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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第33話 寝たふり禁止令

 翌朝、リビングの空気は、味噌汁の湯気よりも少しだけ気まずかった。


 理由は簡単だ。


 昨夜、俺が白状したからである。


 凛音が夜中に部屋へ来ていたとき、俺は何度か起きていた。


 つまり、彼女が「寝ている俺」に向けてこぼしていた言葉のいくつかを、俺は聞いていた。


 知らないふりをしていた。


 それを、言ってしまった。


 朝食の席で、凛音はいつも通りの顔をしていた。


 白いご飯。


 味噌汁。


 焼き鮭。


 卵焼き。


 湯気の立つお茶。


 献立はいつも通り完璧なのに、作った本人の動きだけが少しぎこちない。


「おはよう」


 俺が声をかけると、凛音は一拍置いてから答えた。


「……おはよう、高坂くん」


「体調、もう大丈夫そう」


「熱は?」


「三十六度四分」


「測った?」


「測った」


「記録は?」


「スマホにある」


「見せて」


「信用、まだ戻ってない?」


「寝たふりの件で、八割」


「昨日より増えてないな」


「内容が内容だから」


 凛音は静かに言った。


 静かに言ったが、耳は赤い。


 昨夜の話を思い出しているのだろう。


 俺も思い出している。


 扉越しに話したこと。


 凛音が少しだけ扉を開けてくれたこと。


 そして、寝たふりをしていたと打ち明けた瞬間、凛音が両手で顔を覆って「終わった」と呟いたこと。


 終わってはいない。


 でも、何かは確実に変わった。


「昨日のことだけど」


 俺が言いかけると、凛音の箸が止まった。


「朝食中に?」


「あ、いや」


「病み上がりの朝に、心臓に悪い話題は避けるべきだと思う」


「凛音の心臓?」


「両方」


「俺の健康管理に凛音の心拍数も含まれるのか」


「含まれるわ」


 言い切ったあと、凛音は自分で少し驚いたように目を伏せた。


 俺は味噌汁を飲みながら、笑うのをこらえた。


「じゃあ、あとで話す?」


「……ルール化が必要」


「やっぱり」


「必要だから」


「便利だな、ルール」


「便利ではなく正確」


 いつもの返し。


 それがあるだけで、少し安心する。


 凛音はまだ恥ずかしそうだ。


 俺もかなり気まずい。


 でも、昨夜の告白未満の会話は、なかったことにはなっていない。


 それが嬉しかった。


     ◇


 学校へ行くかどうかで、また一悶着あった。


「今日は普通に行ける」


「午前だけ」


「昨日も午前だけだっただろ」


「だから今日も午前だけ」


「理屈がつながってるようでつながってない」


「病み上がり用特別規定」


「その規定、強すぎるな」


「高坂くんが無理をしないなら、明日から通常運用」


「信用は?」


「今日の行動次第で九割五分」


「刻むな」


「十割は慎重に」


 結局、俺は午前だけ学校へ行くことになった。


 佐野は俺を見るなり、また妙な顔をした。


「高坂」


「朝から何」


「お前、なんか空気変わった?」


「風邪明けだからじゃないか」


「いや、そういうんじゃなくて」


 佐野は腕を組み、俺の顔をじっと見た。


「なんか、告白前夜みたいな顔してる」


「ぶっ」


 危うく咳が出そうになった。


 病み上がりの喉に悪い。


「何言ってんだよ」


「反応が答えだな」


「違う」


「違うなら、そんな漫画みたいな反応しない」


「病み上がりだから反射神経が」


「言い訳が雑」


 佐野はにやにやしていたが、すぐに少しだけ真面目な顔になる。


「まあ、無理すんなよ」


「わかってる」


「体も、あとそれ以外も」


「それ以外?」


「何か知らんけど、お前、最近ずっと何か抱えてる顔してるから」


 佐野は軽く言った。


 でも、その言葉は思ったより胸に残った。


「……顔に出すぎだな、俺」


「出すぎ」


「隠す練習するか」


「無駄だと思う」


「即答か」


「友人としての助言」


 佐野は笑った。


 そして、いつもの調子で続けた。


「それで、例の親戚弁当は今日あるの?」


「今日はない」


「お、珍しい」


「病み上がりだから昼前に帰る」


「なるほど。じゃあ家で食べるのか」


「まあ」


「誰かが用意してくれてる?」


「……」


「沈黙」


「うるさい」


 結局、俺は佐野から逃げるように教科書を開いた。


 午前中の授業は問題なく受けられた。


 ただ、廊下で凛音とすれ違ったとき、いつもの一秒会釈の空気が少し違った。


 凛音の目が、俺の顔色を確認する。


 それから、ほんの少しだけ視線が揺れる。


 たぶん、昨夜のことを思い出している。


 俺も思い出していた。


 寝たふり禁止。


 夜に来るなら、ちゃんと声をかける。


 その話を、まだ正式にはしていない。


 でも、二人の間にはもう、その予感があった。


     ◇


 昼前に帰宅すると、リビングのテーブルにはメモが置いてあった。


『昼食は冷蔵庫。温めるだけ』


『食後に薬』


『無理に課題を進めない』


『十五時に検温』


 最後に、小さく一行。


『ルールの話は、帰宅後にします』


 俺はその文字を見て、少しだけ笑った。


 逃げない。


 凛音はちゃんと向き合うつもりでいる。


 それがわかっただけで、胸の奥が温かくなる。


 昼食は、鶏肉と野菜の雑炊だった。


 昨日より少し普通の味に近い。


 でも、やっぱり体に優しい。


 食べ終えて薬を飲み、凛音の指示通り少し横になった。


 十五時に熱を測る。


 三十六度五分。


 問題なし。


 凛音に送ると、すぐ返信が来た。


『良いです』


『信用は?』


『九割』


『増えた』


『油断しなければ』


『ルールの話で下がる?』


 既読がついたあと、少し間が空いた。


『内容によります』


 厳しい。


 でも、凛音らしい。


     ◇


 凛音が帰ってきたのは、いつもより少し早かった。


「ただいま」


「おかえり」


 リビングで返すと、凛音はすぐに俺を見た。


「熱」


「三十六度五分」


「今も測って」


「帰宅時確認、まだ続くのか」


「今日まで」


「信用は?」


「結果次第」


 測ると、三十六度四分。


 凛音は表示を見て、ようやく肩の力を抜いた。


「安定しているわね」


「十割?」


「九割五分」


「あと五分」


「今夜、早く寝たら」


「その前にルールの話があるんだろ」


 凛音は一瞬だけ止まった。


 それから、こくりと頷いた。


「ええ」


 夕食は、俺も少しだけ手伝った。


 とはいえ、皿を並べる程度だ。


 凛音はまだ俺に包丁を持たせる気はないらしい。


「もう治ってるって」


「病み上がり」


「その言葉、万能すぎる」


「万能ではなく慎重」


「また新しい返し」


「必要に応じて」


 そんなやり取りをしながら、夕食を済ませる。


 食後、凛音は同居契約ルールの紙とメモ帳を持ってきた。


 ついに来た。


 寝たふり禁止令の会議である。


 凛音はテーブルの向こうに座り、ペンを握った。


 かなり真剣な顔だ。


「まず」


「はい」


「昨夜、高坂くんが寝たふりをしていたことを認めた件について」


「会議の議題みたいだな」


「大事な議題よ」


「……はい」


「怒ってはいないわ」


 凛音は最初にそう言った。


 その言葉で、少しだけ胸のつかえが下りる。


「でも、恥ずかしい」


「本当にごめん」


「謝らなくていいと言いたいけれど、今回は少し謝って」


「ごめん」


「受け取ります」


「はい」


「はいは一回」


「はい」


 凛音はペンを持ち直した。


「高坂くんが知らないふりをしてくれていた理由は、わかるつもり」


「うん」


「私が、寝ている高坂くんにしか言えないことがあったから」


「うん」


「でも、それを続けると、私だけが言って、高坂くんだけが聞いて、何も変わらないままになる」


 凛音の声は、少しずつ落ち着いていった。


 彼女は昨夜からずっと考えていたのだろう。


「だから」


 凛音は紙に一行目を書いた。


『寝たふりは禁止』


 直球だった。


「シンプルだな」


「重要なことは簡潔に」


「俺が寝たふりしなければいい?」


「私も、寝ていると思い込んで勝手に話さない」


 凛音は二行目を書いた。


『夜に来る場合は、必ず声をかける』


 その文字を見て、俺は少しだけ胸が鳴った。


 夜に来る場合。


 つまり、来る可能性は残してくれるらしい。


「来るんだ?」


 つい聞いてしまった。


 凛音の手が止まる。


「……場合は、と書いたでしょう」


「うん」


「毎日来るとは言っていない」


「来ないとも言ってない」


「高坂くん」


「はい」


「そういうところ」


「ずるい?」


「かなり」


 凛音は顔を赤くしながらも、ペンを置かなかった。


「三つ目」


『話したくないことは、無理に話さない』


「これは大事だな」


「ええ」


「凛音が言えないときは、言えないでいい」


「高坂くんも」


「俺も?」


「高坂くんも、怖いなら怖いと言っていい」


 不意にそう言われて、俺は黙った。


 凛音は俺を見た。


「高坂くんは、優しいけれど、自分の怖さを後回しにすることがあると思う」


「……そう見える?」


「見えるわ」


 真っ直ぐな声だった。


 俺は少しだけ視線を落とす。


「そうかもな」


「だから、ルールにする」


 凛音は四つ目を書いた。


『怖いときは、怖いと言う』


 その文字は、今までのどのルールよりも少しだけ柔らかく見えた。


「凛音も?」


「私も」


「言える?」


「努力する」


「俺も努力する」


 凛音は小さく頷いた。


 それから、最後にもう一行書き足す。


『ただし、相手の言葉をなかったことにしない』


 俺はその一行を見つめた。


「なかったことにしない」


「ええ」


「覚えておく?」


「覚えておく。でも、からかわない」


「約束する」


「私も、高坂くんが言ってくれたことを、なかったことにはしない」


 凛音はそう言ったあと、少しだけ顔を赤くした。


 たぶん昨夜の「必要だよ」を思い出している。


 俺も思い出した。


 同居人としてだけじゃない、と言ったことも。


 あれは、ほとんど告白未満だった。


「凛音」


「何?」


「昨日のこと、なかったことにしたくない」


 凛音の手が止まった。


「扉越しに話せたことも、開けてくれたことも」


「……うん」


「ちゃんと覚えてる」


「うん」


「凛音が来てくれたの、嬉しかった」


 凛音は視線を落とした。


「高坂くんは、本当にそういうことを」


「言いすぎ?」


「……今日は、少しだけなら」


「少しだけか」


「たくさん言われたら、処理できない」


「処理」


「感情の処理」


「難しそうだな」


「難しいわ」


 凛音は真面目に言った。


 俺は笑った。


 凛音も、ほんの少しだけ笑った。


     ◇


 その夜。


 俺は早めに部屋へ戻った。


 信用十割を得るためには、早く寝る必要がある。


 しかし、眠れるかどうかは別問題だった。


 なにせ、ルールが決まったばかりだ。


 寝たふりは禁止。


 夜に来るなら、必ず声をかける。


 つまり、今夜凛音が来るなら、俺は寝たふりをしなくていい。


 むしろしてはいけない。


 布団に入り、天井を見る。


 しばらくすると、廊下から足音がした。


 心臓が鳴る。


 足音は部屋の前で止まった。


 静寂。


 そして、小さなノック。


 こん、こん。


「高坂くん」


 凛音の声。


 ちゃんと、声をかけてくれた。


 俺は体を起こした。


「起きてる」


「……寝ていなかったの?」


「寝たふり禁止だから」


「そうね」


「入る?」


 少し間があった。


「今日は、入らない」


「そっか」


「信用十割に戻したいから」


「それはありがたい」


「でも」


 扉の向こうの声が、少しだけ小さくなる。


「声をかけてもいいか、試したかった」


 その言葉が、やけに胸に響いた。


「うん。声かけてくれて嬉しい」


「……そう」


「明日も、声かけてもいいよ」


 言った瞬間、扉の向こうが静かになった。


 やがて、凛音の声がする。


「……じゃあ、明日も」


「うん」


「声をかけてもいい?」


 俺は笑った。


 でも、茶化さずに答えた。


「いいよ」


「……ありがとう」


「おやすみ、凛音」


 少しの沈黙。


「おやすみ、高坂くん」


 足音が遠ざかっていく。


 俺は布団に戻り、目を閉じた。


 今夜、凛音は部屋に入らなかった。


 手も触れなかった。


 扉も開かなかった。


 それでも、昨日より少しだけ前に進んだ気がした。


 もう寝たふりはいらない。


 凛音はちゃんと声をかけてくれる。


 俺はちゃんと返事をする。


 それだけで、この夜は十分に甘かった。

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