第31話 扉越しの告白未満
「じゃあ、ちゃんと会おう」
そう言ったあと、俺は扉の前で立ち止まった。
ドアノブに手を伸ばせば、すぐに開けられる。
向こうには凛音がいる。
寝ている俺に会いに来たのではなく、起きている俺に会いに来た凛音が。
それだけのことなのに、手が少しだけ重かった。
いや、たぶん向こうも同じだ。
扉の向こうから、凛音の小さな呼吸が聞こえる。
廊下の明かりは消えているはずだ。夜の静けさの中で、俺たちは一枚の扉を挟んで向かい合っている。
「……高坂くん」
「うん」
「開けるの?」
「開けてもいいなら」
少し間があった。
ドアの向こうで、凛音が迷っているのがわかる。
俺は、ドアノブに置きかけた手をそっと下ろした。
「無理しなくていいよ」
「無理では」
そこまで言って、凛音は黙った。
たぶん、いつものように「無理ではない」と言い切ろうとして、言い切れなかったのだろう。
その正直さに、胸が少し温かくなる。
「じゃあ、扉越しで話す?」
「……変じゃない?」
「夜中に部屋の前で話してる時点で、まあまあ変だろ」
「そういうことを言わないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから困る?」
「今は、困る以前に……心臓が忙しい」
凛音の声は小さかった。
でも、ちゃんと本音だった。
俺は扉に背中を預けるようにして、床に座った。
病み上がりなのに廊下側の冷気を浴びるのはよくないかもしれないが、扉を開けずに話すならこの方が落ち着く。
「俺、座った」
「え?」
「扉のこっち側。だから凛音も立ってるの疲れたら座っていい」
「……病み上がりなのに床に座るのはよくないと思う」
「じゃあベッドに戻る?」
「戻って」
「戻ったら声、聞こえにくくなる」
また少し沈黙。
それから、扉の向こうで衣擦れの音がした。
凛音も座ったらしい。
「座った?」
「……座ったわ」
「床、冷たくない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「高坂くんに心配される立場ではないと思う」
「それ、しばらく言われ続けるやつか?」
「信用九割だから」
「あと一割、遠いな」
「今日、早く寝たら十割」
「今、起きてるんだけど」
「だから少し減点」
「理不尽」
「でも、私が来たから……今回は保留」
保留。
凛音らしい言い方だった。
俺は少し笑った。
「笑った?」
「少し」
「高坂くんは、最近すぐ笑う」
「凛音といると、そうなる」
言ってから、また少し踏み込みすぎたかと思った。
扉の向こうが静かになる。
まずい。
今のは病み上がりのテンションにしても、なかなか危ない。
「……そういうことを」
「急に言うな?」
「うん」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
凛音はそこで言葉を切った。
そして、本当に小さな声で続ける。
「嬉しいから、困る」
何度も聞いた言葉なのに、今日は少し違って聞こえた。
扉越しだからだろうか。
顔が見えない分、声の温度だけがまっすぐ届く。
「凛音」
「……なに?」
「来てくれて、嬉しい」
今度はちゃんと言った。
逃げ道を作らずに。
扉の向こうで、凛音が息を呑む音が聞こえた。
「寝てる俺じゃなくて、起きてる俺に会いに来てくれたのが」
「……うん」
「それ、すごく嬉しかった」
凛音はすぐには返事をしなかった。
廊下の向こうから、マンションの配管の音がかすかに聞こえる。
それくらい、静かだった。
「私は」
やがて、凛音が言った。
「ずっと、寝ている高坂くんには言えたの」
「うん」
「勝手に部屋に入って、勝手に話して、勝手に安心して……」
「うん」
「でも、起きている高坂くんには、言えなかった」
俺は黙って聞いた。
ここで茶化してはいけない。
ここで先回りしてはいけない。
凛音は、今まで言えなかったことを言おうとしている。
「寝ている高坂くんは、返事をしないから」
「うん」
「困った顔もしないし、聞き返したりもしないし、私が変なことを言っても……朝になれば、何もなかったことにできた」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
俺は何もなかったことにしてきた。
正確には、知っているのに知らないふりをしてきた。
凛音の逃げ場を守るためだと思っていた。
でも、それは同時に、彼女に一人で話させ続けることでもあったのかもしれない。
「でも、今日は来たんだな」
「……うん」
「起きてる俺に」
「うん」
凛音の声が、少しだけ震えた。
「看病しているときに、思ったの」
「何を?」
「高坂くんは、起きていても優しかった」
「それ、普通じゃないか?」
「普通じゃないわ」
凛音の返事は、思ったより強かった。
「私は、起きている相手に優しくするのが怖かった。冷たくしていれば、失敗しないと思っていたから」
「凛音」
「でも、高坂くんが熱を出して、弱っていて、それでも私の手を握って……」
そこで彼女は、少しだけ言葉に詰まった。
俺も熱が戻りそうになった。
手を握っていたことは、今思い出してもかなり恥ずかしい。
「嫌じゃなかったって言ってくれたよな」
「嫌では、なかった」
「それ以上は?」
「今は聞かないで」
「ごめん」
「……でも」
凛音は、扉の向こうで小さく息を吸った。
「安心した」
「凛音が?」
「うん」
「俺が手を握ってたのに?」
「高坂くんが、私を必要としてくれているみたいで」
その言葉で、何かが胸の奥に落ちた。
ずっと言葉にできなかったものに近い。
必要。
たぶん、そうだ。
俺は凛音が必要になっている。
朝ご飯だけじゃない。
弁当だけじゃない。
看病だけじゃない。
彼女がいることそのものが、俺の生活の中で大きくなりすぎている。
「必要だよ」
気づけば、そう言っていた。
扉の向こうが、また静かになる。
「……高坂くん」
「凛音がいないと困る」
「それは、同居人として?」
凛音の声は、少しだけ怖がっていた。
俺はすぐに答えられなかった。
ここで言うのか。
今、言ってしまうのか。
好きだと。
でも、病み上がり用特別規定が頭をよぎる。
『大事な話は、体調が完全に戻ってから』
凛音は、ちゃんと聞きたいと言った。
俺も、ちゃんと言うと言った。
今日、体温は平熱だった。
でも、凛音は信用十割ではないと言った。
そして今は夜中、扉越し。
告白するには、あまりにも勢いに頼りすぎている。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「同居人として、だけじゃないと思う」
それが今の精いっぱいだった。
扉の向こうで、凛音が何かを飲み込むような気配がした。
「だけじゃない」
「うん」
「……ずるい」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから?」
「……困る」
「困るのか」
「嬉しいから、困る」
声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
「高坂くん」
「うん」
「私も」
その続きが来るのを、俺は息を止めて待った。
「私も、高坂くんがいないと……少し、困る」
少し。
彼女らしい逃げ道。
でも、その一言があるだけで十分だった。
「そっか」
「少しだけ」
「うん」
「かなり、ではないわ」
「そういうことにしておく」
「笑ってる?」
「笑ってない」
「口元」
「見えてないだろ」
「声でわかる」
凛音の声にも、少しだけ笑みが混じっていた。
扉越しなのに、距離が近い。
顔は見えない。
手も触れていない。
それなのに、今までで一番ちゃんと話している気がした。
「凛音」
「なに?」
「これからは、寝てる俺じゃなくても話してほしい」
扉の向こうで、衣擦れの音がした。
凛音が膝を抱え直したのかもしれない。
「難しいわ」
「うん」
「起きている高坂くんは、返事をするから」
「返事するなって言われたら、黙るけど」
「それはそれで困る」
「難しいな」
「難しいの」
凛音は小さく言った。
「でも、今日みたいに扉越しなら、少し話せるかもしれない」
「じゃあ、扉越しから始める?」
「……うん」
「少しずつ?」
「少しずつ」
「ルールに書く?」
冗談のつもりだった。
でも、凛音は少し考え込んだ気配がした。
「明日、書く」
「本当に書くのか」
「必要だから」
「便利だな、ルール」
「便利ではなく正確」
いつもの返し。
それだけで、俺は安心した。
この会話は、怖い。
今までよりずっと本音に近いから。
でも、凛音は凛音のままだ。
真面目で、不器用で、照れ隠しが下手で、ルールを作らないと落ち着かない。
そこが好きだと思う。
まだ言えないけれど。
「高坂くん」
「うん」
「寝なくていいの?」
「寝ないと信用十割にならないんだよな」
「ええ」
「でも、今はもう少し話してたい」
凛音が黙った。
まずい。
また言いすぎたか。
けれど、数秒後に聞こえてきた声は、思ったより柔らかかった。
「……私も」
小さな、小さな声。
「もう少しだけなら」
俺は扉にもたれたまま、目を閉じた。
もう少しだけ。
その言葉が、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「じゃあ、もう少し」
「うん」
それから俺たちは、他愛もない話をした。
明日の朝食を何にするか。
学校へ行くなら何時に家を出るか。
快気祝いの喫茶店をいつ決めるか。
佐野と白川さんがどこまで気づいているのか。
「白川さんは、かなり」
「佐野もかなり」
「二人が話したら危険ね」
「もう話してそうだけどな」
「……それは、危険」
凛音が本気で困っている声を出したので、俺は笑ってしまった。
「笑わないで」
「ごめん」
「高坂くんは、病み上がりなのに笑いすぎ」
「凛音と話してると笑うんだって」
「またそういうことを言う」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しい?」
「……少し」
少し。
その言葉が、今夜は何度も出てくる。
でも、俺にはわかる。
凛音の「少し」は、ときどき少しじゃない。
そして俺の「もう少し」も、たぶんもう少しでは済まない。
どちらも、まだ言葉を小さくしているだけだ。
やがて、凛音がふっと息を吐いた。
「高坂くん」
「ん?」
「そろそろ寝て」
「うん」
「信用十割に戻したいから」
「俺の信用を?」
「私が安心したいから」
その言葉に、胸が鳴った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ寝る」
「ちゃんとベッドで」
「今、床」
「知っているわ。早く戻って」
「凛音も部屋に戻る?」
「戻る」
「今日は、来てくれてありがとう」
扉の向こうで、凛音が立ち上がる音がした。
「……私も」
「うん?」
「話せて、よかった」
その声だけで、今日の夜が特別だったことがわかった。
俺は立ち上がり、ベッドへ戻ろうとした。
そのとき、扉の向こうからまた声がする。
「高坂くん」
「何?」
「……少しだけ」
ドアノブが、かすかに動いた。
俺は息を止める。
「少しだけ、開けてもいい?」
心臓が、強く鳴った。
扉越しの会話が終わる。
次は、顔を合わせる。
寝たふりでもなく。
こっそりでもなく。
起きている俺と、起きている凛音が。
「いいよ」
俺はできるだけ落ち着いた声で答えた。
でも、自分でもわかるくらい、少し震えていた。
「開けて」
ゆっくりと、ドアノブが回る。
夜の静かな部屋に、ほんの細い光が差し込んだ。




