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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第40話 告白まで、あと一歩

手を離したあとも、手の感覚は残っていた。


 マンションのエレベーターに乗っている間、俺は自分の右手をどう扱えばいいのかわからなかった。


 ポケットに入れるのも不自然だし、かといってそのまま下ろしていると、さっきまで凛音の手を握っていたことを意識しすぎる。


 隣の凛音も、いつもより静かだった。


 エレベーターの鏡に、俺たちの姿が映っている。


 手は繋いでいない。


 でも、距離は近い。


 喫茶店へ向かうときよりも、明らかに。


 凛音は鏡を見ないようにしているのか、階数表示をじっと見ていた。


 耳が赤い。


 たぶん、俺も赤い。


 エレベーターが到着し、部屋へ向かう。


 玄関の前で、凛音が鍵を取り出した。


 いつもなら俺が開けることも多いが、今日は凛音が先に動いた。


 たぶん、何か作業をしていないと落ち着かないのだろう。


 俺も同じだった。


「ただいま」


 部屋に入って、二人でほぼ同時に言った。


 声が重なる。


 その瞬間、凛音が少しだけこちらを見る。


 俺も見た。


 そして、なぜか二人とも目を逸らした。


 ただ帰ってきただけなのに、やけに気まずい。


 いや、気まずいというより、照れくさい。


 靴を脱ぎ、リビングへ入る。


 いつもの部屋。


 いつものテーブル。


 いつものキッチン。


 それなのに、喫茶店から帰ってきたあとの空気がまだ残っている。


 カップルセット。


 クリーム。


 手繋ぎ。


 帰り道が短い。


 その全部が、部屋の中にまでついてきたみたいだった。


「……うどん」


 凛音が小さく言った。


「うん?」


「夕飯。軽めにするって話」


「ああ、うん。作ろうか」


「一緒に」


 凛音はすぐに言った。


 俺は少し驚く。


「いいのか?」


「高坂くんに全部任せるのは、まだ病み上がり的に危険」


「もう治ったけど」


「今日、外出したから」


「なるほど」


「でも、私が全部やると、高坂くんが落ち着かないでしょう」


「よくわかってる」


「観察」


「今日は観察の日?」


「今日は……」


 凛音は少しだけ考えた。


「快気祝い後の経過観察」


「まだ観察されるのか」


「ええ」


 真面目な顔で言われると、反論できない。


 俺たちは手を洗い、キッチンへ立った。


 うどんは冷凍のものを使う。


 具は卵、ねぎ、鶏肉、少しのきのこ。


 凛音が鍋を出し、俺が食器を用意する。


 いつもの役割。


 でも、距離が少し近い。


 肩が触れそうになるたび、二人とも微妙に動きが止まる。


「……高坂くん」


「何?」


「調理中に、手繋ぎのことを思い出すのは危険」


「俺、何も言ってないけど」


「顔」


「また顔か」


「顔」


 凛音は鍋に水を入れながら言った。


 しかし本人も相当意識している。


 ねぎを取ろうとして、卵のパックに手を伸ばしていた。


「凛音、それ卵」


「……わかっている」


「ねぎはこっち」


「確認しただけ」


「便利だな、確認」


「便利ではなく正確」


 凛音は赤い顔で言い切った。


 その強引さが可笑しくて、俺は笑いそうになる。


「笑わないで」


「まだ笑ってない」


「笑う前の顔」


「そこまでわかるのか」


「わかるわ」


 凛音は鍋を火にかける。


 俺は鶏肉を小さく切ろうとして、凛音に止められた。


「包丁は私が」


「もう普通に使えるって」


「今日は外出したから」


「それ、便利な理由になってないか?」


「慎重な理由」


「はい」


「はいは一回」


「はい」


 結局、包丁作業は凛音が担当した。


 俺は横で食器を出し、卵を溶く。


 以前なら、こういう作業はただの日常だった。


 でも今は、同じキッチンに立つだけで妙に意識してしまう。


 喫茶店へ行った。


 手を繋いだ。


 それだけで、いつもの距離が少し違って見える。


「凛音」


「何?」


「今日、楽しかったな」


 凛音の包丁が止まった。


「……うん」


「喫茶店も、帰り道も」


「カップルセットは危険だったけど」


「それも含めて」


「含めるの?」


「後から思い出したら、たぶん笑う」


「私はしばらく笑えない」


「でも、嫌じゃなかっただろ?」


 聞いた瞬間、凛音は包丁を置いた。


 危ないからだろう。


 いや、照れたからだと思う。


「……嫌では、なかった」


「そっか」


「ただ、心臓には悪かった」


「俺も」


「高坂くんも?」


「かなり」


「なら、公平」


 凛音は小さく頷いた。


 勝負ではないはずなのに、こういうとき彼女はすぐ公平を気にする。


 その真面目さが、やっぱり好きだと思った。


 好き。


 その言葉が、また胸の奥に浮かぶ。


 今日は何度も浮かんだ。


 喫茶店で凛音が笑ったとき。


 クリームを取ったとき。


 手を繋いだとき。


 帰り道が短いと言われたとき。


 そのたびに、言いそうになった。


 でも、まだ言っていない。


 言えなかった。


 今なら言えるのか。


 そんなことを考えているうちに、鍋が小さく音を立てた。


     ◇


 うどんは、思ったよりおいしくできた。


 優しい出汁の香り。


 柔らかい卵。


 鶏肉ときのこの旨味。


 喫茶店で甘いものを食べたあとには、ちょうどいい夕飯だった。


「うまい」


 俺が言うと、凛音は少し安心したように頷いた。


「よかった」


「今日の締めにちょうどいい」


「締め?」


「快気祝いの締め」


「……そうね」


 凛音はうどんを少しずつ食べる。


 いつもより口数が少ない。


 でも、気まずい沈黙ではなかった。


 お互いに、今日のことを思い出している。


 たぶん同じように。


「高坂くん」


「ん?」


「今日」


 凛音は箸を置いた。


 少し迷ってから、続ける。


「楽しかった」


 帰り道でも言ってくれた言葉。


 でも、家でもう一度言われると、また違う重みがあった。


「うん」


「喫茶店も、ケーキも、紅茶も」


「うん」


「帰り道も」


 凛音の声が、ほんの少し小さくなる。


「手を繋いだことも」


 俺は箸を止めた。


 凛音は視線を落としたまま、耳まで赤くしている。


 でも言った。


 ちゃんと、言ってくれた。


「私、ちゃんと言えてる?」


 凛音が小さく聞いた。


 胸の奥が、ぎゅっとなった。


「言えてる」


「本当に?」


「本当に」


「なら、よかった」


「俺も言う」


 凛音が顔を上げる。


 俺はゆっくり息を吐いた。


「今日、すごく楽しかった。凛音と一緒だったから」


 凛音の目が揺れた。


「喫茶店もよかったし、スコーンもうまかったし、店員さんのカップルセットは心臓に悪かったけど」


「それは、そう」


「でも、それも含めて楽しかった」


「……うん」


「帰り道も」


 凛音が少しだけ手元を見た。


 さっきまで繋いでいた手。


「手を繋げて、嬉しかった」


 言った瞬間、凛音の顔が真っ赤になった。


 でも、今度は逃げない。


 俺も逃げない。


「また、どこか行きたい」


「……うん」


「快気祝いじゃなくても」


「うん」


「凛音と」


 そこまで言って、言葉が止まった。


 好きだ。


 もう、ここで言ってしまえばいい。


 言ってしまいたい。


 凛音は俺を見ている。


 逃げていない。


 聞く準備をしているように見える。


 でも、その目の奥に少しだけ緊張があった。


 怖がっている。


 俺と同じように。


「俺、凛音のこと――」


「待って」


 凛音が言った。


 鋭い声ではなかった。


 拒絶でもない。


 むしろ、泣きそうなくらい大切にする声だった。


 俺は息を止める。


 凛音は胸元で手を握り、まっすぐ俺を見た。


「ごめんなさい」


「いや」


「違うの。言わないで、という意味ではない」


「うん」


「聞きたくないわけでもない」


「うん」


 凛音の声は震えていた。


 でも、彼女は最後まで言おうとしている。


「ただ……私からも、いつか言いたいことがある」


 俺は黙って聞いた。


「高坂くんが言ってくれたら、嬉しいと思う。たぶん、すごく嬉しい」


 凛音はそう言って、顔を赤くした。


 それでも続ける。


「でも、私も言いたい。高坂くんに言われるだけじゃなくて、私もちゃんと、自分の言葉で言いたい」


 その言葉で、俺の中の焦りが静かに止まった。


 ああ。


 そうか。


 凛音は逃げているわけじゃない。


 俺を拒んでいるわけでもない。


 自分も向き合おうとしている。


 自分の言葉で、ちゃんと言おうとしている。


「だから」


 凛音は小さく息を吸った。


「もう少しだけ、待ってほしい」


 俺は頷いた。


 不思議なくらい、すぐに。


「待つよ」


 凛音の目が揺れる。


「また、待つの?」


「待つ」


「高坂くんは、待つのが上手すぎる」


「実はそんなに上手くない」


「そうなの?」


「今もかなり限界」


 言った瞬間、凛音の顔がさらに赤くなる。


 俺も自分で言って照れた。


 でも、今日は隠さなかった。


「でも、凛音がちゃんと言いたいなら、待つ」


「……うん」


「その代わり」


「その代わり?」


「俺も、ちゃんと言うから」


 凛音は小さく頷いた。


「うん」


 その返事は、今日一日でいちばん近かった。


     ◇


 夕飯の片づけは、いつもより静かだった。


 でも、気まずくはない。


 言いかけた言葉。


 止められた告白。


 凛音の「私からも、いつか言いたいことがある」。


 それらが、部屋の中にやわらかく残っていた。


 急がない。


 でも、止まらない。


 そんな空気だった。


 洗い物をしながら、凛音が小さく言った。


「高坂くん」


「何?」


「さっき、止めてごめんなさい」


「いいよ」


「本当に?」


「本当に」


「嫌ではなかった?」


「嫌じゃない。むしろ、嬉しかった」


「嬉しい?」


「凛音も言おうとしてくれてるんだってわかったから」


 凛音は皿を拭く手を止めた。


「……そう」


「だから、待てる」


「うん」


「ただ、あんまり長いと俺の心臓がもたないかもしれない」


「それは、私も」


「凛音も?」


「……私も、待たせている間ずっと平気なわけではないわ」


 その言葉も、かなり強かった。


 俺は水を止める。


「じゃあ、お互い大変だな」


「ええ」


「でも、ちゃんと進んでるよな」


「……うん」


 凛音は布巾を持ったまま、少しだけ笑った。


「進んでいると思う」


 それで十分だった。


     ◇


 夜。


 俺は早めに部屋へ戻った。


 体調はもう完全に戻っている。


 信用も十割。


 ただ、心だけは落ち着かなかった。


 告白しかけた。


 止められた。


 でも、拒まれたわけではない。


 むしろ、凛音も言いたいことがあると言ってくれた。


 俺はベッドに座り、今日のことを思い返す。


 喫茶店。


 クリーム。


 手繋ぎ。


 うどん。


 告白まであと一歩。


 本当に、あと一歩だ。


 しばらくして、部屋の外で足音が止まった。


 もうわかる。


 凛音だ。


 小さなノック。


「高坂くん」


「起きてる」


「入ってもいい?」


 今日は、扉越しではなかった。


 俺は少しだけ姿勢を正す。


「いいよ」


 扉が開く。


 凛音が入ってきた。


 部屋着姿。


 髪は下ろしている。


 顔は少し赤いが、昨日ほど逃げる感じではない。


 彼女は入口の近くで立ち止まった。


「今日は、少しだけ」


「うん」


「長居はしない」


「わかった」


「でも、言いたいことがあって」


 俺は息を止めた。


 凛音は両手を前で握り、少しだけ視線を落とした。


「今日、ありがとう」


「こっちこそ」


「喫茶店も、帰り道も、夕飯も」


「うん」


「楽しかった」


「俺も」


「それと」


 凛音は少しだけ顔を上げた。


「さっき、待ってくれると言ってくれて、ありがとう」


「うん」


「私、ちゃんと言うから」


「待ってる」


「でも、待っている間に……私も少しずつ言えるようにする」


「うん」


 凛音は深呼吸した。


 そして、ほんの少しだけ笑った。


「だから、今日は練習」


「練習?」


「名前」


 心臓が跳ねた。


 名前。


 まさか。


 凛音は耳まで赤くなりながら、それでも逃げなかった。


「おやすみ」


 そこまで言って、少し言葉を止める。


 俺は何も言わず待った。


 凛音が唇を小さく動かす。


「……悠真くん」


 時間が止まった。


 初めてだった。


 起きている俺に向かって。


 凛音が、俺の名前を呼んだ。


 しかも、事故ではなく。


 寝言でもなく。


 練習でも、逃げでもなく。


 自分の意思で。


「……おやすみ、悠真くん」


 もう一度。


 今度は少しだけはっきり。


 俺は何も言えなかった。


 胸がいっぱいで、返事が遅れた。


 凛音は真っ赤な顔のまま、でもどこか満足そうに小さく頷いた。


「今日は、これで限界」


「……凛音」


「何?」


「ありがとう」


 凛音は少しだけ目を細めた。


「どういたしまして」


「おやすみ、凛音」


「うん」


 凛音は部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 静かな部屋に、さっきの声だけが残る。


 悠真くん。


 そのたった一言で、俺は完全に眠れなくなった。


 けれど、今夜だけはそれでいいと思った。


 告白までは、あと一歩。


 でも、その一歩は確かに近づいている。

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