表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/54

第30話 もう我慢できない、けど

 翌朝。


 体温計の表示は、三十六度四分だった。


 完全に平熱。


 喉の違和感もほとんどない。


 体の重さも消えている。


 俺はベッドの上で、体温計を見つめたまま小さく息を吐いた。


「……治ったな」


 嬉しい。


 もちろん嬉しい。


 発熱して寝込むのは普通につらいし、凛音に迷惑もかけた。学校も休んだ。佐野からは昨日の夜に『生きてるか』という雑な安否確認メッセージが来た。


 だから、治ったのは良いことだ。


 間違いなく良いことだ。


 でも、ほんの少しだけ。


 本当にほんの少しだけ、看病される時間が終わることに寂しさもあった。


 凛音がベッドの横に座ってくれたこと。


 手を握ってくれたこと。


 水を飲ませてくれたこと。


 お粥を作ってくれたこと。


 熱が下がるたびに、心底ほっとした顔をしてくれたこと。


 それらは全部、病人だったから許された距離だった。


 治ったら、もう同じ距離ではいられない。


 いや、いられないわけではない。


 でも、理由がなくなる。


 看病だから。


 病み上がりだから。


 緊急時だから。


 そんな言い訳が消える。


「……何を惜しんでるんだ、俺は」


 自分で呟いて、少しだけ笑った。


 治ったんだから、喜べ。


 そう思う。


 けれど、胸の奥には昨日の言葉が残っていた。


『大事な話は、体調が完全に戻ってから』


 同居契約ルールに、凛音がそう書いた。


 俺も言った。


 完全に治ったら、ちゃんと言う、と。


 つまり。


 体調が戻った今、もう逃げ道は少なくなっている。


 スマホが震えた。


 凛音からだった。


『熱は?』


 同じ家にいるのに、今日もメッセージで確認が来る。


 俺は写真を撮って送った。


『36.4』


 すぐ既読。


『平熱ですね』


『たぶん完治』


『自己判断は禁止です』


『厳しい』


『朝食後に再確認します』


 俺はベッドの上で笑った。


 まだ看病は終わっていないらしい。


     ◇


 リビングへ行くと、凛音が朝食を用意していた。


 今日は普通の朝食だった。


 ご飯、味噌汁、焼き鮭、卵焼き、漬物、ほうれん草のおひたし。


 病人食ではない。


 けれど、油ものは避けられている。


 完全復帰一日目用、という感じがする。


「おはよう」


 俺が声をかけると、凛音は振り返った。


「おはよう、高坂くん」


「熱、下がった」


「見たわ」


「学校、行けるよな?」


 凛音は卵焼きを皿に移しながら、少しだけ考えた。


「今日は午前中だけ」


「え?」


「念のため」


「いや、普通に一日行けるって」


「高坂くん」


「はい」


「信用は八割まで戻ったけれど、まだ満点ではないわ」


「昨日より増えてる」


「でも満点ではない」


「何をすれば満点?」


「今日、無理をしないこと」


「じゃあ、午前だけ?」


「本当は休んでもいいと思っている」


「それはさすがに」


「だから譲歩して午前」


「譲歩なのか」


「譲歩」


 凛音は真面目だった。


 俺は椅子に座り、少し考える。


 確かに、昨日まで寝込んでいた。


 無理してぶり返したら、凛音にさらに心配をかける。


 それだけは避けたい。


「わかった。午前だけ行く」


 俺が言うと、凛音は少しだけ目を丸くした。


「素直ね」


「心配かけたくないし」


 言った瞬間、凛音の手が止まった。


「……そう」


「それに、凛音に怒られるの怖い」


「怒ってはいない」


「看病モードの凛音、強かったぞ」


「必要だったから」


「でも、助かった」


 凛音は視線を落とした。


 耳が少し赤い。


「何度も聞いたわ」


「何度でも言うって言っただろ」


「……ずるい」


「今日は少し?」


「今日は、かなり」


 小さく認めた。


 俺は胸の奥が温かくなる。


 看病が終わっても、距離が全部戻るわけではない。


 そう思えた。


「いただきます」


「どうぞ」


 朝食は、いつも以上においしかった。


 普通のご飯が食べられるだけで、こんなにありがたいのかと思う。


 味噌汁の塩気も、鮭の香ばしさも、卵焼きの甘さも、ちゃんとわかる。


「うまい」


「味覚は戻っているみたいね」


「うん。卵焼き、今日も甘い」


「少しだけ」


「俺好み?」


 凛音は箸を止めた。


 そして、逃げずに小さく答えた。


「……高坂くん好み」


 俺は、完全に負けた。


 今のは強い。


 病み上がりの心臓には刺激が強すぎる。


「高坂くん?」


「いや、今のは……」


「何?」


「嬉しいから困るやつ」


 凛音が一瞬きょとんとしたあと、顔を赤くした。


「私の台詞」


「借りた」


「許可していない」


「便利だったから」


「便利ではなく」


「正確」


「……そう」


 凛音は困ったように目を伏せた。


 でも、少しだけ笑っていた。


     ◇


 学校へ行くと、佐野が俺を見るなり立ち上がった。


「高坂、生きてる!」


「勝手に死んだことにするな」


「いや、昨日休んだからさ」


「一日だけだろ」


「で、体調は?」


「もう平気。午前だけで帰るけど」


「賢明だな」


「凛音……じゃなくて」


 危なかった。


 危険すぎる。


 今、自然に凛音と言いかけた。


 佐野の目が光った。


「おい」


「何」


「今、何て言いかけた?」


「何も」


「凛……って言いかけなかった?」


「言いかけてない」


「無理あるぞ」


「病み上がりだから発音が不安定」


「その言い訳は初めて聞いた」


 佐野は楽しそうに笑った。


 俺は席に座り、鞄を机にかける。


「で、誰に午前だけにしろって言われたんだ?」


「自分で判断」


「今の言い方で嘘ってわかった」


「佐野、最近本当に面倒くさいな」


「友人だからな」


「便利な言葉だな」


「便利ではなく正確」


「それ、やめろ」


「何で?」


「何となく」


 佐野は首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。


 ただ、にやにやはしていた。


 廊下で凛音とすれ違ったのは、二時間目の休み時間だった。


 いつものように一秒。


 会釈。


 通過。


 そのはずだった。


 けれど、今日は少し違った。


 凛音の視線が、俺の顔色を確認するように動く。


 学校では必要以上に親しくしない。


 だから声はかけない。


 それでも彼女の目は、明らかに「大丈夫?」と聞いていた。


 俺はほんの少しだけ頷く。


 大丈夫。


 そう伝えるつもりで。


 凛音はそれを見て、小さく息を吐いたように見えた。


 そのまま通り過ぎる。


 たったそれだけ。


 なのに、胸が温かい。


 そして、廊下の端には白川さんがいた。


 彼女は俺と凛音を交互に見て、何かを察したように微笑んだ。


 やっぱり見られていた。


 午前の授業が終わるころ、佐野が俺の机にやってきた。


「帰るんだろ?」


「うん」


「無理すんなよ」


「お前、今日は真面目だな」


「病み上がり相手にふざけすぎるほど鬼じゃない」


「昨日は紙で『生きてるか』って送ってきたけどな」


「あれは優しさ」


「雑な優しさだな」


 佐野は笑ったあと、少し声を落とした。


「あと、何か大事な話するなら、体調いいときにしろよ」


 俺は動きを止めた。


「何でそれを」


「顔」


「また顔か」


「病み上がりなのに、朝からずっと何か決意してる顔してる」


「そんな顔ある?」


「ある」


 佐野は鞄を肩にかけた俺の背中を軽く叩いた。


「まあ、頑張れ」


「何を」


「何かを」


「曖昧だな」


「曖昧な方が逃げ道あるだろ」


 そう言って、佐野は自分の席に戻った。


 意外といいやつだ。


 本当に、たまに困るくらい。


     ◇


 家に帰ると、リビングは静かだった。


 凛音はまだ学校だ。


 午前だけで帰ることはメッセージで伝えてある。


『帰ったら熱を測ってください』


 そう返ってきたので、俺はすぐ体温を測った。


 三十六度五分。


『36.5。問題なし』


『横になってください』


『元気だけど』


『横になってください』


『はい』


『はいは一回』


『はい』


 俺は言われた通り、部屋で横になった。


 でも眠れなかった。


 体調はほぼ戻っている。


 頭も冴えている。


 そして、昨日の言いかけた言葉がずっと残っていた。


 俺、凛音のこと……。


 あの続きを、俺はいつ言うのか。


 完全に治ったら。


 凛音はそう言った。


 今日、もうほとんど治っている。


 でも、本当に今か。


 凛音にも準備が必要だと言っていた。


 聞く準備。


 俺にも言う準備が必要だ。


 好きだ。


 たった二文字。


 なのに、こんなにも重い。


 契約結婚から始まった同居。


 好きにならないで、と言われた最初の日。


 夜に寝顔を見に来ていた凛音。


 停電の手。


 名前呼び。


 弁当。


 買い出し。


 告白を断ったときの「好きな人がいる」。


 看病の夜。


 手を握ったまま、凛音の名前を寝言で呼んだこと。


 全部が積み重なっている。


 ただの同居人では、もういられない。


 そう思う。


 でも、まだ怖い。


 もし踏み込んで、凛音が困ったら。


 今の関係が崩れたら。


 そう考えると、胸が苦しくなる。


「……情けないな」


 俺は天井を見上げた。


 好きな人と同じ家にいて、たぶん相手も近い気持ちを持ってくれている。


 それでも怖い。


 恋愛というものは、思ったよりも面倒で、臆病で、でもやめられないものらしい。


     ◇


 凛音が帰ってきたのは、いつもより少し早い時間だった。


「ただいま」


「おかえり」


 リビングへ出ると、凛音はすぐに俺の顔を見た。


「熱は?」


「三十六度五分」


「今も測る」


「帰宅時確認?」


「ええ」


 もはや恒例行事だった。


 体温は三十六度五分のまま。


 凛音はようやく安心したように頷く。


「大丈夫そうね」


「信用は?」


「九割」


「あと一割は?」


「今日、早く寝たら」


「なるほど」


「それと、変なことを言いかけないこと」


 俺は固まった。


「昨日の?」


「……ええ」


 凛音も少し赤くなる。


 やはり、彼女の中にも残っていた。


「変なことではないかもしれないけれど」


「うん」


「大事な話なら、体調が完全に戻ってから」


「もうほぼ戻った」


「ほぼ、ではだめ」


「凛音は厳しいな」


「逃げているわけではないわ」


 凛音はまっすぐ俺を見た。


 その目は、少し揺れていた。


「ちゃんと聞きたいから」


 俺は何も言えなくなった。


 ちゃんと聞きたい。


 それは、逃げではない。


 むしろ、向き合うための準備だった。


「わかった」


 俺は頷いた。


「ちゃんと治す」


「ええ」


「それで、ちゃんと言う」


 凛音の頬が赤くなる。


「……うん」


 その小さな返事だけで、胸がいっぱいになった。


     ◇


 夕食は、普通の食事に戻った。


 鶏肉の照り焼き。


 味噌汁。


 サラダ。


 白いご飯。


 ただし、凛音いわく「病み上がり調整版」なので、味は少し控えめだった。


「もう普通でいいのに」


「普通に戻すのは段階的に」


「ほんと管理が細かい」


「看病後の経過観察」


「まだ続いてるのか」


「続いているわ」


「じゃあ、凛音はまだ看病中?」


 凛音は箸を止めた。


「……そうね」


「じゃあ、看病のお礼もまだ増える?」


「増やさなくていい」


「でも、外食は決まってるだろ」


「それは……看病のお礼と快気祝い」


「いつ行く?」


「高坂くんが完全に治ってから」


「明日、熱がなければ?」


「検討」


「検討か」


「前向きに」


「それはもう、かなり行くやつだ」


 凛音は目を逸らした。


「……行き先を考えておく」


「甘すぎないもの?」


「ええ」


「喫茶店?」


「候補」


「楽しみだな」


 凛音は照れたように味噌汁を飲んだ。


 食後、俺は片づけを少しだけ手伝った。


 凛音は「皿を一枚ずつ」「ゆっくり」「無理しない」と何度も言った。


 まるで割れ物を運ぶように扱われている。


 でも、それが嫌ではない。


 心配されるのは申し訳ない。


 けれど、凛音が俺を大事に扱ってくれているのがわかるから。


 皿洗いが終わると、二人でリビングに座った。


 いつもの同居契約ルールの紙が、テーブルの端にある。


 凛音がペンを持つ。


「また追加?」


「今回で最後にしたいけれど」


「何を書くんだ?」


 凛音は少し考えてから、丁寧に書いた。


『看病後も、しばらく無理をしない』


『心配されたら、なるべく素直に受け取る』


 俺はそれを見て、少し笑った。


「俺向け?」


「主に」


「主にってことは、凛音にも?」


「……私も」


 凛音は小さく認めた。


「凛音も、心配されたら素直に受け取る?」


「努力する」


「じゃあ、今日は早く休んで。看病で疲れてるだろ」


 凛音はペンを置いた。


「……それは」


「心配してる」


「私は平気」


「素直に受け取るルール」


 俺が紙を指差すと、凛音は言葉に詰まった。


 自分で書いたルールに捕まった顔だった。


「……わかった」


「よし」


「高坂くん、少し意地悪」


「元気になったから」


「病み上がりなのに」


「もう元気」


「九割」


「信用?」


「ええ」


「あと一割、遠いな」


 凛音はほんの少し笑った。


 その笑顔を見て、俺は思った。


 もう我慢できない。


 好きだと言いたい。


 この人が好きだ。


 朝ご飯を作ってくれるところも、心配しすぎるところも、すぐ耳が赤くなるところも、ルールを書いて自分で引っかかるところも。


 全部。


 でも、今じゃない。


 彼女がちゃんと聞く準備をして、俺が完全に治って、二人とも逃げないと決めたとき。


 そのときに言う。


 たぶん、それはもうすぐだ。


     ◇


 夜。


 俺は早めに部屋へ戻った。


 凛音が信用を十割に戻す条件として「早く寝ること」を提示したからだ。


 布団に入り、目を閉じる。


 体はもう楽だった。


 でも、頭は冴えている。


 眠れない。


 病み上がりのせいではない。


 凛音のことを考えているからだ。


 しばらくして、廊下で小さな音がした。


 足音。


 聞き慣れた、控えめな足音。


 凛音だ。


 いつもなら、俺が寝たふりをする時間だった。


 でも今日は違う。


 俺は起きている。


 そして、寝たふりをする気にはなれなかった。


 足音が、部屋の前で止まる。


 しばらく沈黙。


 凛音は、たぶん迷っている。


 扉の向こうで、呼吸を整えているような気配。


 俺はベッドから上体を起こした。


「凛音」


 扉の向こうで、彼女が息を呑む気配がした。


「入っていいよ」


 沈黙。


 長い沈黙。


 そして、扉の向こうから小さな声がした。


「……起きていたの?」


「うん」


「寝ていないと、信用が十割にならないわ」


「それは困るな」


「困るなら、寝て」


「でも、凛音が来たから」


 また沈黙。


 ドアノブが、ほんの少し動いた。


 けれど、まだ開かない。


「高坂くん」


「うん」


「今日は」


 凛音の声が震えていた。


「寝ている高坂くんじゃなくて」


 俺は息を止めた。


 扉の向こうで、彼女が小さく息を吸う。


「……起きてる高坂くんに、会いに来た」


 その言葉で、俺の中の何かが静かにほどけた。


 もう、寝たふりはいらない。


 知らないふりも、たぶん少しずついらなくなる。


 俺はベッドから降りて、扉の方へ歩いた。


 そして、扉越しに言った。


「じゃあ、ちゃんと会おう」


 今度は、俺たちは逃げない。


 たぶん。


 まだ少し怖いけれど。


 それでも、この夜は確かに、今までと違う場所へ続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ