第39話 帰り道、手を繋ぐ理由
マンションが見えてきた。
見えてきた、ということは、今日の快気祝いがもうすぐ終わるということでもあった。
喫茶店でチーズケーキとスコーンを半分ずつ食べた。店員さんにカップルセットを勧められた。凛音の口元についたクリームを、ハンカチ越しに取った。電車では肩が少し触れた。
そして、さっき俺は言った。
また、どこか行こう。
快気祝いじゃなくても。
凛音は「考えておく」と言った。
前向きに、と聞いたら、「かなり」と答えた。
その余韻が、まだ胸の中に残っている。
もう今日は十分すぎるほどだった。
これ以上何か起きたら、本当に心臓がもたないかもしれない。
そう思ったのに、夕方の風は余計な仕事をした。
「……少し寒いな」
俺が呟くと、隣を歩く凛音が小さく頷いた。
「日が傾いてきたから」
「昼間は暖かかったのにな」
「季節の変わり目は、油断すると体調を崩しやすいわ」
「俺を見るな」
「見ていない」
「今、完全に俺のことだっただろ」
「高坂くんは前科があるから」
「前科って言い方」
「玄関でふらついた」
「それは確かに前科だな」
俺が苦笑すると、凛音は少しだけ口元を緩めた。
風がまた吹く。
凛音のスカートの裾が小さく揺れた。
彼女は鞄の持ち手を握り直し、もう片方の手を少しだけ袖の中へ引っ込める。
その仕草を、俺は見てしまった。
「寒い?」
「少し」
「手、冷えてる?」
「……普通」
「普通って言うとき、だいたい普通じゃないよな」
「高坂くんも人のことは言えない」
「それはそう」
凛音は片手を袖に隠したまま歩いている。
小さな手。
看病の夜、俺が握っていた手。
冷たくて気持ちいいと思った手。
昨日までなら、その記憶を思い出しただけで黙っていたかもしれない。
でも今日は、喫茶店に行った。
クリームを取った。
またどこか行こうと言った。
少しだけなら、踏み込んでもいい気がした。
「寒いなら」
俺は言いかけて、止まった。
凛音がこちらを見る。
「何?」
「いや」
「途中で止めると、気になるわ」
「そうだよな」
「言って」
「……手、繋ぐ?」
言った。
言ってしまった。
夕方の住宅街で、何を言っているのだろう。
しかも、普通に聞いてしまった。
凛音は完全に固まった。
歩いていた足まで止まる。
俺も足を止める。
マンションはもう少し先。
人通りは少ない。
それでも、外だ。
学校から離れているとはいえ、誰かに見られる可能性はゼロではない。
凛音の顔が、ゆっくり赤くなっていく。
「……手」
「うん」
「繋ぐ?」
「寒いなら」
「寒いなら」
「体温管理的に」
言い訳を足した瞬間、凛音の目が少しだけ細くなった。
「高坂くん」
「はい」
「それは、私が使いそうな言い訳」
「借りた」
「許可していない」
「でも便利だから」
「便利ではなく」
「正確?」
「……その場合もあるわ」
凛音は視線を落とした。
完全には否定しない。
そのことに、俺の心臓がまた忙しくなる。
「嫌ならいい」
「嫌とは、言っていない」
いつもの言葉。
でも、今日は意味が重い。
凛音は袖の中に隠していた手を、ほんの少しだけ出した。
けれど、すぐには差し出さない。
迷っている。
俺も迷っている。
たった手を繋ぐだけなのに、まるで人生の大きな選択みたいになっている。
「高坂くんは」
「うん」
「寒いの?」
「俺?」
「体温管理なら、双方の状態確認が必要」
「真面目だな」
「大事なことよ」
「俺は、寒いっていうより」
「より?」
俺は少しだけ息を吐いた。
「繋ぎたいと思った」
凛音が、また固まった。
今度は本当に長かった。
風が吹く。
遠くで自転車のベルが鳴る。
通りの向こうを犬の散歩をしている人が歩いている。
その間、凛音はずっと黙っていた。
言いすぎた。
そう思ったとき、彼女は小さく呟いた。
「……そういうことを」
「急に言うな?」
「うん」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから?」
凛音は返事をしなかった。
けれど、袖から出した手をゆっくりこちらへ向けた。
それが答えだった。
俺は、なるべくゆっくり手を伸ばした。
触れる。
指先。
凛音の手は、やっぱり少し冷たかった。
「冷たいな」
「高坂くんの手が温かいの」
「そうか?」
「そう」
「熱はないぞ」
「知っているわ。朝、測ったから」
「体温確認済みか」
「ええ」
凛音の手を握る。
ぎゅっとではなく、そっと。
でも、ちゃんと離れないくらいに。
凛音の指が、少しだけ震えていた。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「本当に?」
「心拍数以外は」
「そこは大丈夫じゃないんだ」
「高坂くんも、少し手が緊張している」
「手でわかる?」
「わかるわ」
「じゃあ、お互い様だな」
「そうね」
凛音は少しだけ息を吐いた。
繋いだ手が、ほんの少しだけ強くなる。
それだけで、胸の奥がじんとした。
俺たちは、また歩き出した。
手を繋いだまま。
マンションまでの道は短い。
短いのに、急に長く感じる。
いや、逆か。
この道が短くなってほしくないと思っているから、長く感じようとしているのかもしれない。
「これは」
凛音が小さく言った。
「何?」
「体温管理」
「うん」
「風邪の再発防止」
「そうだな」
「病み上がりの高坂くんの手が冷えていないか確認している」
「俺の手、温かいんだろ?」
「確認は継続が大事」
「なるほど」
「それと」
「それと?」
凛音は視線を前に向けたまま、少しだけ手に力を込めた。
「私の手も、少し冷えていたから」
「うん」
「合理的」
「合理的だな」
「決して」
「決して?」
「……深い意味を、勝手に足さないで」
彼女はそう言った。
でも、手は離さなかった。
俺は繋いだ手を見ないようにして、前を向いた。
「わかった」
「本当に?」
「本当に」
「高坂くんは、たまにわかった顔でわかっていない」
「今日はわかってる」
「ならいいわ」
凛音の声は、少しだけ安心していた。
それから、しばらく黙って歩いた。
沈黙は、気まずくなかった。
むしろ、言葉を足すのがもったいないくらいだった。
手の温度が少しずつ混ざっていく。
凛音の冷たかった指先が、少しずつ温かくなる。
俺の手のひらも、彼女の指を意識しすぎて、余計に熱を持っている気がした。
「高坂くん」
「ん?」
「今日の喫茶店」
「うん」
「楽しかった」
「俺も」
「カップルセットは、危険だったけれど」
「クリームもな」
「それは忘れて」
「無理」
「努力して」
「かなり難しい」
「高坂くんは、記憶力が良すぎる」
「凛音のことだと、たぶん特に」
凛音の手が、びくっと揺れた。
繋いでいるから、そういう反応が全部伝わってくる。
「……そういうことを、手を繋いでいるときに言わないで」
「ごめん」
「逃げ場がない」
「手、離す?」
俺が聞くと、凛音はすぐには答えなかった。
けれど、手の力は抜けなかった。
「……離さなくていい」
小さな声だった。
俺は返事に詰まった。
凛音の方も、自分で言って照れたのか、顔を少し横に向けている。
「凛音」
「今、名前呼びは危険」
「じゃあ、氷室さん?」
「それはもっと嫌」
「じゃあ、凛音」
「……少しだけなら」
俺は笑った。
凛音が横目で見る。
「笑った」
「嬉しくて」
「またそういうことを」
「今日はもう、かなり言ってるから」
「開き直らないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「困る?」
「……嬉しい方が、少し勝っている」
「少し?」
「かなり」
凛音は、自分で言ってからまた赤くなった。
でも、取り消さなかった。
今日は、彼女がよく逃げずに言ってくれる。
そのたびに、俺の方が追いつかなくなる。
「凛音、今日強いな」
「強い?」
「いつもより、ちゃんと言ってくれる」
「……喫茶店で、少し思ったの」
「何を?」
「言わないと、伝わらないことがあるって」
凛音は繋いだ手を見た。
「高坂くんは、待ってくれるけれど」
「うん」
「待たせすぎるのも、違う気がした」
俺は黙った。
凛音の言葉は、風より静かに胸へ入ってくる。
「でも、まだ全部は言えない」
「うん」
「だから、少しずつ」
「うん」
「今日は、楽しかったって言えた」
「十分だよ」
「本当に?」
「本当に」
俺は繋いだ手を、ほんの少しだけ握り返した。
凛音も逃げなかった。
「俺も、ちゃんと言う。今日、楽しかった。凛音と喫茶店行けて、よかった」
「……うん」
「また行きたい」
「私も」
「手を繋げたのも」
言いかけて、さすがに止めた。
でも、凛音は気づいた。
「言って」
「いいのか?」
「途中で止められると、気になるわ」
「手を繋げたのも、嬉しい」
凛音は、完全に黙った。
しかし、手は離れない。
むしろ、少しだけ握り返された気がした。
「……私も」
聞こえるか聞こえないかの声。
「え?」
「二回は言わない」
「聞こえた」
「なら聞き返さないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
凛音は顔を赤くしたまま、前を向いた。
「これは、体温管理だけど」
「うん」
「嬉しくないわけではない」
「わかった」
「かなり、嬉しい」
また言った。
俺はもう完全に負けだった。
この人は、ずっと不器用で、照れ屋で、冷たく見えて、でも本当はこんなにも一生懸命に言葉を選んでくれる。
そのことが、どうしようもなく愛おしかった。
マンションはもうすぐそこだった。
あと一分も歩けば入口につく。
手を離すタイミングが近づいている。
それが少し寂しかった。
凛音も同じことを考えたのか、足取りがほんの少しだけ遅くなった。
「凛音」
「なに?」
「歩くの、遅くなってない?」
「高坂くんの病み上がりに合わせているだけ」
「俺、普通に歩けるけど」
「再発防止」
「便利だな、再発防止」
「便利ではなく正確」
凛音は真面目に言った。
でも、手はまだ繋いだまま。
マンションの入口が近づく。
自動ドアの前で、俺たちは自然に足を止めた。
ここから先は建物の中だ。
誰か住人に会う可能性もある。
手を離すべきだろう。
わかっている。
わかっているのに、手が動かない。
凛音も、同じように動かなかった。
「……ここまでね」
凛音が小さく言った。
「うん」
「体温管理は、ここまで」
「そうだな」
「マンション内は、暖かいから」
「合理的」
「ええ」
それでも、数秒だけ離れなかった。
最後に、凛音の指がほんの少しだけ動いた。
まるで名残惜しむように。
そして、ゆっくり手が離れた。
冷たい風が、そこへ入り込む。
今まで繋いでいた手が急に軽くなって、少しだけ落ち着かない。
「……寒い?」
凛音が聞いた。
「少し」
「マンション内は暖かいわ」
「そういう意味じゃないんだけどな」
言ってから、凛音が意味を理解したのか、顔を赤くした。
「高坂くん」
「はい」
「今日は、もう十分危険」
「そうだな」
「帰ったら、うどんを作る」
「一緒に?」
「一緒に」
凛音はそう答えた。
それだけで、手を離した寂しさが少し和らぐ。
自動ドアが開く。
俺たちは並んで中へ入った。
手は繋いでいない。
でも、さっきよりも距離は近い。
エレベーターを待つ間、凛音がぽつりと言った。
「高坂くんといると」
「うん?」
「帰り道が、短い」
心臓が、静かに鳴った。
凛音は前を向いたまま、続ける。
「今日の道も、もっと長ければよかったと思った」
俺はしばらく何も言えなかった。
エレベーターが到着する音が鳴る。
扉が開く。
それでも、俺はその言葉の余韻から戻れなかった。
「俺も」
ようやく、それだけ言えた。
凛音は小さく頷いた。
エレベーターに乗る。
鏡に映った俺たちは、来たときより少しだけ近く見えた。
手は繋いでいない。
でも、今日の帰り道を知っている二人の距離だった。




