第五十八話
いつからそこに在ったのか。
光が収まるより早く、台座の上に“それ”は立っていた ──いや、浮かんでいた。
その姿は淡く透け、輪郭すら光の中に溶けている。
二、三十代ほどの、整いすぎた容貌の男。
ただ ──その瞳だけが、アシャンと同じ色をしていた。
──我を求めし契約者は、お前か ──
耳からではなく、頭の中に直接響くような声が聞こえた。
「……あなたが、私と契約してくれるの?」
見上げながら言うアシャンの問いかけに、男はただ黙って見つめていた。
──その瞳を持つ者は、ずいぶん久しい ──
そして目を細め、アシャンを見た。
……ここが精霊師にとって神聖な場所だからだろうか。
それとも俺に精霊師の血が入っているからか……。
無関係なはずの俺にまで、その姿も声もはっきりと知覚できる。
それが、どこか不思議だった。
「あなたと、ずっと昔から私に話しかけてくれていた子たちは、何の精霊なの?」
四大元素からなる精霊。
水ならサファイア、火ならルビー。
精霊師は、契約する精霊の色を瞳に宿して生まれる ──そう文献にあった。
だから俺もずっと疑問だった。
なら、ダイヤモンドは何に属するのか。
──我は境界を司る者。契約者の周りにいる子供たちもそうだ ──
「境界を司る? ……境界って何の?」
俺と同じ疑問を抱えたらしいアシャンが、目の前の精霊に尋ねた。
──言葉通りだ。人が見ると決めたもの、見ぬと決めたもの。その境を司る。……我らは認識を統べる原初の存在 ──
精霊がそう言った直後、幾つもの光の粒が、ふっと弾けるようにアシャンの周囲に現れた。
その光がスーッと薄くなり、手のひらサイズの人間の姿をした存在が、アシャンの周りを忙しなく飛んでいた。
──あなたは私たちの王様の契約者!──
──あなたは私たちの大切なトモダチ ──
──王様にお願いして、ずっとあなたの側にいたの ──
「あなたたち、そんな姿をしていたのね」
アシャンが周囲にいる精霊に手を差し伸べた。
……今、あの精霊たちは「王」と言った。
つまり目の前の男は、境界を司る精霊王。
だからアシャンの瞳は、誰よりも澄みきったダイヤモンドの色をしていたのか。
その瞬間、精霊王の視線が俺を射抜いた。
──風の精霊師の血を継ぐ者よ。血があろうと、資格なき者に応じる精霊はおらぬ ──
精霊王は、俺を見ながらはっきりとそう告げた。
「俺は契約を望んでここに来たわけじゃない。力がほしいとも思っていない」
そう言った俺に、精霊王の口元が小さく動いたように見えた。
──我らに嘘は通用しない。力を望まぬ外部の人間もいるとはな──
その一言で、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
「前にこの子たちが、記憶に干渉をする出来事があったのだけど……。それはあなたたちが、境界を司る精霊だからなの?」
空気が少し和らいだところで、アシャンが口を開いた。
──火を灯せば木は燃える。火の精霊が干渉できるのは、その燃え広がる勢いまで。だが我らは、火を灯したという事実そのものを、忘れさせる存在だ ──
……火を灯すという原始的な行動すら忘れさせることができるとは。
想像していたよりも、はるかに根源に触れる力だ。
契約をしたからには、使い方を間違えてはいけないし、決して他人に知られることがあってはならない。
「それは誰に対してもできるってこと?」
──然り ──
「……そう。なら良かった」
アシャンは呟くように言った。
「良かった」……?
「境界を司る精霊王。あなたと契約するわ」
アシャンは精霊王をしっかりと見据えながら言う。
そして腰の小型ナイフで親指を裂き、滲んだ血を台座に押し当てた。
瞬間、空間が歪んだような感覚に襲われ、思わず目を細めた。
──契約は、成された ──
その言葉で目を見開くと、先程までとは違い、精霊王がはっきりと ──まるで俺たちと変わらない人間のような姿が見えた。
「さっそく、あなたの力を借りたいの」
──なんだ? ──
アシャンは大きく一つ、息を吸い込んだ。
「人の記憶に干渉できるあなたの力で、この世界の全ての人から精霊師の記憶を消してちょうだい」
「……は?」
アシャンの言葉に、思わず声が漏れた。
「もう二度と、あの悲劇は起こさせない。でも記憶が残る限り、脅威は消えない。だから……」
アシャンはもう一度、精霊王を真っ直ぐ見据えた。
「私を含む全ての人間の記憶から、精霊師の存在を消してほしいの。あなたにはその力があるのよね?」
咄嗟に言葉が出なかった。
……あの時エリオスが言っていた「成功すれば恐れずに生きられる」とは、このことか。
──契約早々、我が記憶すら消すというのか ──
それまではあまり表情を変えていなかった精霊王は、どこか憮然とした顔で言う。
「……あなたたちは、消えるわけじゃない。見えなくても、聞こえなくても、いつも側にいてくれる。私の表層の記憶が消えても、本当に必要なら、きっと思い出せるもの。それに……」
アシャンが俺を見て柔らかく笑う。
「……精霊師じゃなくても、私を好きでいてくれるでしょう?」
その言葉に、小さく笑った。
「もちろん。精霊師であろうがなかろうが、君が君であるから好きなんだ」
「……だから私に力を貸してほしいの」
俺の言葉に頷き、アシャンは揺るぎない瞳で精霊王を見据えた。
──我を喚び出すほどの力だ。記憶を消しても、感覚までは消えぬ。我が力ならば、契約者以外の記憶を消すこともできる ──
それは、己の存在を消されることへの抵抗にも聞こえた。
「……じじ様がずっと言ってたの。平穏に生きてほしい、って。それは私だけが特別に守られることではないわ」
アシャンがそう言った直後、精霊王は俺を見てきた。
……まさか俺に助けを求めているのか?
「俺には資格がない。止める力もない」
そう言った俺に、精霊王は眉をひそめた。
……精霊とは思えないほど、人間じみた表情だった。
小さく笑った俺とは対照的に、精霊王は息を吐いた。
──契約者の望み、叶えよう ──
「ありがとう。……あなたのことは精霊王と呼べばいいの?」
アシャンの言葉に、僅かに沈黙した。
──我は境王ヴェルシアス。……力を欲し、あるいは思い出した時は、名を呼べ ──
「そうね。力を求めなくとも、いつか思い出したなら……、ヴェルシアス。あなたの名前を呼ばせてもらうわ」
アシャンの言葉に、ヴェルシアスは微かに、だがしっかりと頷いた。
──では、精霊師の境界を閉じよう ──
その言葉と共に、ヴェルシアスの両手に光が集まった。




