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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第32話 開いた扉と、近すぎる距離

 ドアノブが、ゆっくり回った。


 わずかに開いた隙間から、廊下の薄い明かりが差し込んでくる。


 それだけで、部屋の空気が変わった気がした。


 今までにも、凛音はこの部屋に来たことがある。


 夜中に。


 俺が寝ていると思って。


 こっそり入ってきて、布団を直して、独り言みたいに本音をこぼして、そして朝が来る前に帰っていった。


 でも、今日は違う。


 俺は起きている。


 凛音も、それを知っている。


 知らないふりも、寝たふりもない。


 扉の隙間から、凛音の顔が少しだけ見えた。


 部屋着姿。


 髪は下ろしている。


 顔は、もうどうしようもないくらい赤い。


「……開けた」


 凛音が小さく言った。


「うん。開いたな」


「それは、見ればわかるわ」


「緊張して、変な返事になった」


「高坂くんも?」


「俺も」


 そう言うと、凛音は少しだけ目を見開いた。


「高坂くんも、緊張するの?」


「するだろ」


「意外」


「さっきから意外が多いな」


「だって、高坂くんはいつも普通に見えるから」


「普通に見せてるだけ」


「……そう」


 凛音は扉を少しだけ開けたまま、まだ中には入ってこなかった。


 右手でドアノブを握り、半分だけ顔を出している。


 その姿が妙にかわいくて、俺は危うく笑いそうになった。


 けれど、ここで笑ったら絶対に扉が閉まる。


 たぶん勢いよく閉まる。


 俺は必死に真面目な顔を保った。


「入る?」


 聞くと、凛音はぴくりと肩を揺らした。


「……高坂くんは、ベッドに戻って」


「あ、そうだった」


「病み上がりなのに、扉の前に立っているのはよくないわ」


「もう治ったけど」


「信用十割に戻したいなら、戻って」


「はい」


「はいは一回」


「はい」


 俺は大人しくベッドへ戻った。


 凛音はそれを確認してから、ようやく扉をもう少し開けた。


 部屋に入る、というより、入口のところに立つ。


 境界線を越える前に、まだ迷っているようだった。


「そこ、寒くない?」


 俺が聞くと、凛音は小さく首を横に振った。


「大丈夫」


「床に座ってたんだろ。冷えたんじゃないか?」


「高坂くんに心配される立場では」


「さっきルールに書いただろ。心配されたら素直に受け取る」


 凛音は言葉に詰まった。


 自分で書いたルールが、今日もちゃんと効いている。


「……ありがとう」


「うん」


「でも、私は平気」


「それは素直に受け取ったあと?」


「受け取ったあと」


「ならいい」


 凛音は少しだけ困った顔をした。


 学校では絶対に見せない顔。


 その顔を見ると、胸の奥が静かに鳴る。


 俺はベッドの端に座り直した。


「で、凛音はそこにいる?」


「入口?」


「うん」


「……ここなら、すぐ出られるから」


「逃げ道?」


「安全確保」


「言い方が硬いな」


「必要だから」


 凛音はそう言ったが、声は柔らかかった。


 俺は椅子を指差す。


「座るなら、その椅子使っていいよ」


「ベッドの近くの?」


「うん。看病のとき座ってたやつ」


 言った瞬間、二人とも少し黙った。


 看病。


 手を握っていた夜。


 寝言で名前を呼んだらしい夜。


 その記憶が、同じ椅子に残っている気がした。


 凛音は視線を落とす。


「……そこは、近い」


「じゃあ、入口の近くに椅子動かす?」


「自分で動かす」


「俺が」


「病み上がり」


「はい」


「はいは一回」


「はい」


 凛音は部屋へ一歩入った。


 本当に一歩。


 でも、それだけで空気が変わる。


 以前のようにこっそりではない。


 ちゃんと俺の許可を得て、起きている俺の前で入ってきた一歩。


 それが、やけに大きく見えた。


 彼女は椅子を少しだけ入口側へ動かし、そこに座った。


 ベッドからは少し距離がある。


 でも、廊下よりは近い。


 扉越しよりは、確実に近い。


「……見ないで」


 凛音が小さく言った。


「いや、入ってきたから」


「それはそうだけど」


「顔、赤いなって」


「言わないで」


「ごめん」


「謝らなくていいけど」


「嬉しいから困る?」


「今は、恥ずかしいから困る」


 正直な答えだった。


 俺は少し笑いそうになる。


 でも、やっぱりこらえた。


「じゃあ、見すぎないようにする」


「そうして」


「でも話すとき、どこ見ればいい?」


「壁」


「壁と会話するのか」


「高坂くんならできる」


「信頼が変な方向に厚い」


 凛音はほんの少しだけ口元を緩めた。


 空気が少し和らぐ。


「さっきの続きだけど」


 俺が言うと、凛音は姿勢を正した。


「続き?」


「寝ている俺じゃなくて、起きてる俺に来てくれたって話」


「……うん」


「怖かった?」


「怖かった」


 即答だった。


 凛音は少し驚いたように自分の口元へ手を当てた。


 でも、今度も取り消さない。


「かなり、怖かった」


「そっか」


「高坂くんが起きていると、反応が返ってくるから」


「うん」


「私が言ったことを、高坂くんが覚えてしまうから」


「うん」


「寝ているときみたいに、なかったことにできないから」


 胸が少し痛んだ。


 でも、それは悪い痛みではなかった。


 凛音が今、俺にちゃんと向き合おうとしてくれている証拠だった。


「なかったことにしなくていいよ」


 俺は言った。


「凛音が言ってくれたことは、ちゃんと覚えておきたい」


「……そういうところ」


「ずるい?」


「ずるい」


 凛音は椅子の上で、膝のあたりをぎゅっと握った。


「でも、忘れてほしくないと思っている自分もいる」


 俺は何も言えなかった。


 凛音は続ける。


「矛盾しているわ」


「俺も似たようなものだよ」


「高坂くんも?」


「うん。聞きたいけど、聞くのが怖い。言いたいけど、言ったあとのことを考えると怖い」


「……同じね」


「同じだな」


 俺たちは少しだけ笑った。


 同じように怖がっている。


 その事実は、不思議と心強かった。


「凛音」


「なに?」


「ここにいてもいいよ」


 凛音が顔を上げる。


「ここ?」


「この部屋。入口でも、椅子でも、凛音が落ち着く場所で」


「……高坂くんが眠るまで?」


「うん。無理じゃなければ」


「病み上がりだから、早く寝るべき」


「そうだな」


「だから、長居はしないわ」


「うん」


 凛音は少し迷ったあと、小さく聞いた。


「ここにいてもいい?」


 それは、今までの凛音とは違う言葉だった。


 こっそり入るのではない。


 勝手にそばにいるのではない。


 ちゃんと聞いてくれている。


 俺はすぐに頷いた。


「いいよ」


 凛音は、ほんの少しだけ安心したように息を吐いた。


「……ありがとう」


「こっちこそ」


「高坂くんがお礼を言うのは変」


「嬉しいから」


「またそういうことを言う」


「今日は言ってもいい日かなって」


「そんな日はないわ」


「ないのか」


「……少しなら」


 凛音は小さく付け足した。


 俺はそれだけで満足だった。


     ◇


 それから、俺たちは少しだけ話した。


 明日の朝、学校へ行くかどうか。


 信用十割に戻る条件。


 快気祝いの喫茶店の候補。


 佐野と白川さんがどこまで気づいているか。


「白川さんは、たぶんかなり」


「佐野もだな」


「二人が情報共有していたら」


「終わり?」


「終わりではないけど、危険」


「まあ、悪いようにはしないと思うけど」


「それは、わかる」


 凛音は少しだけ目を伏せた。


「白川さんは、からかうけれど、優しいから」


「佐野も、からかうけど悪いやつじゃない」


「友達って、少し面倒ね」


「でも、ありがたい?」


「……ええ」


 凛音がそう認めるのを聞いて、俺は少し嬉しくなった。


 彼女の世界が、少しずつ広がっている。


 その中で、俺との関係も少しずつ変わっていく。


「高坂くん」


「ん?」


「寝なくていいの?」


「眠気はある」


「なら寝て」


「凛音がいるから、寝るのがもったいない」


 言った瞬間、凛音が完全に停止した。


 やらかした。


 病み上がりの俺は、どうも発言が素直になりすぎる。


「……高坂くん」


「はい」


「その発言は、信用を九割から八割に下げるかもしれない」


「なぜ?」


「心拍数に悪い」


「俺の健康管理じゃなくて、凛音の?」


「両方」


「じゃあ謝る」


「謝らなくていいけど」


「嬉しいから?」


「……困る」


 凛音はそう言いながらも、椅子から立ち上がらなかった。


 逃げなかった。


 それが嬉しかった。


「じゃあ、寝る準備する」


「ええ」


「凛音は?」


「高坂くんが寝るまで、少しだけ」


「本当に?」


「少しだけ」


「じゃあ、目閉じる」


「うん」


 俺は布団に入った。


 凛音は入口寄りの椅子に座ったまま、静かにこちらを見ている。


 いや、たぶん見ている。


 目を閉じたからわからない。


 でも、気配でわかる。


 以前は、俺が寝ているふりをしていた。


 今日は違う。


 起きている俺が、凛音がいることを知ったうえで、目を閉じている。


 それだけで、安心感がまったく違った。


「凛音」


「……なに?」


「今日から、寝たふりしなくていい?」


 言った瞬間、部屋の空気が止まった。


 目は閉じたままだった。


 でも、凛音が固まったのがわかる。


「……どういう意味?」


「そのままの意味」


「高坂くん」


「うん」


「寝たふり、していたの?」


 声が震えていた。


 しまった。


 聞き方を間違えたかもしれない。


 でも、もう戻れない。


 俺は目を開けて、凛音を見た。


 彼女は椅子の上で固まっていた。


 顔が赤い。


 でも、それ以上に、驚いている。


「全部じゃない」


「全部?」


「いや、その……何度か。夜、凛音が来たとき、起きてたことがある」


 凛音の表情が、見たことのないくらい変わった。


 赤くなったり、青くなったり、また赤くなったり。


「……いつから?」


「それは」


「高坂くん」


「はい」


「正直に」


 逃げられない。


 俺は観念した。


「最初の方から、何回か」


 凛音は両手で顔を覆った。


「……終わった」


「終わってない」


「終わったわ」


「凛音」


「寝ていると思って言ったことが」


「うん」


「起きている高坂くんに」


「うん」


「聞かれていた」


「……ごめん」


 俺は本気で謝った。


「言い出せなかった。凛音が、寝てると思ってるから言えることもあるんだと思って」


「それは……そうだけど」


「だから、知らないふりした。でも、ずっとそれでいいのかはわからなくなった」


 凛音は顔を覆ったまま黙っている。


 俺はゆっくり続けた。


「今日みたいに、起きてる俺に来てくれたから。もう寝たふりしなくてもいいなら、その方がいいと思った」


「……」


「凛音が嫌なら、来なくてもいい。無理に話さなくていい。でも、来るなら、俺もちゃんと起きて話したい」


 凛音は、しばらく動かなかった。


 やがて、指の隙間からこちらを見る。


「……怒ってはいない」


「本当に?」


「怒るより、恥ずかしい」


「ごめん」


「謝らなくていいけど」


「でも」


「……高坂くんが、知らないふりをしてくれていた理由は、たぶんわかる」


 凛音はゆっくり手を下ろした。


 顔はまだ赤い。


 でも、目は逃げていなかった。


「だから、怒ってはいないわ」


「ありがとう」


「でも」


「でも?」


「今まで私が何を言ったか、しばらく思い出さないで」


「それは難しい」


「努力して」


「努力する」


「あと」


 凛音は小さく息を吸った。


「寝たふりは禁止」


 俺は小さく笑った。


「わかった」


「笑わないで」


「ごめん」


「明日、ルールに書く」


「やっぱり書くんだ」


「必要だから」


 凛音は椅子から立ち上がった。


 その動きは少しぎこちない。


 照れと動揺で限界なのだろう。


「今日は、もう戻るわ」


「うん」


「高坂くんも、寝て」


「わかった」


「本当に」


「本当に」


「信用八割」


「下がった」


「寝たふりの件で」


「ですよね」


 凛音は扉の前まで行き、振り返った。


 まだ赤い顔で、それでもまっすぐこちらを見る。


「でも」


「うん」


「今日、ちゃんと話せたことは……よかったと思う」


「俺も」


「おやすみ、高坂くん」


「おやすみ、凛音」


 彼女は一瞬だけ固まり、それから小さく頷いて部屋を出た。


 扉が閉まる。


 部屋が静かになる。


 俺は布団に横になり、天井を見上げた。


 寝たふりは禁止。


 夜に来るなら、ちゃんと話す。


 それはつまり、俺たちの夜が変わるということだ。


 こっそり近づく関係から、少しずつ向き合う関係へ。


 その変化が、怖くて、嬉しくて。


 俺はしばらく眠れなかった。


 ただし、今夜は寝たふりではなかった。

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