「……言いたかった、から」
今度こそ、箸を持つ手が止まった。
凛音は言ってから、目を伏せる。
「でも、毎回は無理。心拍数が安定しない」
「医療的な理由みたいに言うな」
「実際、身体への影響がある」
「そんなに?」
「かなり」
「じゃあ、少しずつでいい」
俺がそう言うと、凛音は小さく頷いた。
「少しずつなら」
「うん」
「家では、たまに」
「たまに」
「学校では絶対に駄目」
「それはそうだな」
「学校で出たら、白川さんと佐野くんに完全に詰められるわ」
「もう半分詰められてる気がするけど」
「……それは否定できない」
凛音は本当に困った顔をした。
少し前なら、そんな表情は見られなかった。
学校の氷の令嬢ではなく、家の凛音の顔。
それが見られるのは、やっぱり嬉しい。
「ルールに書く?」
俺が聞くと、凛音は少し考え込んだ。
「必要かもしれない」
「本当に書くんだ」
「必要だから」
食後、凛音は同居契約ルールの紙を取り出した。
もう何枚目になるかわからない。
最初は距離を保つための契約だったはずなのに、今は距離を近づけすぎて壊れないためのルールになっている。
凛音はペンを持ち、真剣に書いた。
『家での名前呼びは、無理のない範囲で練習する』
『学校では名字呼びを徹底する』
『名前呼びで動揺しても、からかわない』
俺は三行目を見て、少し笑った。
「からかわない、は大事だな」
「大事よ」
「俺、からかった?」
「高坂くんは、からかっていないつもりで心臓に悪いことを言う」
「それは、どう直せばいいんだ」
「少し控える」
「努力する」
「私も、少し慣れる」
凛音はペンを置いた。
「……悠真くん、に」
小さな声だった。
でも聞こえた。
聞こえてしまった。
朝から二回目。
俺は完全に固まった。
凛音も、言ってから固まった。
紙の上に、ペン先の小さな点がつく。
「……今のは」
「練習?」
「練習」
「うん」
「家だから」
「うん」
「学校では言わない」
「うん」
「反応しすぎ」
「無理だろ」
俺が正直に言うと、凛音は少しだけ目を逸らした。
「……私も、言う側なのに反応しているから、引き分け」
「勝負だったのか」
「少し」
凛音は真面目に言った。
その真面目さが可愛くて、俺はまた笑いそうになった。
「笑わないで」
「まだ笑ってない」
「笑う前の顔」
「本当によく見てるな」
「観察」
「生活管理?」
「今日は、名前呼び管理」
「新しい管理が増えた」
凛音はほんの少しだけ口元を緩めた。
その笑顔を見ていると、昨夜の告白未満の空気がまた蘇る。
俺も、彼女も、言いたいことがある。
でもまだ、最後の一言だけ言えていない。
焦るな。
そう思う。
でも、焦らずにはいられない。
凛音が「悠真くん」と呼ぶたびに、告白までの距離が一気に縮まっていく気がするから。
◇
登校前。
玄関で靴を履く時間は、いつも少しだけ緊張する。
同じ家から出るのに、学校では別々に行動する。
時間をずらす。
周囲には内緒。
そういう生活にも慣れてきたはずなのに、今日はまた別の緊張があった。
凛音は先に玄関へ来て、鞄を肩にかけた。
「今日は、通常登校ね」
「うん」
「体調は?」
「問題なし」
「無理は?」
「しない」
「昼食は?」
「購買で軽め」
「よろしい」
「完全に先生だな」
「病み上がり経過観察は今日まで」
「今日まで?」
「問題がなければ」
「信用十割?」
「十割。ただし、名前呼びの件で別の観察は続く」
「そこも観察されるのか」
「必要だから」
凛音は真面目だった。
でも、言っている内容はかなり恥ずかしい。
俺は靴を履きながら苦笑した。
「じゃあ、先に行く」
「ええ」
「学校では、高坂くんと氷室さん」
「そうね」
「家では?」
聞いた瞬間、凛音が止まった。
ちょっと意地悪だったかもしれない。
でも、聞きたかった。
凛音は鞄の持ち手を握る。
「家では」
「うん」
「……高坂くん、または」
「または?」
「……」
凛音は顔を赤くしたまま、視線を玄関の床へ落とした。
「……悠真くん」
小さすぎる声。
でも、確かに聞こえた。
朝から三回目。
もう今日は学校に行く前に一日の心拍数を使い切った気がする。
「ありがとう」
「なぜお礼を言うの」
「嬉しいから」
「そういうことを、玄関で言わないで」
「玄関ならセーフかと思って」
「玄関は危険」
「危険区域が増えていくな」
「高坂くんが危険にしている」
凛音はそう言いながらも、怒ってはいない。
むしろ、困りながらも少し嬉しそうだった。
俺は鞄を持ち直した。
「じゃあ、行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
凛音はそこで一度言葉を切った。
俺はドアに手をかける。
すると、背後から小さな声がした。
「行ってらっしゃい、ゆ――」
凛音が、途中で止まった。
俺も止まった。
ゆ。
完全に「悠真くん」と言いかけていた。
玄関の空気が、一瞬で固まる。
凛音の顔が真っ赤になった。
「……今のは」
「家だから?」
「玄関は、家だけど」
「学校前だから危険?」
「非常に危険」
「今の、外で出たら終わってたな」
「終わっていたわ」
凛音は両手で鞄を握りしめた。
「訂正するわ」
「はい」
「行ってらっしゃい、高坂くん」
「うん」
「……でも」
「でも?」
凛音は小さく息を吸った。
そして、本当に小さな声で付け足した。
「帰ってきたら、また……練習する」
俺はもう、何も言えなかった。
朝から凛音が強すぎる。
「楽しみにしてる」
「楽しみにしすぎないで」
「無理」
「努力して」
「努力はする」
凛音は少しだけ頷いた。
俺は玄関を開ける。
外の空気が入ってきた。
学校では名字。
家では、少しずつ名前。
その小さな違いが、俺たちだけの秘密みたいで、胸が温かくなる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
今度は名字も名前もつかなかった。
でも、その声は十分に甘かった。
ドアを閉める直前、凛音の顔がまだ赤いのが見えた。
俺は廊下へ出て、深く息を吐く。
今日、学校で普通に過ごせる気がまったくしない。
それでも、行くしかない。
そしてたぶん。
凛音も同じ気持ちで、少し遅れてこの玄関を出るのだろう。




