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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第37話 カップルセットではありません

「よろしければ、カップルセットもありますよ。お二人でシェアされる方に人気なんです」


 店員さんは、何ひとつ悪くない。


 ただ、おすすめをしてくれただけだ。


 静かな喫茶店。


 窓際の二人掛け席。


 向かい合う俺と凛音。


 テーブルの上には、半分ずつ分け合う前提のチーズケーキとスコーン。


 客観的に見たら、まあ、そう見えるかもしれない。


 見えるかもしれないが。


 今、その単語はまずい。


 カップルセット。


 あまりにも直接的すぎる。


「……カップルでは」


 凛音が小さく言いかけて、止まった。


 止まった。


 否定しきれなかった。


 いや、否定すればいい。


 俺たちはカップルではありません。


 これは快気祝いです。


 看病のお礼です。


 ただの同居――いや、同居はもっと駄目だ。


 契約結婚――さらに駄目だ。


 言える言葉が少なすぎる。


 俺も口を開いた。


「じゃあ、それで」


 そこまで言いかけて、自分で止まった。


 違う。


 何を言っている。


 なぜ注文しようとした。


 凛音がこちらを見る。


 見た、というより、信じられないものを見る目だった。


「高坂くん」


「違う。今のは」


「今のは?」


「えっと、追加注文として自然に」


「自然ではないわ」


「だよな」


 店員さんはにこにこしたままだ。


 プロだ。


 たぶん、こういう高校生らしき二人のぎこちない空気にも慣れている。


 いや、慣れていてほしくない。


 これはかなり恥ずかしい。


「あ、すみません。今日は大丈夫です」


 俺がなんとか言うと、店員さんは柔らかく微笑んだ。


「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」


 そう言って、静かに離れていく。


 去り際の笑顔が、妙に温かかった。


 違う。


 温かく見守らないでほしい。


 テーブルに沈黙が落ちた。


 凛音は紅茶のカップを両手で持ったまま、視線を落としている。


 顔が赤い。


 耳まで赤い。


 俺もたぶん同じくらい赤い。


「……高坂くん」


「はい」


「なぜ、注文しようとしたの?」


「勢いで」


「勢いでカップルセットを?」


「本当に、何も考えてなかった」


「考えていなかった方が危険」


「それはそう」


「これは快気祝いでしょう」


「うん。快気祝い」


「看病のお礼」


「うん」


「カップルセットではない」


「はい」


「はいは一回」


「はい」


 いつものやり取りに戻ったはずなのに、空気はまったく戻っていない。


 カップルセットという単語が、テーブルの上にまだ置かれている気がする。


 チーズケーキよりも存在感がある。


「でも」


 俺が言うと、凛音が警戒するようにこちらを見た。


「何?」


「今、否定しきれなかったよな」


 言ってから、完全に余計だったと気づいた。


 凛音は紅茶のカップをソーサーに置いた。


 かちゃん、と小さな音が鳴る。


「……高坂くん」


「ごめん」


「謝るのが早い」


「今のは言わない方がよかった」


「そうね」


「でも、気になって」


「気にしないで」


「無理だろ」


「努力して」


 凛音は視線を逸らした。


 けれど、否定はしなかった。


 そこがまた、俺の心臓に悪い。


「凛音」


「外では名前呼びは少し危険」


「ごめん」


「でも、今は……いい」


「いいのか」


「店員さんの件で、もう手遅れな気がするから」


「手遅れ」


「周囲からどう見えたかは、もう考えないことにする」


「それは賢明かもしれない」


 凛音は小さく息を吐いた。


「ただし」


「ただし?」


「カップルセットではありません」


「わかった」


「強調しておく必要があるわ」


「誰に?」


「私に」


 その答えがあまりにも凛音らしくて、俺はつい笑ってしまった。


 凛音がじっと見る。


「笑った」


「ごめん」


「高坂くんは、最近すぐ笑う」


「凛音といると笑うって言っただろ」


「そういうことを喫茶店で言わないで」


「場所の問題?」


「周囲に聞こえたら困る」


「小声にする」


「そういう問題でもないわ」


 凛音はそう言いながらも、少しだけ口元を緩めた。


 さっきの緊張が、ほんの少しほどける。


 俺はスコーンを小さく割り、クロテッドクリームを少しだけつけた。


「これ、うまいな」


「ええ」


「凛音も、こっちまだ食べてないだろ」


「食べる」


 凛音がスコーンに手を伸ばす。


 そのとき、二人の指が皿の上で近づいた。


 触れそうになる。


 触れない。


 でも、二人とも止まる。


 さっきのカップルセット事件のあとだ。


 些細な距離まで意識してしまう。


「……先にどうぞ」


 俺が言うと、凛音は小さく頷いた。


「ありがとう」


 凛音はスコーンを取って、少しだけクリームをつける。


 その動作が丁寧で、つい見てしまう。


「見ないで」


「いや、普通に」


「普通に見ないで」


「難しいな」


「高坂くんは、たまに視線が正直」


「顔だけじゃなくて視線も?」


「ええ」


「隠すところが多すぎる」


「隠さなくてもいいけど」


 凛音は言ってから、自分で驚いたように目を伏せた。


「……今のは、少し違う」


「違うのか」


「完全に隠さなくてもいい、という意味」


「それ、違わない気がする」


「違うわ」


「そういうことにしておく」


 凛音はスコーンを一口食べた。


 そして、ほんの少しだけ目を細める。


 おいしいと思った顔。


 学校の誰も知らない、やわらかい表情。


 俺はその顔を見て、胸の奥が温かくなった。


「よかった」


「何が?」


「凛音が楽しそうで」


 凛音の手が止まる。


 またやってしまった。


 でも、今日はもう仕方ない。


 喫茶店の空気と、快気祝いと、カップルセット事件のせいで、俺の防御力もかなり下がっている。


「……高坂くんは」


「うん」


「私をすぐ困らせる」


「ごめん」


「でも」


 凛音は紅茶を一口飲んだ。


「今日は、少し嬉しい方が勝つ」


 それは不意打ちだった。


 俺は言葉を失った。


 凛音はすぐに顔を赤くしたが、取り消さなかった。


 むしろ、カップを両手で持って、こちらを見ないようにしている。


「……何か言って」


「いや、今のは俺が困った」


「高坂くんも?」


「かなり」


「なら、公平」


「勝負なのか」


「少し」


 凛音は真面目に言った。


 その表情が可愛くて、俺はまた笑いそうになった。


     ◇


 それからしばらく、俺たちは他愛もない話をした。


 学校の授業。


 佐野と白川さんの探り。


 次に買う食材。


 凛音が最近、卵焼きの焼き加減をまた変えようとしていること。


 俺が風邪を引いたせいで、彼女の看病用メモが妙に増えたこと。


「まだ残ってるのか、病み上がり用特別規定」


「残っているわ」


「もう元気だけど」


「再発防止」


「強い」


「高坂くんは、信用十割に戻ったけれど、油断は禁物」


「信用十割なのに監視あり?」


「信用と確認は別」


「なんか会社みたいだな」


「生活管理だから」


「看病じゃなくて?」


「今は、生活管理」


 凛音は少しだけ誇らしげだった。


 看病期間が終わり、通常運用に戻ったということなのだろう。


 でも、俺は少しだけ寂しいと思ってしまった。


 それが顔に出たのか、凛音が首を傾げる。


「どうしたの?」


「いや、看病終わったんだなと思って」


「終わった方がいいでしょう」


「それはそうなんだけど」


「高坂くん」


「うん」


「もしかして、看病されたいの?」


「いや、風邪は嫌だ」


「なら何?」


 凛音の問いはまっすぐだった。


 俺は少し迷った。


 でも、今日の空気なら、少しくらいなら言える気がした。


「看病されてる間、凛音が近かったから」


 凛音が固まった。


 言った俺も固まった。


 これはさすがに攻めすぎた。


 喫茶店で何を言っているんだ。


「……高坂くん」


「ごめん」


「謝らなくていいけど」


「いいけど?」


「それは」


 凛音は言葉を探していた。


 顔は赤い。


 でも、怒ってはいない。


「私も、少し思った」


「え?」


「看病が終わるのが、少し寂しいと」


 言った。


 凛音が言った。


 本人も言ってから相当恥ずかしかったのか、視線をテーブルに落としている。


 けれど、言ってくれた。


 俺は胸が詰まった。


「そっか」


「でも、風邪を引いてほしいわけではない」


「それはそうだな」


「だから」


 凛音は小さく息を吸った。


「風邪じゃなくても、少しずつ近くなればいいと思う」


 俺は、もう完全に何も言えなくなった。


 ずるい。


 これはずるい。


 凛音の方が、今日はずっと踏み込んでくる。


「高坂くん?」


「……今のは、かなり」


「かなり?」


「嬉しいから困る」


 俺がそう言うと、凛音は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。


「私の台詞」


「借りた」


「許可していない」


「でも、正確だった」


「……それなら、仕方ないわ」


 凛音はそう言って、少しだけ満足そうに紅茶を飲んだ。


     ◇


 スコーンとチーズケーキは、きれいに半分ずつなくなった。


 カップルセットは頼んでいない。


 頼んでいないが、結果的にかなりシェアしてしまった。


 これは合理的な分け合い。


 快気祝いにおける味の比較。


 決してカップルセットではない。


 凛音がそう何度か言っていたので、俺もそのたびに「わかった」と答えた。


 会計の時間になった。


 予定通り、俺がスイーツ代、凛音が飲み物代を払う。


 店員さんは少し不思議そうにしつつも、何も言わなかった。


 ただ、最後に笑顔でこう言った。


「またお二人でいらしてくださいね」


 また。


 お二人で。


 凛音の顔が赤くなる。


 俺も、思わず返事に詰まった。


「あ、はい」


 結局、俺がそう答えた。


 店を出てから、凛音が小さく言う。


「……また、って」


「言われたな」


「お二人で、って」


「言われた」


「高坂くん、返事した」


「反射で」


「次も来るつもり?」


 聞かれて、俺は少しだけ考えた。


 でも、答えはすぐに出た。


「凛音が嫌じゃなければ、また来たい」


 凛音は少しだけ足を止めた。


 午後の光が、彼女の横顔に落ちている。


「……嫌ではない」


「そっか」


「むしろ」


 凛音は視線を逸らした。


「また来たい」


 その言葉だけで、今日の喫茶店がただの快気祝いではなくなった気がした。


 いや、きっと最初からそうだった。


 名目は快気祝い。


 でも、俺たちは二人で出かけた。


 静かな喫茶店で向かい合い、スイーツを分け合い、カップルセットで動揺し、また来たいと言い合った。


 それを何と呼ぶのかは、まだ言わない。


 まだ言えない。


 でも、胸の奥ではもう答えが出ている。


 駅へ向かって歩き出す。


 隣の凛音との距離は、来たときより少しだけ近かった。


 そのとき、俺は気づいた。


 凛音の口元に、ほんの少しだけ白いクリームがついている。


 たぶんスコーンのクリームだ。


 言うべきか。


 言わないべきか。


 見なかったことにするには、場所が微妙すぎる。


「凛音」


「何?」


「口元」


「え?」


「クリーム、ついてる」


 凛音が固まった。


 そして、慌ててハンカチを取り出した。


「どこ?」


「少し右」


「ここ?」


「違う、もう少し」


「ここ?」


「そこじゃない」


 凛音は完全に混乱していた。


 そして俺は、次の瞬間、手を伸ばしかけている自分に気づいた。


 触れる寸前で止める。


 凛音も、その手に気づいて止まった。


 駅へ向かう道の途中。


 人通りはそこそこある。


 なのに、二人の間だけ時間が止まったようだった。

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