第35話 友人たちの包囲網
体調が完全に戻った翌日の学校は、妙に落ち着かなかった。
熱はない。
喉も痛くない。
授業にも普通に出られる。
つまり、もう病み上がりを言い訳にして早退することも、凛音から「今日は午前だけ」と命じられることもない。
通常運転に戻った。
……はずなのに。
「高坂」
朝の教室で、佐野が俺の机に肘をついてきた。
「何」
「顔が通常運転じゃない」
「また顔か」
「お前の顔は情報量が多いからな」
「俺は掲示板か何かか」
「わりと」
「嫌すぎる」
佐野は笑いながら、俺の顔をじっと見た。
やめてほしい。
こいつは最近、変なところで鋭い。
「で、週末」
「週末?」
「何かあるだろ」
「何も」
「嘘が早い」
「早い嘘って何だよ」
「考える前に否定するやつ」
佐野は勝ち誇った顔をした。
俺は教科書を机に出すふりをして視線を逸らす。
週末。
快気祝い。
喫茶店。
凛音と二人。
その単語が頭の中で並ぶだけで、顔に出そうになる。
いや、もう出ているのかもしれない。
佐野がにやにやしている時点で、たぶん出ている。
「病み上がりなんだから、週末くらい大人しくしてろよ」
「そうだな」
「でも、大人しくする顔じゃないんだよなあ」
「顔で判断するな」
「じゃあ口で聞く。病み上がりデートか?」
「ぶっ」
今度こそ、普通にむせた。
喉は治ったはずなのに、咳が出そうになる。
「ちょ、図星すぎる反応するなよ」
「違う」
「何が?」
「デートじゃない」
「じゃあ何?」
「快気祝い」
言った瞬間、佐野の口角が上がった。
しまった。
言う必要のない情報を出した。
「へえ、快気祝い」
「そう」
「誰と?」
「……」
「沈黙」
「一人で」
「一人で快気祝いに行くやついる?」
「いるかもしれないだろ」
「いないとは言わないけど、高坂は一人でそんな顔しない」
「だから顔」
「顔」
佐野は笑いをこらえるように口元を押さえた。
「で、相手は例の親戚?」
「親戚じゃない」
「おっと」
また口が滑った。
佐野の目が完全に獲物を見つけた猫のそれになった。
「高坂、今日は口が軽いな」
「病み上がりだから」
「それ便利に使いすぎだろ」
「便利ではなく」
言いかけて、止まった。
凛音の口癖をここで出すところだった。
佐野が首を傾げる。
「何?」
「何でもない」
「今、便利ではなく、何?」
「正確、とは言ってない」
「言ってないけど、自分で答え出してるぞ」
「……授業始まるぞ」
「逃げたな」
「逃げた」
認めるしかなかった。
佐野は笑いながら自分の席へ戻っていった。
ただ、席に戻る直前、軽く言った。
「まあ、無理すんなよ。病み上がりなんだから」
からかってばかりだが、最後はそこに戻る。
そういうところが、佐野のずるいところだった。
◇
同じころ、隣の教室では氷室凛音が白川沙耶に捕まっていた。
「凛音」
「何」
「週末、何か予定ある?」
「……特には」
「その間はある人の間だった」
「間などないわ」
「今、めちゃくちゃあったよ」
沙耶は机に頬杖をつき、にこにこしながら凛音を見ている。
凛音はノートを鞄から取り出しながら、できるだけ平静を保とうとしていた。
平静。
平静でいなければならない。
週末は快気祝い。
看病のお礼。
喫茶店。
高坂くんと二人。
……考えてはいけない。
学校で考えると、表情に出る。
特に白川沙耶の前では危険だ。
「凛音、週末に可愛い服着る予定ある?」
唐突だった。
凛音の手が止まる。
「どうして、そうなるの」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで人の服装を聞かないで」
「じゃあ、理由ありで聞くね。週末に誰かと出かける予定ある?」
「……」
「沈黙」
「白川さんは、最近佐野くんに似てきたわ」
「えー、やだなあ」
「褒めていない」
「わかってる」
沙耶は楽しそうに笑った。
その顔が、非常に危険だった。
凛音は教科書を机に入れ、椅子に座る。
普通に。
何もないように。
しかし、沙耶は逃がさない。
「ねえ凛音」
「何」
「高坂くん、体調戻ったんだよね?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「昨日は平熱だったと聞いているわ」
「へえ、聞いてるんだ」
しまった。
言い方を間違えた。
凛音はすぐに言い直そうとしたが、もう遅い。
沙耶の目が光っている。
「誰から?」
「本人から」
「へえ」
「体調を崩していた同級生の経過を確認するのは、普通でしょう」
「凛音が?」
「……」
「普通じゃないね」
「白川さん」
「はい」
「人は、成長するものよ」
「便利な言い方」
「便利ではなく正確」
「あ、それ高坂くんも最近言いそう」
凛音は危うく完全停止しかけた。
なぜそこで高坂くんが出てくるのか。
いや、沙耶にはかなり見抜かれている。
むしろ、気づかれていないと思う方が無理かもしれない。
「で、週末」
「戻るの?」
「戻るよ。可愛い服、着る?」
「普通の服」
「凛音の普通って、だいたい可愛いんだよね」
「そんなことは」
「あるよ。凛音、自覚ないけど」
沙耶はそこで、少しだけ優しい顔になった。
「もしかして、誰かに見てほしい?」
凛音は返事ができなかった。
見てほしい。
高坂くんに。
そう思っている。
スーパーへ買い出しに行ったとき、彼は「似合ってる」と言ってくれた。
その言葉が、今でも忘れられない。
喫茶店に行くなら、変に気合いを入れすぎない服。
でも、少しだけちゃんとした服。
高坂くんに、変じゃないと言われたい。
できれば、似合ってると言われたい。
……そこまで考えて、凛音は内心で頭を抱えた。
だめ。
完全に浮かれている。
「凛音、今すごくわかりやすかった」
「何も言っていないわ」
「顔に出てた」
「出ていない」
「出てたよ。恋する女の子の顔」
「白川さん」
「はい」
「朝から危険な単語を使わないで」
「恋?」
「……それ」
沙耶はくすくす笑った。
「じゃあ、言い換える。週末、楽しみなんだね」
「……少し」
「少し?」
「かなり、かもしれない」
言ってしまった。
凛音は自分で少し驚いた。
沙耶も一瞬目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに笑う。
「そっか。いいじゃん」
「まだ、何も言っていないでしょう」
「言ってないけど、凛音がかなり楽しみにする予定なんて、相当だよ」
「……そうかもしれない」
「相手、大事な人?」
凛音は机の上のノートを見つめた。
大事。
その言葉を否定する理由は、もう見つからなかった。
「……大事では、あると思う」
声は小さかった。
それでも、沙耶には届いた。
沙耶は少しだけ真面目な顔をして、頷いた。
「じゃあ、大事にしてきなよ」
「……うん」
凛音は小さく頷いた。
それから一拍遅れて、顔が熱くなる。
今、自分は何を認めたのだろう。
かなり危険なところまで来ている。
でも不思議と、嫌ではなかった。
◇
昼休み。
俺は佐野から逃げるように弁当を食べていた。
今日は凛音の弁当ではない。
普通に購買で買ったおにぎりとサンドイッチだ。
凛音からは朝、「今日は通常登校の初日だから、弁当より購買で軽めに」と言われた。
なぜ俺の昼食まで管理されているのか。
いや、正直ありがたい。
まだ胃に負担をかけない方がいいのはわかる。
「高坂」
「何」
「今日、弁当じゃないんだな」
「病み上がりだから軽め」
「誰の指示?」
「自分の判断」
「嘘だな」
「何でわかる」
「高坂の自分判断にしては慎重すぎる」
「俺だって慎重になることくらいある」
「風邪引く前はならなかった」
痛いところを突かれた。
俺はおにぎりを食べる。
佐野はにやにやしたまま、焼きそばパンをかじっている。
「で、快気祝いはいつ?」
「……」
「お、沈黙」
「週末」
「言った!」
「もう隠しても面倒だから」
「相手は?」
「言わない」
「氷室さん?」
「言わない」
「反応でわかる」
「じゃあ聞くな」
佐野は声を出して笑った。
「いやー、外堀埋まってきたな」
「外堀って何だよ」
「こっちの話」
「不穏だな」
「安心しろ。悪いことはしない」
「その言い方が一番怖い」
佐野は少しだけ真面目な顔になった。
「まあでも、本当に無理すんなよ。快気祝いなら、楽しく行ってこい」
「……うん」
「あと、ちゃんと褒めろよ」
「何を?」
「服」
俺はお茶を飲みかけて止まった。
「何でそうなる」
「氷室さん、たぶんめちゃくちゃ考えてくるだろ」
「……」
「そこで高坂が何も言わなかったら、たぶん落ち込む」
「お前、本当に誰だよ」
「恋愛相談の佐野」
「嫌な肩書き」
「でも正しい」
佐野は得意げだった。
悔しいが、確かに正しいかもしれない。
スーパーのときも、凛音は服装を気にしていた。
喫茶店なら、たぶんもっと考える。
ちゃんと言わなければ。
似合ってる、と。
想像しただけで、こっちの心臓も少し危ない。
◇
放課後。
白川沙耶と佐野は、偶然を装って廊下の端で顔を合わせた。
偶然を装っている時点で偶然ではない。
「どうだった?」
沙耶が小声で聞く。
「高坂、週末に快気祝い行くらしい」
「やっぱり」
「相手は言わなかったけど、反応でほぼ確定」
「凛音も、週末かなり楽しみって認めた」
「氷室さんが?」
「うん」
「それは確定だな」
「確定だね」
二人は顔を見合わせた。
事件の推理が当たった探偵みたいな顔だった。
「でも、どうする?」
佐野が聞く。
「邪魔はしない」
沙耶は即答した。
「だよな」
「凛音、たぶんすごく勇気出してるから。変に茶化したら引っ込む」
「高坂も似たようなもんだ。押しすぎると逃げる」
「じゃあ、見守り?」
「見守り」
「でも、最低限の助言は?」
「それはあり」
沙耶は少し考えた。
「私は、凛音に服の相談を振る」
「俺は高坂に、服を褒めろって言った」
「佐野くん、意外と有能」
「意外って何だよ」
「褒めてる」
「絶対ちょっと下に見てるだろ」
「ふふっ」
沙耶は笑った。
佐野もつられて笑う。
「まあ、あの二人なら大丈夫でしょ」
「大丈夫かな」
「何?」
「二人とも、最後の一言だけ言えないタイプだから」
「それはある」
佐野は腕を組んだ。
「でも、だからこそ見てて面白いんだよな」
「わかる」
「読者だったら悶えるやつ」
「何の読者?」
「知らん」
二人は同時に吹き出した。
廊下の向こうから生徒が来たので、すぐに何事もなかった顔で別れる。
ただ、別れ際に沙耶が言った。
「これは確定だね」
佐野も頷く。
「確定だな」
何が確定なのか。
本人たちはまだ知らない。
しかし、外堀はもうかなり深く掘られていた。
◇
家に帰ると、凛音は少し遅れて帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
いつものやり取り。
でも今日は、二人とも少しだけ相手の顔を見てから目を逸らした。
たぶん学校で、それぞれ友人に何か言われている。
俺は聞くべきか迷った。
凛音も同じように迷っている顔をしていた。
「佐野くんに」
「白川さんに」
同時だった。
俺たちは顔を見合わせる。
それから、どちらともなく笑った。
「そっちからどうぞ」
俺が言うと、凛音は少しだけ目を伏せた。
「白川さんに、週末の予定を聞かれたわ」
「やっぱり」
「高坂くんは?」
「佐野に、病み上がりデートかって言われた」
「……デート」
凛音がその単語に反応して固まる。
「いや、俺は否定した」
「そう」
「快気祝いだって」
「そう。快気祝い」
「看病のお礼でもある」
「ええ」
二人して、同じ言い訳を確認する。
確認すればするほど、逆に怪しい。
凛音もそれに気づいたのか、少しだけ頬を赤くした。
「白川さんには、可愛い服を着る予定があるのかと聞かれた」
「佐野には、服を褒めろって言われた」
「……佐野くんは、なぜそんな助言を?」
「知らない。でも、たぶん間違ってない」
凛音は黙った。
そして、小さな声で言う。
「……服は、少し考える」
「うん」
「でも、期待しすぎないで」
「期待はする」
「高坂くん」
「だって、凛音が考えて選ぶ服なら、たぶん似合う」
言った瞬間、凛音は鞄を胸元に抱えた。
「そういうことを、すぐ言う」
「本番で言えなくなると困るから、練習」
「褒める練習?」
「必要かなって」
「必要かもしれないけど、心臓に悪い」
「じゃあ、当日だけにする?」
「それはそれで、当日の心臓に悪い」
「難しいな」
「難しいわ」
二人でそんな会話をして、また少し笑った。
週末はまだ先なのに、もう充分に落ち着かない。
でも、その落ち着かなさは嫌ではなかった。
むしろ、楽しみで仕方ない。
「凛音」
「何?」
「週末、楽しみにしてる」
凛音は少しだけ視線を落とした。
そして、逃げずに言った。
「……私も」
声は小さかった。
けれど、ちゃんと届いた。
「かなり」
その一言が追加された瞬間、俺の方が何も言えなくなった。
凛音はすぐに顔を赤くして、キッチンへ向かった。
「夕飯、作るわ」
「手伝う」
「病み上がりだから皿を出すだけ」
「まだ病み上がり扱い?」
「信用十割になっても、今日は慎重に」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
いつものやり取り。
でも、空気はいつもよりずっと甘い。
週末の喫茶店。
快気祝い。
看病のお礼。
そして、周囲からはもう完全に別のものとして見られている予定。
俺たちはまだ、それを認められない。
でも認めていないだけで、心はもうとっくに先へ進み始めていた。




