第36話 これは快気祝いです
土曜日の朝。
俺は目覚ましが鳴る十五分前に目を覚ました。
早すぎる。
完全に浮かれている。
いや、違う。
今日は快気祝いだ。
看病のお礼も兼ねている。
決してデートではない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は布団から起き上がった。
まず体温を測る。
凛音から昨夜、三回ほど念押しされたからだ。
『土曜の朝、必ず検温』
『三十七度以上なら延期』
『喉に違和感があれば延期』
『無理は絶対に禁止』
ルールが細かい。
だが、ここでいい加減にすると、せっかくの快気祝いが中止になる。
俺は体温計の音を待った。
ぴぴっ。
三十六度二分。
完璧。
すぐに写真を撮って凛音へ送る。
『36.2。問題なし』
既読はすぐについた。
『確認しました』
続いて、もう一通。
『喉は?』
『平気』
『だるさは?』
『なし』
『本当に?』
『本当に』
少し間が空いた。
『では、予定通りです』
俺はスマホを見ながら、思わず息を吐いた。
第一関門突破。
次は服装だった。
クローゼットの前で、俺はしばらく固まった。
スーパー買い出しのときは、白シャツに薄手のパーカーだった。
佐野には「服は褒めろ」と言われた。
いや、俺の服ではなく凛音の服を褒めろという話だったが、こちらもあまり変な格好では行けない。
喫茶店。
静かな店。
快気祝い。
凛音と二人。
「……普通が難しいんだよな」
結局、落ち着いた色のシャツに、黒いパンツ、薄いジャケットを合わせた。
気合いを入れすぎてはいない。
たぶん。
たぶん普通。
十時十五分。
玄関集合。
同じ家に住んでいるのに、集合という言葉がまだ妙にくすぐったい。
俺がリビングへ行くと、凛音はまだいなかった。
時計を見る。
十時八分。
早く来すぎた。
そわそわしている自分が情けない。
水を一口飲み、買い物ではないのに財布を確認し、スマホを確認し、また時計を見る。
十時九分。
時間の進みが遅い。
そのとき、廊下から足音がした。
顔を上げる。
凛音がリビングに入ってきた。
淡いクリーム色のブラウスに、紺色の膝下丈のスカート。髪はいつもより少し柔らかくまとめていて、小さなヘアピンが光っている。
派手ではない。
でも、きちんと選んだのがわかる。
落ち着いた喫茶店に行くための服。
そしてたぶん、俺に見られることも少しだけ考えてくれた服。
俺は一瞬、言葉を失った。
凛音はその沈黙で何かを察したのか、すぐに視線を逸らした。
「……変?」
「いや」
俺は慌てて首を横に振った。
「すごく似合ってる」
言えた。
佐野、見てるか。
いや、見てたら困る。
凛音は鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「……快気祝いに支障がない服を選んだだけ」
「うん。でも似合ってる」
「支障がないことが重要」
「褒めてるんだけど」
「理解はしているわ」
「じゃあ、ありがとうは?」
以前と同じ流れ。
凛音は少しだけ頬を赤くして、小さく言った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「高坂くんも」
「俺?」
「変ではない」
「それ、前も聞いたな」
「……似合っている」
最後の一言だけ、急に小さくなった。
俺は胸の奥を殴られたような気分になった。
「ありがとう」
「……うん」
二人して、玄関へ向かうまでに少し時間がかかった。
たぶん、お互い心を落ち着かせる時間が必要だった。
◇
電車で二駅。
駅から少し歩いたところに、その喫茶店はあった。
木の看板に、落ち着いた緑色の扉。
窓際には小さな鉢植えが並び、店内からはコーヒーの香りが漂ってくる。
休日の午前中だからか、客は多すぎず少なすぎず。
静かに会話する夫婦や、ひとりで本を読む女性、ノートパソコンを開いた会社員らしき人がいる。
凛音の言った通り、落ち着いた店だった。
「ここで合ってる?」
俺が聞くと、凛音は小さく頷いた。
「ええ」
「いい雰囲気だな」
「うるさくないところがいいと思って」
「凛音らしい」
「……そう?」
「うん。落ち着く」
凛音は少しだけ安心した顔をした。
その表情を見て、俺もほっとする。
店員さんに案内されたのは、窓際の二人掛け席だった。
向かい合って座る。
スーパーのときとは違う。
学校とも家とも違う。
休日の喫茶店で、私服の凛音と向かい合っている。
これはもう。
いや、違う。
快気祝いだ。
看病のお礼だ。
「高坂くん」
「ん?」
「これは、快気祝いだから」
「わかってる」
「看病のお礼でもある」
「うん」
「それ以上の意味を、勝手に足さないで」
「俺、何も言ってない」
「顔に出ていた」
「今日も顔か」
「顔」
凛音はメニューを開きながら言った。
でも、耳は少し赤い。
彼女自身も、同じことを意識しているのだと思う。
メニューには、スコーン、チーズケーキ、季節のタルト、紅茶、コーヒー、サンドイッチが並んでいた。
凛音は真剣に見ている。
「甘すぎないものなら、チーズケーキかスコーンかな」
「凛音は?」
「……迷っている」
「珍しい」
「どちらも良いから」
「両方頼む?」
「食べきれる?」
「半分ずつにすれば」
言った瞬間、凛音の目が少しだけ揺れた。
半分ずつ。
つまり、分け合う。
言ってから気づいた。
「いや、無理にじゃなくて」
「嫌とは言っていない」
「そう?」
「……半分ずつなら、両方食べられるから合理的」
「合理的か」
「ええ」
凛音はそう言いながら、メニューで少しだけ顔を隠した。
合理的。
便利な言葉である。
俺たちは、スコーンとチーズケーキ、それから紅茶とコーヒーを頼むことにした。
注文を終えたあと、支払いの話になる。
「今日は俺が出す」
俺が言うと、凛音はすぐに首を横に振った。
「却下」
「看病のお礼なんだから」
「快気祝いでもあるでしょう」
「でも、看病してくれたのは凛音だ」
「それは同居人として当然のこと」
「当然でも、嬉しかった」
凛音が黙る。
俺は続けた。
「だから、せめて今日くらい払わせてほしい」
「全部はだめ」
「じゃあ、決めた通りスイーツ代」
「飲み物代は私」
「店員さん、困らないか?」
「会計時に別々にすればいい」
「細かい」
「必要だから」
凛音は真剣だった。
俺は笑った。
「じゃあ、それで」
「ええ」
「変な割り勘だな」
「折衷案」
「凛音らしい」
「高坂くんも納得したでしょう」
「した」
そんなやり取りをしているうちに、注文した品が届いた。
チーズケーキは小ぶりで、表面がきれいに焼かれている。
スコーンにはクロテッドクリームとジャムが添えられていた。
紅茶の香りもいい。
「おいしそうだな」
「ええ」
「じゃあ、快気祝いということで」
「……快気祝い」
「看病のお礼も兼ねて」
「ええ」
「ありがとう、凛音」
名前を呼ぶと、凛音はフォークを持つ手を少しだけ止めた。
「……外では、少し危険」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから?」
「……今日は、そう」
小さく認めた。
それだけで、ここに来てよかったと思った。
チーズケーキを一口食べる。
甘すぎず、少し酸味があって、コーヒーに合う。
「うまい」
「よかった」
「凛音も食べる?」
「半分ずつの予定でしょう」
「そうだった」
皿を少し寄せる。
凛音もスコーンの皿をこちらへ寄せた。
その動作が自然で、なぜか胸が温かくなる。
同じ皿を分け合う。
ただそれだけなのに、今の俺たちにはかなり大きい。
「スコーンもおいしい」
凛音が言った。
「こっちも食べてみる?」
「……うん」
チーズケーキの皿を差し出す。
凛音がフォークで小さく切る。
その仕草が、妙に丁寧だった。
彼女は一口食べて、ほんの少しだけ目を細めた。
「おいしい」
「だろ?」
「甘すぎない」
「凛音好み?」
「ええ」
「よかった」
自然にそう言うと、凛音は少しだけ視線を落とした。
「高坂くんは、私の好みを気にしすぎ」
「そりゃ気になるだろ」
「どうして?」
聞かれて、俺は一瞬詰まった。
どうして。
好きだから。
その答えが、喉まで来て止まる。
まだ言わない。
ちゃんと言うと決めた日までは。
でも、完全に逃げるのも違う。
「凛音に楽しんでほしいから」
俺はそう答えた。
凛音はフォークを持ったまま固まった。
「……それも、かなり」
「かなり?」
「ずるい」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「困る?」
「困る」
「嬉しいから?」
凛音は返事をしなかった。
でも、否定もしなかった。
◇
店内は静かで、時間の流れがゆっくりしていた。
凛音は紅茶を飲みながら、窓の外を少し見た。
「ここ、やっぱり落ち着く」
「また来たいな」
俺がそう言うと、凛音はこちらを見た。
「また?」
「うん。凛音が嫌じゃなければ」
「嫌ではない」
「じゃあ、また来よう」
「……うん」
その「うん」が、いつもより柔らかかった。
今日は快気祝い。
でも、次に来るとしたら、何になるのだろう。
また何か名目を作るのか。
それとも、その頃にはもう少し素直になれているのか。
わからない。
でも、また来たいと思った。
凛音と。
そこだけは、はっきりしていた。
ちょうどそのとき、店員さんが近くの席へ注文を取りに来て、こちらにも笑顔を向けた。
「追加のご注文など、大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫です」
俺が答えると、店員さんはメニューの端を指差して、何気ない調子で言った。
「よろしければ、カップルセットもありますよ。お二人でシェアされる方に人気なんです」
時間が止まった。
俺と凛音は、同時に固まった。
カップルセット。
その単語の破壊力が、静かな喫茶店の空気を一瞬で揺らした。
凛音の顔が、ゆっくり赤くなる。
俺もたぶん赤い。
店員さんは悪気なく、にこやかに待っている。
ここで何か言わなければならない。
否定するのか。
注文するのか。
いや、注文は違う。
快気祝いだ。
デートではない。
でも、もうどう見ても。
「えっと」
俺が口を開きかけたところで、凛音が小さく呟いた。
「……カップルでは」
そこまで言って、止まった。
否定しきれないのか。
言葉が続かない。
俺も何も言えなかった。
店員さんの笑顔だけが、やけにまぶしい。




