第34話 快気祝いは喫茶店で
朝、目覚めた瞬間に思った。
今日は、体が軽い。
昨日まで残っていた喉の違和感もほとんどない。頭も重くない。布団から起き上がっても、ふらつきはない。
俺は体温計を脇に挟み、音が鳴るのを待った。
ぴぴっ。
三十六度三分。
「……完全勝利だな」
小さく呟いてから、すぐにスマホで写真を撮る。
もはや体温報告は義務だった。
『36.3』
凛音へ送る。
同じ家の中にいるのに、わざわざメッセージで送るのは少し変だが、記録が残るからという理由で続いている。
数秒で既読がついた。
『平熱ですね』
『信用十割?』
少し間が空いた。
『朝食後の様子次第です』
まだ審査があるらしい。
俺は笑いながらベッドを出た。
◇
リビングへ行くと、凛音は朝食の準備をしていた。
今日は完全に通常メニューだった。
ご飯、味噌汁、焼き鮭、卵焼き、サラダ。
ただし油ものは少なめ。
凛音の中では、まだ「完治直後用」の調整が入っているのだろう。
「おはよう」
「おはよう、高坂くん」
「熱、三十六度三分」
「見たわ」
「信用は?」
「朝食を普通に食べられたら、十割」
「審査が細かい」
「健康管理は細かい方がいい」
「今日はもう学校も普通に行けるよな?」
凛音は味噌汁をよそいながら、少しだけ考えた。
「今日は普通に行っていいわ」
「おお」
「ただし、体育は見学」
「今日は体育ない」
「なら問題なし」
「やっと通常運用か」
「油断はしないで」
「まだ言う?」
「念のため」
凛音はいつものように真面目だった。
でも、表情は少し柔らかい。
俺の熱が完全に下がって、彼女もようやく安心したのだろう。
朝食を食べながら、俺はふと思い出した。
「そういえば、快気祝いの話」
凛音の箸が止まった。
「……朝食中に?」
「心臓に悪い?」
「少し」
「じゃあ、食後にする」
「……でも、話してもいい」
「いいのか」
「高坂くんが完全に治ったなら、先延ばしにする理由もないから」
凛音はそう言って、卵焼きを一口食べた。
その顔が少し赤い。
快気祝い。
看病のお礼。
名目はそれだけだ。
でも、実際はたぶん違う。
俺も凛音も、それを薄々わかっている。
「どこ行きたいか、考えた?」
「少し」
「甘すぎないもの?」
「ええ」
「喫茶店とか?」
凛音はこくりと頷いた。
「学校から少し離れたところに、落ち着いた喫茶店があるの」
「凛音、そういう店知ってるんだ」
「前に白川さんと行ったことがあるだけ」
「へえ」
「ケーキは甘すぎないし、紅茶もおいしい」
「いいな」
「ただ、少し静かな店だから」
「騒がしくしないように?」
「高坂くんは騒がしくないでしょう」
「じゃあ何?」
凛音は少しだけ視線を逸らした。
「……二人で行くと、少し目立つかもしれない」
「目立つ?」
「学生同士で、休日に、静かな喫茶店」
「それは」
デートっぽい。
そう言いかけて、やめた。
凛音も、それを察したのだろう。
耳が赤くなる。
「快気祝いだから」
「うん。快気祝い」
「看病のお礼でもある」
「うん」
「デートでは」
「言ってない」
「……言ってないけど、顔に出ていた」
「俺の顔、便利すぎるだろ」
「便利ではなく正確」
いつもの返し。
けれど、その声は明らかに照れていた。
◇
学校では、佐野にすぐ捕まった。
「高坂、完全復活?」
「たぶん」
「たぶんって、また誰かに判断任せてるな?」
「医師の判断待ち」
「医師?」
「家庭内医師」
「もう隠す気ないだろ、お前」
「何の話だよ」
佐野は楽しそうに笑った。
「で、週末なんかある?」
「何で急に」
「顔」
「また顔か」
「あと、病み上がりで妙にそわそわしてる」
「そわそわはしてない」
「してる。これはイベント前の顔」
「人を観察するな」
「友人だからな」
「便利な言葉」
「便利ではなく正確」
「それやめろって」
俺が本気で嫌そうな顔をすると、佐野は余計に笑った。
昼休みには、凛音も白川さんに捕まっていたらしい。
廊下ですれ違ったとき、白川さんがやけににこにこしていた。
凛音はいつもの無表情だったが、耳が少し赤かった。
たぶん何か聞かれた。
いや、絶対に聞かれた。
帰宅後、リビングで凛音に聞くと、彼女はお茶を淹れながら小さくため息をついた。
「白川さんに、週末の予定を聞かれたわ」
「やっぱり」
「なぜわかるの」
「白川さんがすごく楽しそうだったから」
「……あの顔は危険」
「何て答えた?」
「特に何も、と」
「信じた?」
「信じていないと思う」
「だろうな」
俺は苦笑した。
凛音は湯飲みを俺の前に置く。
「佐野くんは?」
「週末なんかあるのかって聞かれた」
「危険ね」
「危険だな」
「二人が情報共有していたら」
「もう確定扱いされてるかもな」
凛音は真剣に困った顔をした。
「まだ何も確定していないのに」
「快気祝いは確定してるだろ」
「それは……確定」
「喫茶店も?」
「候補」
「前向きな候補?」
「……かなり」
かなり。
凛音にしては珍しく、逃げ道の少ない言い方だった。
俺は湯飲みを両手で持つ。
「じゃあ、決めよう」
「今?」
「嫌ならあとでも」
「嫌とは言っていない」
「じゃあ今」
凛音は少しだけ背筋を伸ばした。
こういうとき、会議のように真剣になるのが凛音らしい。
◇
テーブルの上にスマホを置き、凛音が喫茶店の情報を開いた。
駅から二駅離れた場所にある、昔ながらの喫茶店だった。
外観は落ち着いていて、木の看板がある。
写真を見ると、ケーキセットやスコーン、サンドイッチが並んでいた。
「ここ」
「雰囲気いいな」
「休日の午前中か、少し早めの午後なら混みすぎないと思う」
「学校の人に会う可能性は?」
「低いわ。最寄りから少し離れているし」
「じゃあ土曜?」
「高坂くんの体調次第」
「もう治ったって」
「当日朝に熱を測る」
「まだ続くのか」
「快気祝いだからこそ、体調確認は必要」
「それは正しい」
俺が頷くと、凛音は少し満足そうだった。
「時間は?」
「十一時くらい?」
「昼に近いと混むかもしれない」
「じゃあ十時半」
「妥当ね」
「集合は?」
言った瞬間、少し変な空気になった。
同じ家に住んでいるのに、集合時間。
前回のスーパー買い出しでもそうだったが、やっぱり妙だ。
「玄関に十時十五分?」
俺が言うと、凛音は真面目に頷いた。
「準備時間を考えると、それくらい」
「じゃあ、十時十五分玄関」
「ええ」
「服装は?」
凛音の手が止まった。
「……普通」
「普通が一番難しいって前にも言ったよな」
「快気祝いに支障がない服装」
「その基準も難しい」
「高坂くんは、前の買い出しのときのような感じでいいと思う」
「凛音は?」
「私も普通」
「凛音の普通、たぶん普通じゃないんだよな」
「どういう意味?」
「何着ても似合うから」
言った瞬間、凛音がスマホを伏せた。
「高坂くん」
「はい」
「病み上がりで回復したからといって、急に防御を貫通してこないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから?」
「……困る」
凛音は小さく言った。
その反応が可愛くて、俺は危うくまた余計なことを言いそうになった。
だが、ここで調子に乗ると信用が十割から下がる気がしたので、黙っておいた。
「予算は?」
凛音が話題を戻す。
「俺が出す」
「却下」
「看病のお礼なんだから」
「快気祝いでもあるでしょう」
「それでも、看病してくれたのは凛音だし」
「それは同居人として当然のこと」
「当然でも嬉しかった」
凛音はまた黙った。
「だから、俺に払わせてほしい」
「……全部はだめ」
「じゃあケーキ代」
「飲み物は私が払う」
「それ、変じゃないか?」
「折衷案」
「会議みたいだな」
「必要だから」
凛音は真面目に言った。
結局、支払いは「悠真がスイーツ代、凛音が飲み物代」という謎の形に決まった。
普通の店員さんが聞いたら首を傾げそうだが、俺たちにはちょうどよかった。
「予定、入れておくわ」
凛音がスマホを操作する。
俺は何気なく画面を見た。
予定名の入力欄に、凛音の指が文字を打つ。
『悠真くんと快気祝い』
そこまで見えた瞬間、俺の心臓が跳ねた。
凛音の指も止まった。
画面を見た。
俺を見た。
もう一度画面を見た。
そして、顔がみるみる赤くなっていく。
「……今のは」
「見た」
「見ないで」
「もう見た」
「忘れて」
「それは難しい」
「高坂くん」
「ごめん。でも、すごく嬉しかった」
凛音はスマホを胸に抱えた。
「そういうことを、すぐ言う」
「正直な感想だから」
「正直すぎるのは、心臓に悪い」
「じゃあ、予定名はどうする?」
凛音はしばらく迷ったあと、画面を見て文字を消した。
そして新しく打った。
『快気祝い』
普通。
とても普通。
でも、凛音はその予定名を見つめたまま、ぼそっと言った。
「……心の中では、さっきのままだから」
今度は俺が止まった。
「凛音」
「何も言わないで」
「いや」
「言わないで」
「……わかった」
言ったらたぶん、彼女の限界を超える。
俺は黙って頷いた。
ただ、胸の中ではどうしようもなく嬉しかった。
◇
その夜。
寝る前に、部屋の外で小さなノックがあった。
昨日と同じ。
寝たふり禁止令が出てから、凛音はちゃんと声をかけてくれるようになった。
「高坂くん」
「起きてる」
「寝る直前?」
「うん」
「熱は?」
「三十六度四分」
「信用は十割」
「やっと戻った」
「ただし、土曜の朝も測ること」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
扉の向こうで、凛音が少しだけ笑った気配がした。
「喫茶店」
「うん」
「楽しみ?」
「かなり」
「……そう」
「凛音は?」
少し沈黙。
それから、小さな声。
「私も、少し」
「少し?」
「……かなり」
今度は逃げなかった。
俺は布団の中で、胸が温かくなるのを感じた。
「じゃあ、お互い楽しみにしよう」
「ええ」
「おやすみ、凛音」
「おやすみ、高坂くん」
足音が遠ざかる。
俺は目を閉じた。
快気祝い。
看病のお礼。
喫茶店。
どんな名目をつけても、楽しみなものは楽しみだった。
そしてたぶん、凛音も同じだ。




