第28話 看病のお礼は、休日の約束
翌朝、熱は三十六度七分まで下がっていた。
体温計の表示を見た瞬間、俺は心の中で小さく勝利宣言をした。
勝った。
風邪に勝った。
いや、完全勝利にはまだ早いのかもしれないが、昨日より体はかなり軽い。喉の違和感も残ってはいるものの、痛いというほどではない。
俺は体温計の画面を写真に撮り、凛音へ送った。
『36.7』
すぐ既読がついた。
凛音は今、キッチンにいる。つまり同じ家の中だ。にもかかわらず、熱の報告はメッセージで送ることになっている。
理由は、凛音いわく「記録が残るから」。
徹底している。
数秒後、返信が来た。
『下がりましたね』
『かなり楽』
『まだ油断しないでください』
『はい』
『はいは一回』
『はい』
いつものやり取り。
俺は少し笑って、ベッドからゆっくり起き上がった。
立ち上がっても、昨日のようなふらつきはない。
ただ、まだ体の芯に重さは残っている。
完治まではもう少し。
そんな感じだった。
リビングへ行くと、凛音が朝食の準備をしていた。
今日はお粥ではなく、柔らかめに炊いたご飯と味噌汁、湯豆腐、卵焼き。
胃に優しそうだが、昨日よりは少し通常食に近い。
「おはよう」
俺が声をかけると、凛音は振り返った。
「おはよう、高坂くん」
「熱、見た?」
「見たわ」
「もう学校行けるんじゃないか?」
言った瞬間、凛音の目が細くなった。
しまった。
これは言うべきではなかった。
「高坂くん」
「はい」
「昨日、何を言われたか覚えている?」
「油断するな」
「正解」
「でも熱は下がったし」
「熱が下がった直後が一番危ない」
「そうなのか?」
「そう」
「根拠は?」
「無理をする人がいるから」
凛音はじっと俺を見た。
完全に俺のことだった。
「今日は?」
「休む」
「まだ何も言ってない」
「言う前に答えた」
「偉いわ」
「子ども扱い?」
「病み上がり扱い」
凛音はそう言って、椅子を引いた。
「座って。朝食を食べて、薬を飲んで、午前中は横になること」
「午前中全部?」
「全部」
「勉強は?」
「午後、体調が良ければ少しだけ」
「厳しいな」
「看病」
昨日から、凛音は「生活管理」ではなく「看病」と言うようになった。
その響きが、まだ少し胸に残る。
俺は椅子に座り、手を合わせた。
「いただきます」
「どうぞ」
味噌汁を一口飲む。
温かい。
体にしみる。
湯豆腐も、卵焼きも、全部やさしい味だった。
「うまい」
自然に言うと、凛音の箸が少しだけ止まった。
「味、ちゃんとわかる?」
「わかる。昨日よりはっきり」
「なら、少し安心」
「昨日も言ったけど、凛音のご飯は落ち着く」
凛音は今度こそ完全に止まった。
顔は平静を保っているつもりなのだろうが、耳が赤い。
「……病み上がりでも、そういうことを言うのね」
「病み上がりだから、素直なんだと思う」
「それは困る」
「嬉しいから?」
「……そう」
小さく認めた。
それだけで、俺は朝から少し胸がいっぱいになった。
凛音は昨日よりも逃げない。
照れてはいる。
困ってもいる。
それでも、ちゃんと受け取ってくれる。
この数日の看病で、距離が一気に縮まった気がした。
ただし、そのぶん危険でもある。
俺はまだ、肝心な言葉を言っていない。
凛音もまだ、あの「好きな人」が誰なのか言っていない。
けれど、互いにわかっているような空気だけが濃くなっている。
これはかなり、じれったい。
◇
朝食後、俺は凛音の指示通り薬を飲み、部屋へ戻った。
凛音は学校へ行く準備をしている。
昨日も今日も、彼女は学校へ行きながら俺の看病をしてくれている。
俺が休んでいる間も、昼休みにメッセージを送り、放課後には急いで帰ってきてくれた。
ありがたい。
でも、同時に申し訳ない。
「凛音」
玄関へ向かう彼女を呼び止めると、凛音は振り返った。
「何?」
「無理するなよ」
「それは高坂くんの台詞ではないと思う」
「俺の信用、まだ戻ってない?」
「半分くらい」
「昨日より増えたな」
「熱が下がったから」
「じゃあ、今日一日ちゃんと寝たら?」
「七割」
「満点遠いな」
「満点は、完治してから」
凛音は真面目に言った。
俺は少し笑った。
「行ってらっしゃい」
そう言うと、凛音は一瞬だけ目を伏せた。
そして、小さく返す。
「行ってきます」
いつものやり取り。
けれど今日は、少しだけ違った。
凛音が玄関を出る前に、もう一度こちらを見た。
「昼に熱を測って」
「わかった」
「水分も」
「わかってる」
「スマホを見すぎない」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
彼女は少し安心したように頷き、それから出ていった。
扉が閉まる。
部屋が静かになる。
俺は自分の部屋に戻って、ベッドに横になった。
眠れるかどうかはわからない。
でも目を閉じるだけでも違うと、凛音が言っていた。
言われた通りにする。
それだけで、なんだか凛音が近くにいるような気がした。
◇
昼。
熱は三十六度六分。
ほぼ平熱だった。
報告すると、凛音からすぐに返信が来た。
『良い傾向です』
『もう治ったのでは』
『まだです』
『厳しい』
『治りかけが一番危ないです』
『昨日も言われた』
『何度でも言います』
俺はベッドの上で笑った。
そのあと、少し迷ってから送る。
『凛音、昼食べた?』
既読がつくまで、少し間があった。
授業の合間かもしれない。
やがて返信。
『食べました』
『ちゃんと?』
『高坂くんに言われたくありません』
『看病疲れしてないか心配で』
また少し間が空いた。
『していません』
『本当に?』
『少しだけ眠いです』
正直だった。
俺は胸が痛くなる。
『帰ったら休んで。夕飯は俺が作る』
すぐに返信が来た。
『却下』
『なぜ』
『病み上がりだから』
『座ってできることなら』
『却下』
『厳しい』
『看病です』
完全に勝てない。
でも、そこで終わりではなかった。
少しして、もう一通来た。
『でも、気遣いは受け取りました』
俺はその一文を何度か見返した。
気遣いは受け取った。
凛音らしい言い方だ。
でも、ちゃんと受け取ってくれた。
それが嬉しかった。
◇
放課後、凛音は昨日より少し早く帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
俺はリビングのソファに座っていた。
寝てばかりで体が固まったので、少しだけ起きていたのだ。
凛音はリビングに入るなり、すぐに俺を見た。
「横になっていなくていいの?」
「熱もないし、少しだけ」
「何分?」
「十五分くらい」
「なら、まだ許容範囲」
「許可制なんだ」
「病み上がりなので」
凛音は鞄を置き、手を洗ってから俺の前に来た。
「熱」
「さっき測った。三十六度六分」
「今も」
「また?」
「帰宅時の確認」
「細かいな」
「看病」
俺は大人しく体温を測った。
三十六度七分。
問題なし。
凛音はそれを確認して、ようやく少し肩の力を抜いた。
「よかった」
その声があまりにも本音で、俺は胸がじんとした。
「心配かけたな」
「本当に」
「ごめん」
「謝るより、完治して」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
凛音はキッチンへ向かいかけたが、その足取りが少しだけ重く見えた。
やっぱり疲れている。
学校へ行って、俺の体調を気にして、帰ってきて看病する。
平気なわけがない。
「凛音」
「何?」
「夕飯、簡単でいいから」
「そのつもり」
「本当に簡単で」
「お粥の残りを少しアレンジするだけ」
「なら俺が」
「却下」
「まだ言い切ってない」
「言い切る前に却下」
「強い」
凛音は少しだけ口元を緩めた。
「高坂くんは座っていて。できれば、何もしないで」
「何もしないのも落ち着かないんだけど」
「なら、今日の検温結果をメモして」
「それは仕事?」
「病人でもできる仕事」
「わかった」
俺はスマホのメモに今日の体温をまとめた。
朝、三十六度七分。
昼、三十六度六分。
夕方、三十六度七分。
それを凛音に見せると、彼女は真剣に頷いた。
「安定しているわね」
「医者みたいだな」
「患者が無理をするので」
「また信用の話か」
「完治したら少し戻す」
「少し?」
「八割くらい」
「満点は?」
「今後の行動次第」
厳しい。
でも、こうして細かく気にしてくれることが、もう嬉しかった。
◇
夕飯は、鶏そぼろと卵のお粥だった。
昨日よりさらに通常食に近く、でもまだ優しい。
凛音は自分の分には普通のご飯を用意していたが、途中で少し眠そうに瞬きをした。
「凛音」
「何?」
「眠い?」
「眠くない」
「今の返事は眠い人のやつ」
「……少しだけ」
「食べたら休んで」
「高坂くんを寝かせてから」
「俺は子どもか」
「病み上がり」
「便利だな」
「便利ではなく正確」
いつもの返し。
でも、今日は少し力が抜けている。
やっぱり疲れているのだろう。
俺はお粥を食べながら、昨日の話を思い出した。
治ったら、お礼に何かしたい。
凛音の好きなものを食べに行く。
凛音は「考えておく」と言った。
今なら、もう少し具体的に話せるかもしれない。
「凛音」
「なに?」
「昨日言ってた看病のお礼の話」
凛音の箸が止まった。
「……覚えていたの?」
「もちろん」
「熱で忘れたかと思った」
「そこまでぼんやりしてない」
「寝言は覚えていなかったのに」
「それは別だろ」
言った瞬間、凛音の耳が赤くなった。
寝言の話は、まだ危険らしい。
俺も少し恥ずかしくなる。
「それで、何か考えた?」
「看病のお礼は、いらないわ」
「それは昨日も聞いた」
「なら、答えは同じ」
「でも俺がしたい」
「高坂くんは病み上がり」
「治ってからって言っただろ」
「……それは」
「次の休日とか。無理なら、その次でもいい」
「外食?」
「凛音が嫌じゃなければ」
「嫌とは言っていない」
凛音は視線を落とす。
この言い方は、かなり前向きなときのやつだ。
俺は少しだけ安心する。
「何食べたい?」
「急に聞かれても」
「甘いものとか?」
「……甘すぎないもの」
「ビスケットじゃなくて、ちゃんと店で」
「店」
「喫茶店とか。パンケーキは甘すぎるか」
「高坂くんは、病み上がりなのに話を進めるのが早い」
「病み上がりだから、楽しみを作っておきたい」
凛音は何も言わなかった。
でも、その表情が少しだけ柔らかくなった。
「……高坂くんは、何が食べたいの?」
「俺? 凛音のお礼だから、凛音の好きなもの」
「でも、高坂くんの快気祝いでもあるでしょう」
「快気祝いってほどじゃ」
「なら、両方」
「両方?」
「看病のお礼と、快気祝い」
「それ、ただの外食じゃないか?」
「……そうね」
凛音は少しだけ考えた。
「でも、外食は生活管理ではないわ」
「たまにはいいだろ」
「栄養バランスが」
「一食くらい」
「混雑が」
「時間を選べば」
「学校の人に会う可能性が」
「少し離れたところに行けば」
俺がひとつずつ返すと、凛音は黙った。
そして、少しだけ頬を赤くする。
「高坂くん」
「ん?」
「行かせようとしている?」
「凛音が嫌ならやめる」
「嫌とは、言っていない」
「じゃあ、行きたい?」
聞いた瞬間、凛音は箸を置いた。
真正面からは見ない。
けれど、逃げもしない。
「……行きたい」
小さな声だった。
でも、確かに聞こえた。
俺は心臓が強く鳴るのを感じた。
「そっか」
「ただし」
「ただし?」
「高坂くんが完全に治ってから」
「はい」
「無理をしたら延期」
「厳しい」
「看病のお礼なら、看病される側が治ることが条件」
「それは正しい」
「だから、今夜も早く寝ること」
「わかった」
凛音は少しだけ満足そうに頷いた。
俺はお粥を最後まで食べた。
食べ終わるころには、体調の重さよりも、次の休日の約束の方が頭の中で大きくなっていた。
◇
夜。
俺はいつもより早くベッドに入った。
凛音が部屋の前まで確認に来たからだ。
「本当に寝る?」
「寝る」
「スマホは?」
「もう置く」
「熱が上がったら?」
「測って連絡」
「水分は?」
「取った」
「薬は?」
「飲んだ」
「よろしい」
「先生みたいだな」
「病み上がり用特別規定」
「規定、増え続けてるな」
凛音は少しだけ笑った。
その顔は、昨日よりずっと柔らかい。
「凛音」
「何?」
「次の休日、楽しみにしてる」
凛音はドアの前で固まった。
「……まだ、行き先も決めていない」
「それでも」
「高坂くんは、病み上がりなのにずるい」
「病み上がり関係ある?」
「防御力が下がる」
「凛音の?」
「……そう」
認めた。
俺は驚いて、少しだけ笑った。
「じゃあ、早く寝るよ。これ以上ずるくならないように」
「そうして」
凛音はドアノブに手をかける。
「おやすみ、高坂くん」
「おやすみ、凛音」
名前を呼ぶと、彼女はやはり少しだけ肩を揺らした。
けれど逃げなかった。
そのまま小さく頷いて、扉を閉める。
俺は目を閉じた。
看病のお礼。
快気祝い。
外食。
名目はいくつもある。
でも、本当はたぶん。
ただ、凛音と一緒に出かける約束ができたことが、嬉しかった。
そしてそれは、きっと凛音も同じだと思いたかった。




