第30話 もう我慢できない、けど
翌朝。
体温計の表示は、三十六度四分だった。
完全に平熱。
喉の違和感もほとんどない。
体の重さも消えている。
俺はベッドの上で、体温計を見つめたまま小さく息を吐いた。
「……治ったな」
嬉しい。
もちろん嬉しい。
発熱して寝込むのは普通につらいし、凛音に迷惑もかけた。学校も休んだ。佐野からは昨日の夜に『生きてるか』という雑な安否確認メッセージが来た。
だから、治ったのは良いことだ。
間違いなく良いことだ。
でも、ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ、看病される時間が終わることに寂しさもあった。
凛音がベッドの横に座ってくれたこと。
手を握ってくれたこと。
水を飲ませてくれたこと。
お粥を作ってくれたこと。
熱が下がるたびに、心底ほっとした顔をしてくれたこと。
それらは全部、病人だったから許された距離だった。
治ったら、もう同じ距離ではいられない。
いや、いられないわけではない。
でも、理由がなくなる。
看病だから。
病み上がりだから。
緊急時だから。
そんな言い訳が消える。
「……何を惜しんでるんだ、俺は」
自分で呟いて、少しだけ笑った。
治ったんだから、喜べ。
そう思う。
けれど、胸の奥には昨日の言葉が残っていた。
『大事な話は、体調が完全に戻ってから』
同居契約ルールに、凛音がそう書いた。
俺も言った。
完全に治ったら、ちゃんと言う、と。
つまり。
体調が戻った今、もう逃げ道は少なくなっている。
スマホが震えた。
凛音からだった。
『熱は?』
同じ家にいるのに、今日もメッセージで確認が来る。
俺は写真を撮って送った。
『36.4』
すぐ既読。
『平熱ですね』
『たぶん完治』
『自己判断は禁止です』
『厳しい』
『朝食後に再確認します』
俺はベッドの上で笑った。
まだ看病は終わっていないらしい。
◇
リビングへ行くと、凛音が朝食を用意していた。
今日は普通の朝食だった。
ご飯、味噌汁、焼き鮭、卵焼き、漬物、ほうれん草のおひたし。
病人食ではない。
けれど、油ものは避けられている。
完全復帰一日目用、という感じがする。
「おはよう」
俺が声をかけると、凛音は振り返った。
「おはよう、高坂くん」
「熱、下がった」
「見たわ」
「学校、行けるよな?」
凛音は卵焼きを皿に移しながら、少しだけ考えた。
「今日は午前中だけ」
「え?」
「念のため」
「いや、普通に一日行けるって」
「高坂くん」
「はい」
「信用は八割まで戻ったけれど、まだ満点ではないわ」
「昨日より増えてる」
「でも満点ではない」
「何をすれば満点?」
「今日、無理をしないこと」
「じゃあ、午前だけ?」
「本当は休んでもいいと思っている」
「それはさすがに」
「だから譲歩して午前」
「譲歩なのか」
「譲歩」
凛音は真面目だった。
俺は椅子に座り、少し考える。
確かに、昨日まで寝込んでいた。
無理してぶり返したら、凛音にさらに心配をかける。
それだけは避けたい。
「わかった。午前だけ行く」
俺が言うと、凛音は少しだけ目を丸くした。
「素直ね」
「心配かけたくないし」
言った瞬間、凛音の手が止まった。
「……そう」
「それに、凛音に怒られるの怖い」
「怒ってはいない」
「看病モードの凛音、強かったぞ」
「必要だったから」
「でも、助かった」
凛音は視線を落とした。
耳が少し赤い。
「何度も聞いたわ」
「何度でも言うって言っただろ」
「……ずるい」
「今日は少し?」
「今日は、かなり」
小さく認めた。
俺は胸の奥が温かくなる。
看病が終わっても、距離が全部戻るわけではない。
そう思えた。
「いただきます」
「どうぞ」
朝食は、いつも以上においしかった。
普通のご飯が食べられるだけで、こんなにありがたいのかと思う。
味噌汁の塩気も、鮭の香ばしさも、卵焼きの甘さも、ちゃんとわかる。
「うまい」
「味覚は戻っているみたいね」
「うん。卵焼き、今日も甘い」
「少しだけ」
「俺好み?」
凛音は箸を止めた。
そして、逃げずに小さく答えた。
「……高坂くん好み」
俺は、完全に負けた。
今のは強い。
病み上がりの心臓には刺激が強すぎる。
「高坂くん?」
「いや、今のは……」
「何?」
「嬉しいから困るやつ」
凛音が一瞬きょとんとしたあと、顔を赤くした。
「私の台詞」
「借りた」
「許可していない」
「便利だったから」
「便利ではなく」
「正確」
「……そう」
凛音は困ったように目を伏せた。
でも、少しだけ笑っていた。
◇
学校へ行くと、佐野が俺を見るなり立ち上がった。
「高坂、生きてる!」
「勝手に死んだことにするな」
「いや、昨日休んだからさ」
「一日だけだろ」
「で、体調は?」
「もう平気。午前だけで帰るけど」
「賢明だな」
「凛音……じゃなくて」
危なかった。
危険すぎる。
今、自然に凛音と言いかけた。
佐野の目が光った。
「おい」
「何」
「今、何て言いかけた?」
「何も」
「凛……って言いかけなかった?」
「言いかけてない」
「無理あるぞ」
「病み上がりだから発音が不安定」
「その言い訳は初めて聞いた」
佐野は楽しそうに笑った。
俺は席に座り、鞄を机にかける。
「で、誰に午前だけにしろって言われたんだ?」
「自分で判断」
「今の言い方で嘘ってわかった」
「佐野、最近本当に面倒くさいな」
「友人だからな」
「便利な言葉だな」
「便利ではなく正確」
「それ、やめろ」
「何で?」
「何となく」
佐野は首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。
ただ、にやにやはしていた。
廊下で凛音とすれ違ったのは、二時間目の休み時間だった。
いつものように一秒。
会釈。
通過。
そのはずだった。
けれど、今日は少し違った。
凛音の視線が、俺の顔色を確認するように動く。
学校では必要以上に親しくしない。
だから声はかけない。
それでも彼女の目は、明らかに「大丈夫?」と聞いていた。
俺はほんの少しだけ頷く。
大丈夫。
そう伝えるつもりで。
凛音はそれを見て、小さく息を吐いたように見えた。
そのまま通り過ぎる。
たったそれだけ。
なのに、胸が温かい。
そして、廊下の端には白川さんがいた。
彼女は俺と凛音を交互に見て、何かを察したように微笑んだ。
やっぱり見られていた。
午前の授業が終わるころ、佐野が俺の机にやってきた。
「帰るんだろ?」
「うん」
「無理すんなよ」
「お前、今日は真面目だな」
「病み上がり相手にふざけすぎるほど鬼じゃない」
「昨日は紙で『生きてるか』って送ってきたけどな」
「あれは優しさ」
「雑な優しさだな」
佐野は笑ったあと、少し声を落とした。
「あと、何か大事な話するなら、体調いいときにしろよ」
俺は動きを止めた。
「何でそれを」
「顔」
「また顔か」
「病み上がりなのに、朝からずっと何か決意してる顔してる」
「そんな顔ある?」
「ある」
佐野は鞄を肩にかけた俺の背中を軽く叩いた。
「まあ、頑張れ」
「何を」
「何かを」
「曖昧だな」
「曖昧な方が逃げ道あるだろ」
そう言って、佐野は自分の席に戻った。
意外といいやつだ。
本当に、たまに困るくらい。
◇
家に帰ると、リビングは静かだった。
凛音はまだ学校だ。
午前だけで帰ることはメッセージで伝えてある。
『帰ったら熱を測ってください』
そう返ってきたので、俺はすぐ体温を測った。
三十六度五分。
『36.5。問題なし』
『横になってください』
『元気だけど』
『横になってください』
『はい』
『はいは一回』
『はい』
俺は言われた通り、部屋で横になった。
でも眠れなかった。
体調はほぼ戻っている。
頭も冴えている。
そして、昨日の言いかけた言葉がずっと残っていた。
俺、凛音のこと……。
あの続きを、俺はいつ言うのか。
完全に治ったら。
凛音はそう言った。
今日、もうほとんど治っている。
でも、本当に今か。
凛音にも準備が必要だと言っていた。
聞く準備。
俺にも言う準備が必要だ。
好きだ。
たった二文字。
なのに、こんなにも重い。
契約結婚から始まった同居。
好きにならないで、と言われた最初の日。
夜に寝顔を見に来ていた凛音。
停電の手。
名前呼び。
弁当。
買い出し。
告白を断ったときの「好きな人がいる」。
看病の夜。
手を握ったまま、凛音の名前を寝言で呼んだこと。
全部が積み重なっている。
ただの同居人では、もういられない。
そう思う。
でも、まだ怖い。
もし踏み込んで、凛音が困ったら。
今の関係が崩れたら。
そう考えると、胸が苦しくなる。
「……情けないな」
俺は天井を見上げた。
好きな人と同じ家にいて、たぶん相手も近い気持ちを持ってくれている。
それでも怖い。
恋愛というものは、思ったよりも面倒で、臆病で、でもやめられないものらしい。
◇
凛音が帰ってきたのは、いつもより少し早い時間だった。
「ただいま」
「おかえり」
リビングへ出ると、凛音はすぐに俺の顔を見た。
「熱は?」
「三十六度五分」
「今も測る」
「帰宅時確認?」
「ええ」
もはや恒例行事だった。
体温は三十六度五分のまま。
凛音はようやく安心したように頷く。
「大丈夫そうね」
「信用は?」
「九割」
「あと一割は?」
「今日、早く寝たら」
「なるほど」
「それと、変なことを言いかけないこと」
俺は固まった。
「昨日の?」
「……ええ」
凛音も少し赤くなる。
やはり、彼女の中にも残っていた。
「変なことではないかもしれないけれど」
「うん」
「大事な話なら、体調が完全に戻ってから」
「もうほぼ戻った」
「ほぼ、ではだめ」
「凛音は厳しいな」
「逃げているわけではないわ」
凛音はまっすぐ俺を見た。
その目は、少し揺れていた。
「ちゃんと聞きたいから」
俺は何も言えなくなった。
ちゃんと聞きたい。
それは、逃げではない。
むしろ、向き合うための準備だった。
「わかった」
俺は頷いた。
「ちゃんと治す」
「ええ」
「それで、ちゃんと言う」
凛音の頬が赤くなる。
「……うん」
その小さな返事だけで、胸がいっぱいになった。
◇
夕食は、普通の食事に戻った。
鶏肉の照り焼き。
味噌汁。
サラダ。
白いご飯。
ただし、凛音いわく「病み上がり調整版」なので、味は少し控えめだった。
「もう普通でいいのに」
「普通に戻すのは段階的に」
「ほんと管理が細かい」
「看病後の経過観察」
「まだ続いてるのか」
「続いているわ」
「じゃあ、凛音はまだ看病中?」
凛音は箸を止めた。
「……そうね」
「じゃあ、看病のお礼もまだ増える?」
「増やさなくていい」
「でも、外食は決まってるだろ」
「それは……看病のお礼と快気祝い」
「いつ行く?」
「高坂くんが完全に治ってから」
「明日、熱がなければ?」
「検討」
「検討か」
「前向きに」
「それはもう、かなり行くやつだ」
凛音は目を逸らした。
「……行き先を考えておく」
「甘すぎないもの?」
「ええ」
「喫茶店?」
「候補」
「楽しみだな」
凛音は照れたように味噌汁を飲んだ。
食後、俺は片づけを少しだけ手伝った。
凛音は「皿を一枚ずつ」「ゆっくり」「無理しない」と何度も言った。
まるで割れ物を運ぶように扱われている。
でも、それが嫌ではない。
心配されるのは申し訳ない。
けれど、凛音が俺を大事に扱ってくれているのがわかるから。
皿洗いが終わると、二人でリビングに座った。
いつもの同居契約ルールの紙が、テーブルの端にある。
凛音がペンを持つ。
「また追加?」
「今回で最後にしたいけれど」
「何を書くんだ?」
凛音は少し考えてから、丁寧に書いた。
『看病後も、しばらく無理をしない』
『心配されたら、なるべく素直に受け取る』
俺はそれを見て、少し笑った。
「俺向け?」
「主に」
「主にってことは、凛音にも?」
「……私も」
凛音は小さく認めた。
「凛音も、心配されたら素直に受け取る?」
「努力する」
「じゃあ、今日は早く休んで。看病で疲れてるだろ」
凛音はペンを置いた。
「……それは」
「心配してる」
「私は平気」
「素直に受け取るルール」
俺が紙を指差すと、凛音は言葉に詰まった。
自分で書いたルールに捕まった顔だった。
「……わかった」
「よし」
「高坂くん、少し意地悪」
「元気になったから」
「病み上がりなのに」
「もう元気」
「九割」
「信用?」
「ええ」
「あと一割、遠いな」
凛音はほんの少し笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
もう我慢できない。
好きだと言いたい。
この人が好きだ。
朝ご飯を作ってくれるところも、心配しすぎるところも、すぐ耳が赤くなるところも、ルールを書いて自分で引っかかるところも。
全部。
でも、今じゃない。
彼女がちゃんと聞く準備をして、俺が完全に治って、二人とも逃げないと決めたとき。
そのときに言う。
たぶん、それはもうすぐだ。
◇
夜。
俺は早めに部屋へ戻った。
凛音が信用を十割に戻す条件として「早く寝ること」を提示したからだ。
布団に入り、目を閉じる。
体はもう楽だった。
でも、頭は冴えている。
眠れない。
病み上がりのせいではない。
凛音のことを考えているからだ。
しばらくして、廊下で小さな音がした。
足音。
聞き慣れた、控えめな足音。
凛音だ。
いつもなら、俺が寝たふりをする時間だった。
でも今日は違う。
俺は起きている。
そして、寝たふりをする気にはなれなかった。
足音が、部屋の前で止まる。
しばらく沈黙。
凛音は、たぶん迷っている。
扉の向こうで、呼吸を整えているような気配。
俺はベッドから上体を起こした。
「凛音」
扉の向こうで、彼女が息を呑む気配がした。
「入っていいよ」
沈黙。
長い沈黙。
そして、扉の向こうから小さな声がした。
「……起きていたの?」
「うん」
「寝ていないと、信用が十割にならないわ」
「それは困るな」
「困るなら、寝て」
「でも、凛音が来たから」
また沈黙。
ドアノブが、ほんの少し動いた。
けれど、まだ開かない。
「高坂くん」
「うん」
「今日は」
凛音の声が震えていた。
「寝ている高坂くんじゃなくて」
俺は息を止めた。
扉の向こうで、彼女が小さく息を吸う。
「……起きてる高坂くんに、会いに来た」
その言葉で、俺の中の何かが静かにほどけた。
もう、寝たふりはいらない。
知らないふりも、たぶん少しずついらなくなる。
俺はベッドから降りて、扉の方へ歩いた。
そして、扉越しに言った。
「じゃあ、ちゃんと会おう」
今度は、俺たちは逃げない。
たぶん。
まだ少し怖いけれど。
それでも、この夜は確かに、今までと違う場所へ続いていた。




