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『「絶対に好きにならないでね」と契約結婚したはずのクールな美少女妻が、毎晩俺の寝顔にキスしているのを知っているのは俺だけだ。〜両片思いのジレジレ甘々同棲生活〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第29話 治りかけが一番危ない

 熱が下がった翌朝、人間は少しだけ調子に乗る。


 少なくとも俺は乗った。


 体温は三十六度五分。


 喉の痛みもほとんどない。


 体のだるさも昨日よりずっと軽い。


 これはもう、ほぼ復活と言っていいのではないか。


 そう思いながらリビングへ出ると、キッチンにいた凛音が振り返った。


「おはよう、高坂くん」


「おはよう。今日、学校行けそう」


 言った瞬間、凛音の目が細くなった。


 しまった。


 第一声を間違えた。


「高坂くん」


「はい」


「昨日、何を約束した?」


「無理しない」


「では、今日の登校は?」


「……要相談」


「休み」


「即決?」


「即決」


「熱は下がったぞ」


「治りかけが一番危ないって、昨日も言ったわ」


「昨日も聞いた」


「今日も言うわ」


 凛音は小鍋の火を止め、こちらに向き直った。


 制服ではなく、家用のカーディガン姿だった。


 今日は土曜日ではない。学校がある日だ。


 けれど凛音は、まだ登校の準備を終えていない。


「凛音、学校は?」


「少し遅れて行く」


「え?」


「朝の状態を確認してから行く予定にした」


「そこまでしなくても」


「高坂くんの『そこまでしなくても』は、信用できない」


「まだ信用戻ってないのか」


「七割」


「昨日より増えた」


「今日、登校しようとしたことで少し下がった」


「減点方式なのか」


「健康管理は厳格に行うべき」


 凛音は真面目だった。


 真面目すぎて、反論する気が少しずつ削られていく。


 テーブルには朝食が並んでいた。


 柔らかめのご飯、味噌汁、湯豆腐、甘さ控えめの卵焼き、ほうれん草のおひたし。


 病人食から通常食へ、ゆっくり戻している感じだ。


「今日も優しい朝食だな」


「病み上がり用」


「卵焼きは?」


「少し甘め」


「俺のため?」


 言ったあと、自分で少し驚いた。


 体調が戻ってきたせいか、余計なことを言う余裕も戻ってきている。


 凛音は箸を持つ前から固まった。


「……病み上がりでも、意地悪」


「ごめん」


「謝らなくていいけど」


「嬉しいから困る?」


「今日は、少しだけ」


 凛音はそう言って、目を逸らした。


 その返事に、今度は俺が固まる。


 少し前なら、彼女はそんなふうに認めなかった。


 嬉しいから困る。


 その言葉はよく言っていたけれど、今日みたいに柔らかく受け止めることは少なかった気がする。


 看病されている間に、俺たちの距離は確実に変わってしまった。


 変わった、というより。


 もう戻れなくなっている。


「高坂くん」


「ん?」


「顔が赤い」


「熱かな」


「測る?」


「冗談です」


「冗談で体調不良を使わない」


「はい」


「はいは一回」


「はい」


 いつものやり取りが戻ってくる。


 けれど、いつもより少し甘い。


 朝食を食べながら、凛音は何度も俺の様子を確認した。


「味はわかる?」


「わかる」


「喉は?」


「平気」


「食欲は?」


「ある」


「眠気は?」


「少し」


「なら、朝食後は横になって」


「勉強は?」


「午後、体調が良ければ一時間まで」


「管理が厳密だな」


「高坂くんが無理をするから」


「そこまで無理した覚えは」


 言いかけて、玄関でふらついたことを思い出した。


 反論できない。


 凛音はそれを見て、小さく頷いた。


「自覚があるなら、よろしい」


「完全に先生だな」


「病み上がり用特別規定」


「その規定、いつまで続く?」


「完全に治るまで」


「明日には?」


「様子を見て」


「来週には?」


「行動次第」


「俺の信用点、なかなか戻らないな」


「健康は積み重ね」


 凛音は淡々と言った。


 けれどその目は、ちゃんと心配していた。


 それがわかるから、俺はもう素直に従うしかない。


     ◇


 凛音は朝食の片づけを終えると、俺をソファへ座らせた。


 座らせた、という表現で合っている。


 自分の意思で座ったというより、凛音の無言の圧で座るしかなかった。


「私は二時間目から行くわ」


「本当に悪いな」


「悪くない」


「でも」


「必要だと思ったから、そうしただけ」


「凛音が学校で困らない?」


「困らないわ。連絡はしてある」


「そうか」


「高坂くんは、私の心配より自分の体調を心配して」


「それは難しいな」


「なぜ?」


「凛音も昨日まで看病で疲れてるだろ」


 凛音は少しだけ黙った。


「……少し眠いだけ」


「ほら」


「でも、倒れるほどではない」


「そこ基準にするのは危ない」


「高坂くんに言われたくない」


「たしかに」


 二人で小さく笑った。


 凛音はソファの横に、スポーツドリンクと体温計を置く。


「十時半に水分補給」


「はい」


「昼前に検温」


「はい」


「スマホは見すぎない」


「はい」


「寝られるなら寝る」


「はい」


「はいは一回」


「今のは項目ごとの返事だろ」


「……それは、まあ」


 珍しく凛音が少し負けた。


 俺が笑うと、彼女は軽く眉を寄せる。


「元気が出てきたわね」


「おかげさまで」


「調子に乗らない」


「はい」


「一回」


「はい」


 凛音は鞄を持った。


 玄関へ向かう前に、ふと足を止める。


「高坂くん」


「ん?」


「今日、帰ったら……外食の話、少し決めましょう」


 俺は顔を上げた。


「看病のお礼と快気祝いの?」


「ええ」


「いいのか?」


「高坂くんがちゃんと休んで、熱が上がらなかったら」


「条件付きか」


「条件付き」


「じゃあ、今日は全力で休む」


「全力で休むという言い方は変だけど、方針は正しいわ」


 凛音は少しだけ口元を緩めた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 玄関の扉が閉まる。


 部屋が静かになった。


 俺はソファに背中を預け、天井を見上げる。


 外食の約束。


 ただのお礼。


 ただの快気祝い。


 そう言い訳はいくらでもできる。


 でも、俺はもう楽しみで仕方なかった。


     ◇


 休むというのも、案外難しい。


 凛音に言われた通り、午前中は横になった。


 十時半に水分を取り、昼前に熱を測る。


 三十六度六分。


 問題なし。


 その結果を送ると、凛音からすぐ返信が来た。


『良いです』


『褒められた?』


『油断しなければ』


『今日の俺は優秀』


『調子に乗らないでください』


『はい』


『はいは一回』


『はい』


 学校にいるはずなのに、返信が早い。


 休み時間を待っていたのだろうか。


 それとも、俺の体温報告を気にしてくれていたのだろうか。


 後者だと思うと、胸が温かくなる。


 昼食は、凛音が用意しておいたうどんだった。


 鍋に入れて温めるだけ。


 具は卵と少しの鶏肉、ねぎは別添え。


 手順のメモまであった。


『火を使う時間は短く』


『無理そうなら食べずに連絡』


『吹きこぼれ注意』


 俺は苦笑しながら、その通りに温めた。


 うまい。


 優しい味。


 やっぱり落ち着く。


 食べ終えて薬を飲み、少し横になった。


 気づけば、一時間ほど眠っていた。


 起きたとき、体はさらに軽くなっていた。


 これはかなり回復している。


 俺はリビングで軽く課題を開いた。


 一時間まで、という凛音の指示を守りながら。


 時計を見て、五十五分で閉じる。


 自分でも、ずいぶん素直になったと思う。


 凛音に怒られたくない、というより。


 心配させたくなかった。


     ◇


 放課後より少し早い時間に、スマホが震えた。


『これから帰ります』


『早くない?』


『今日は早く終わりました』


『本当に?』


『白川さんに早く帰れと言われました』


 俺は少し笑った。


 白川さん、たぶんかなり察している。


『佐野にも言われた?』


『佐野くんには会っていません』


『佐野は俺に「ちゃんと寝てるか」って送ってきた』


『良い友人ですね』


『うん。ちょっとうるさいけど』


『白川さんも少しうるさいです』


『でも良い友人?』


 少し間が空く。


『はい』


 その返事を見て、俺はなんだか嬉しくなった。


 凛音が友人のことをそう言うのは、少し前なら想像しにくかった。


 彼女の世界が、少しずつ開いていく。


 その中に俺がいるのなら、こんなに嬉しいことはない。


 玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま」


「おかえり」


 リビングに入ってきた凛音は、俺を見てまず目を細めた。


「ソファに座っている」


「横になるのに飽きた」


「熱は?」


「三十六度六分」


「今も測る」


「帰宅時確認?」


「ええ」


 俺は大人しく体温を測った。


 三十六度五分。


 凛音は表示を見て、ようやくほっとした。


「安定しているわね」


「だろ?」


「調子に乗らない」


「言うと思った」


「言うわ」


 凛音は鞄を置き、キッチンへ向かおうとする。


 俺は声をかけた。


「凛音」


「何?」


「今日は夕飯、俺も少し手伝う」


「却下」


「座ってできる作業だけ」


「却下」


「野菜の皮むきとか」


「却下」


「却下しかないのか」


「病み上がりだから」


「じゃあ、せめてテーブル拭く」


「……それくらいなら」


「やった」


「ただし、ゆっくり」


「了解」


 俺が立ち上がると、凛音はすぐにこちらを見る。


「ふらつかない?」


「大丈夫」


「本当に?」


「本当に」


「信用七割」


「まだ七割か」


「今日の行動次第で八割」


「頑張る」


「頑張りすぎない」


「難しいな」


 凛音は少しだけ笑った。


 その笑顔を見るだけで、体調がさらに良くなった気がした。


     ◇


 夕飯は、野菜たっぷりの雑炊だった。


 俺はテーブルを拭き、箸を並べるという大役を任された。


 大役と言うと、凛音に「大げさ」と言われた。


「いただきます」


「どうぞ」


 雑炊は、昨日までのお粥より具が多い。


 にんじん、白菜、鶏肉、卵。


 味は優しいが、ちゃんと満足感がある。


「うまい」


「よかった」


「これ、病み上がりじゃなくても食べたい」


 凛音の手が止まる。


「……作るわ」


「本当?」


「食べたいなら」


「じゃあ、また作ってほしい」


「うん」


 返事が自然だった。


 凛音自身もそれに気づいたのか、少し頬を赤くする。


 でも取り消さない。


 そういう小さな変化が、最近とても嬉しい。


「凛音」


「なに?」


「看病、大変だった?」


 凛音はスプーンを置いた。


「大変ではなかった」


「本当に?」


「心配ではあったけど」


「……そっか」


「高坂くんが玄関でふらついたときは、かなり」


「悪かった」


「本当に」


「うん」


「でも、よくなってよかった」


 その声が、思った以上に柔らかくて。


 俺は少しだけ視線を落とした。


「ありがとう、凛音」


「何度も聞いた」


「何度でも言う」


「……そういうところ」


「ずるい?」


「少し」


「少しか」


「今日は少し」


 凛音は雑炊を一口食べる。


 その横顔を見ていると、熱があった夜のことを思い出した。


 手を握っていたこと。


 凛音がずっとそばにいてくれたこと。


 寝言で名前を呼んだこと。


 まだ、彼女は全部を教えてくれたわけではない。


 でも、あの夜が俺たちの距離を変えたのは確かだった。


「俺」


 気づいたら、口が動いていた。


「凛音のこと……」


 言いかけた瞬間、喉の奥がむずっとした。


「……こほっ」


 咳が出た。


 軽い咳だった。


 しかし凛音の反応は速かった。


「高坂くん」


「大丈夫。ただの」


「水」


 すぐにコップを差し出される。


 俺は受け取って飲んだ。


 咳はすぐに落ち着いた。


「大丈夫だって」


「今、咳をした」


「一回だけ」


「治りかけが一番危ない」


「またそれ」


「何度でも言うわ」


 凛音は真剣だった。


 そして、さっき俺が何を言いかけたのかには触れなかった。


 触れないでくれたのか。


 気づかなかったのか。


 たぶん、前者だと思う。


 彼女は俺をじっと見て、それから少しだけ視線を落とした。


「高坂くん」


「うん」


「そういう大事そうな話は」


「うん」


「完全に治ってからにして」


 胸が鳴った。


 やっぱり気づいていた。


「……わかった」


「今は、治すこと優先」


「そうだな」


「私も、聞く準備が必要だから」


 凛音は最後の一言を、ほとんど自分に言い聞かせるように言った。


 俺はスプーンを持ったまま、何も言えなくなった。


 聞く準備。


 それは、俺が何を言おうとしていたのか、彼女が察しているということだ。


 そして、いつか聞くつもりでいてくれるということでもある。


 俺はゆっくり頷いた。


「ちゃんと治す」


「ええ」


「凛音に心配かけないように」


「もうかなりかけられたけど」


「これ以上は」


「なら、今日は早く寝る」


「はい」


「はいは一回」


「はい」


 いつものやり取りに戻る。


 でも、戻りきってはいなかった。


 言いかけた言葉は、二人の間に残っている。


 俺、凛音のこと……。


 その先を言う日は、たぶん遠くない。


 そう思うだけで、咳とは別の理由で胸が苦しくなった。


     ◇


 食後。


 凛音は片づけを一人でしようとしたが、俺はテーブルの皿を運ぶだけ手伝った。


 それだけでも「ゆっくり」と三回言われた。


 ソファに座ると、凛音が同居契約ルールの紙を持ってきた。


「また追加?」


「病み上がり用」


「まだ増えるのか」


「必要だから」


 凛音はペンを持ち、真剣な字で書いた。


『治りかけに無理をしない』


『大事な話は、体調が完全に戻ってから』


 俺は二行目を見て、少しだけ呼吸が止まった。


「それもルールにするのか」


「必要」


「誰に?」


「……二人に」


 凛音は小さく言った。


 俺はその文字を見つめる。


 大事な話は、体調が完全に戻ってから。


 先送りのようで、そうではない。


 逃げではなく、約束に近い。


「じゃあ、完全に治ったら」


 俺が言うと、凛音はペンを置いた。


「そのときは」


「うん」


「ちゃんと、聞く」


 声は小さかった。


 でも、はっきりしていた。


「俺も、ちゃんと言う」


 凛音は耳を赤くしながら、こくりと頷いた。


 その夜、俺は凛音に言われた通り、早めに布団へ入った。


 熱はもうほとんどない。


 体は軽い。


 けれど胸の奥だけは、ずっと落ち着かなかった。


 病み上がりが危ないのは、きっと体だけではない。


 心の方も、たぶん同じだ。

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