第五十六話
渓谷を進んで三日目、昼過ぎ ──
鬱蒼と茂っていた木々が、ふと途切れた。
その先に、緑の草原が視界いっぱいに広がっていた。
「ここが……」
「うん。かつて俺が来た、精霊師の里だ」
俺がここを訪れたのは、確か十六、七歳の頃だった。
その頃はまだ焼け焦げた臭いと、朽ちた木々が俺を迎えていた。
それから八年の歳月を経たとはいえ、ここまで自然に満ちた場所になっているとは思わなかった。
「……思っていたよりも、緑豊かな場所ね」
「誰も足を踏み入れなかっただろうし……、自然に、こうなっていったのかもね」
それでも里の内部へ進むと、焼け焦げたまま放置された家屋から、消えきらない焦げ臭さが立ち込めていた。
近くの焼け焦げた建物の残骸に触れた瞬間、ポロポロと柱が崩れた。
「……かなり脆くなってる。あまり近づきすぎないように」
俺の言葉にアシャンは頷き、再び辺りに目を向けた。
「……ここ、なんとなく覚えてるわ……。確か、採れた野菜を並べた露店みたいなものがあったはず」
そう言いながら、崩れた建物の一つにアシャンは目を止めた。
「いつも母様に着いて、ここの野菜を家まで運んでいたわ。……でも……」
「でも?」
アシャンは、どこか寂しそうな顔をした。
「……私、父様の顔も、母様の顔も、……覚えてないの」
……里が滅ぼされたのは確か、十五、六年前のはずだ。
ならアシャンは五歳にもならない時の話のはず。
「ここに来ればもしかしたら思い出せるかも、って思っていたけど……。やっぱり駄目ね。母様に手を引かれた記憶はあるのに、顔までは思い出せないわ……」
仕方のないことだ、と言ってしまえばそれまでだ。
だが……。
本当に、それで済ませられる話だろうか。
どう声をかければいいのか分からないまま、俺はアシャンの肩にそっと手を置いた。
アシャンは俺を見て、すでに諦めがついているかのような、複雑そうな顔で小さく笑った。
それからしばらく歩き続けると、里の中心からやや外れた場所に出た。
そこに広がっていたのは ──
「……墓地、か?」
かなりの数の墓 ──とも呼べない、少し盛られた土の山に、木の枝が一本ずつ突き刺さっている場所だった。
……生き残ったのは子供だけで、大人は皆殺しにされた ──そんな話だったはずだ。
だが、今歩いてきた場所には遺体が一つもない。
かなりの歳月が経ち、白骨化していたとしても、そこかしこにあっておかしくない状況だったはずだ。
以前ここを訪れたときに、確かに何体かは見たが、今日はここに来るまで、何も見ていない。
それにこの墓も、これだけの数だ。
以前来た時に気づかないはずがない。
でも気づかなかったということは……。
「……誰かが、弔いに来たんだな」
かつて俺が訪れた後、例えばエリオスのような生き残りが、再び里を訪れ同胞を弔ったのではないか?
「そう、ね……。私もそう思うわ」
アシャンは跪き、一番手前の土に刺さった木の枝に、そっと手を伸ばした。
「きっとこのどこかに、父様たちも眠ってるのね……」
そうして、墓の前で胸に手を当てる。
それに倣うように、俺も右手を胸に当て、静かに目を閉じた。
さらに里の外れ、少し小高い丘の先へ進むと ──
「あの家だわ! じじ様とばば様の家!」
アシャンが、焼け残った一軒の家に駆け寄った。
「……誰も住んでいなかったから、あちこちが傷んでいて……入れそうにないわね」
残念そうに眉を下げ、アシャンは言った。
「中に入りたかった?」
「まぁ……、少し……。でも仕方ないわ」
「……中には入れないけど、せっかくだし今日はここにテントを張ろうか」
そう言うとアシャンは力強く頷いた。
「……じじ様とばば様も、この景色を見ていたのかしら?」
少し見下ろした里に落ちる夕焼けが、焼け落ちた家に色を与えていた。
「ばば様が、ここの景色は本当に綺麗だった、って言ってたわ」
まるで焼けた過去などなかったかのような、柔らかな黄昏色に包まれた里。
止まっていた時が、再び動き出したかのような錯覚に陥る。
「今の俺たちみたいに、二人で見ていたのかもね」
夕陽に照らされたアシャンの瞳は、炎のような赤を帯びて、静かに揺れていた。
「あなたに、聞きたいことがあるの」
火を起こし、夕飯を食べている最中。
アシャンが、どこか聞きにくそうに口を開いた。
「レオは……、私に力を使ってほしくないって言ったでしょう? でももし、私が……例えば一方的に力を使ってしまったら……あなたはどうする?」
俺を見てくるアシャンの瞳は、ひどく不安そうに揺れていた。
「……別に、どうもしないんじゃないかな?」
俺の言葉に、アシャンは驚いたように目を大きくさせた。
「前も言ったと思うけど……。君は悪いことには使わないだろう? 少なくとも俺が知ってる君ならね。その君が一方的に力を使わざるを得なかったなら、それだけ危険だったか、あるいは ──」
「……あるいは?」
少し身を乗り出して、アシャンは聞いてくる。
「あるいは、ものすごく考え抜いた末のことだと思うから……。君が考えて決めたことなら、俺はどうもしないと思うよ」
不意に視線を逸らし、アシャンは何かを考えるような素振りを見せた。
「でも欲を言えば、その行動が、誰かのためじゃなく、君のためになることだと嬉しいとは思うけどね」
そう言った俺に、アシャンは困ったように、けれど少し安堵したように微笑んだ。
「あなたは……どんな私でも、好きでいてくれそうだわ」
呟くようにアシャンは言う。
「それは当たり前だろう? 逆に聞くけど、君は俺が……そうだな、例えばものすごく太ってしまったら、好きじゃなくなるのかな?」
「私は、あなたの見た目を好きになったんじゃないわ!」
すぐさまアシャンは否定の声を上げた。
……アシャンの見た目も好きになった俺としては、複雑な言われ方だ。
「あなたがすごく太ろうが、ヨボヨボのおじいさんになろうが、レオであることに変わらないじゃない。そんなことで好きがなくなったりしないわ」
何言うの、とでも言いそうな勢いでアシャンは言う。
……一応、見た目が良いと言われた経験がある俺としては、アシャンの全否定な言い方に、やっぱり少し引っかかるところはある。
……が。
「それと同じだよ。俺も、どんな君でも好きでいると思うよ」
笑いながら言う俺を見て、はにかむような顔を見せたアシャンに、さっきの小さな引っかかりは胸にしまった。




