第五十九話
ヴェルシアスの両手から光が溢れた。
次の瞬間、それは波のように広がり、俺たちの体を静かに通り抜ける。
──お前は、記憶操作をされたことがあるのか? ──
ヴェルシアスが俺を見据えて言う。
俺は黙って頷いた。
──契約者よ。望みの変更を求める ──
世界が光に包まれたような状況の中で、ヴェルシアスがアシャンに言った。
「……どういうこと?」
──この人間は、契約者にとって必要な存在ではないのか? ──
「そうよ」
──過去に記憶操作をされた人間に、再び記憶操作をすると、稀に壊れることがある──
ヴェルシアスのその言葉に、アシャンが息を飲んだのがわかった。
「そんなのだめよ! 待って……レオを傷つけちゃだめ」
アシャンが戸惑いながら、俯いた。
……「俺を」傷つけては駄目、か。
「……わかったわ。じゃあ、私とレオを、」
「アシャン」
アシャンが言葉を言い終わる前に、声をかけた。
何かを恐れるような表情で、アシャンは俺に振り返った。
「君の望みはなに?」
「……私は、」
「平凡に、平穏に、暮らすことだろう? その力を覚えている限り、君はきっと怯えたり不安になることがある。そんな心配をしながら、君にこれからを生きてほしくない」
そこまで言って、ヴェルシアスの方を向いた。
「俺は壊れるわけにはいかない。だから俺以外の人間で、彼女の望みを叶えてほしい」
「レオ!」
悲鳴に近い声で、アシャンが俺の名を呼ぶ。
「……俺が君を忘れても、君は覚えていた。今度は俺の番だ。……君のすべてを、俺が覚えている」
しばらく、アシャンは動かなかった。
俺の胸に額を押しつけたまま、何も言わない。
ただ、俺の服を握る手が、少しずつきつくなっていくのがわかった。
震えているのか、堪えているのか。
……どちらでもいい。
アシャンはここにいる。
それだけで十分だ。
「あなたは、ばかよ……」
「今さら? 君が絡むと、俺はどうしようもなく愚かになる」
俺の胸に額を押しつけ、項垂れるアシャンの背を、しっかりと支える。
「ほら、君の精霊が困ってるんじゃないか?君の願いを、もう一度伝えないと」
そう言ってヴェルシアスを見ると、呆れたような表情で俺を見ていた。
──愚かだ。……だが、我の契約者を想う心は好ましい。契約者よ。この人間の言葉が最善であろう ──
その言葉に、アシャンは俺の服をキツく握りしめた。
アシャンは顔を上げ、俺を見てくる。
「大丈夫。君すら知らない君を知っているなんて、悪くない役目だ」
おどけるように言った俺に、アシャンはようやく小さく笑った。
そしてゆっくりと一度目を閉じ、小さく息を吐いた。
再び開いたダイヤモンドの瞳には、もう迷いはなかった。
「ヴェルシアス。私の願いを変えるわ。……レオ以外の全ての人間から、精霊師の記憶を消してちょうだい」
──承知した ──
その言葉と同時に、先ほどよりも強い光の奔流となって俺たちを貫いた。
直後、力を失ったアシャンの体が崩れ落ち、俺は咄嗟に抱きとめた。
徐々に光が収まり、元々の鉱石の光だけが空間に残った。
「……妙だな」
──妙とは何がだ? ──
雰囲気的には記憶操作は行われたはずだ。
「精霊師の記憶を消したなら、俺たちがここにいるのは不自然だ。……てっきり、里に戻されるものだと思っていた」
俺の言葉に、ヴェルシアスはわずかに目を細めた。
──王といえど万能ではない。物質を移すことまでは出来ぬ ──
「なら、この状況を彼女にどう説明する?」
精霊師であるということを忘れたのなら、アシャンにはもう、ヴェルシアスは見えないかもしれない。
そうなると、俺がこの状況を説明しなければいけない。
……滝の裏の奥にあるこの空間を、どう説明しろという。
「記憶操作は消すだけなのか?」
俺の言葉に、ヴェルシアスは顎を少し上げた。
──消すことも、植えつけることも出来る。もっとも、全く存在し得ぬ記憶は与えられぬ。可能性のある事象であれば、形に出来る ──
ヴェルシアスの言葉に、口の端を持ち上げた。
「なら提案だ。この不手際を帳消にしよう。その代わり、アシャンに一つだけ記憶を与えてくれ」
俺の言葉に、ヴェルシアスはピクリと眉を動かした。
──我に過ちなどない ──
「なら過ちではない。……これはアシャンのための提案だ」
ヴェルシアスは一瞬ムッとした顔をしたが、先を促すように顎を上げた。
「俺とアシャンは精霊契約のためにここに来た。でもその目的自体がなくなった、ってことだろう? それで一つ提案がある」
──勿体つけるな。早く言え ──
「ここへ来た理由は消えた。なら……結婚前に、焼けた故郷へ墓参りに来たことにしてくれ」
そう言った俺を、ヴェルシアスはじっと見つめてきた。
──結婚というのは、人間の契約ではないのか? ──
「契約というより、誓いだな」
──どう違う? ──
「契約は条件を交わすものだ。だが誓いは、相手に約束するものだ」
ヴェルシアスは、小さく唸るように呟いた。
──お前が契約者にとって、そこまでの存在かは判断しかねる ──
契約関係にあるからだろう。
ヴェルシアスはアシャンを第一に考えてくれる。
「これは証にならないか?彼女からもらったものだ。そして彼女の腕には、俺が贈ったものがある」
この台座にも、同じ系譜と思われる模様が刻まれている。
だからもしかしたらと思い、ヴェルシアスに腕輪を見せた。
ヴェルシアスがその腕輪を見つめる。
少しの沈黙の後。
──懐かしい紋様だ…… ──
目を細めそう言った。
──互いにつけ合い、契約したのか ──
「……契約? 互いの腕に着けたのは違いないが、そういうこともわかるのか?」
ヴェルシアスが静かに手をかざす。
直後、俺の腕輪から細い光が伸び、眠るアシャンの腕輪へと結ばれた。
──古代契約に用いられた紋様だ。互いに身につけることで成立する。人間の目には見えぬが、確かに繋がっている ──
つまり、この腕輪は本来そういうためのものだったのか。
──良かろう。お前の提案を受けてやる ──
腕輪の繋がりが、何よりの証となったらしい。
再びヴェルシアスが手をかざすと、アシャンの頭部に小さな光が表れ、程なくして消えた。
──これで契約者の願いは叶えられた ──
「……彼女の契約相手が境王で良かった」
俺の言葉に、ヴェルシアスの体が小さく反応した。
──人間にそう呼ばれるのも、悪くない──
「……契約者以外が名前で呼ぶのは畏れ多いだろう?」
──我の瞳を纏い生まれる人間は稀だ。故に、我を認識できる人間も数えるほどしかいなかった。お前に資格はない。だが、その在り方は嫌いではない ──
そう言ってヴェルシアスは、アシャンと同じ、ダイヤモンドの瞳を細めた。
「その目はどうなる? 宝石眼は消えるわけじゃないだろう?」
ふと疑問に思った。
今後精霊師が狙われることはなくとも、宝石眼は狙われるんじゃないのか?
──宝石眼は精霊師の証。その記憶が消えれば、象徴もまた記憶から消え去る ──
それはつまり、宝石眼は少し珍しいだけの瞳になるということ。
「……なら、安心だ」
そこで初めて、張りつめていた息を吐いた。




