第五十五話
渓谷に向かってしばらく進んだ頃、異変に気づいた。
精霊師ではない俺でも、はっきりと感じられる。
周囲には、苔むした岩が点在している。
木々は静かに立ち並び、葉が風に揺れる音だけが聞こえる。
「すごく不思議な感じがする場所だわ……」
明らかにそれまでとは空気が変わった。
冷涼感、という言葉がしっくりくる澄んだ空気が、体を包み込んでいる。
「不思議ってどんな?」
「そう、ね……。例えるなら、ここにいるのに、なんだかふわふわ浮いているような感じというか……」
アシャンには俺とはまた違った感覚があるようだ。
「やっぱり里が近いから?」
「たぶん……。あの子たちがすごく、ソワソワというかウキウキというかしてて、騒がしいのになんだか静かなの」
騒がしいのに静かって、どういうことだと思うが、恐らくその矛盾が出るような不思議な感覚と言うことだろう。
「……少なくとも道に迷って途方に暮れることはなさそうだな」
俺の言葉にアシャンが少し首を傾げた。
「里までの道が今も変わらずあるとは思っていなかったんだ。……でもこの感覚のする方に向かえばいいってことだろう?」
その言葉に、アシャンは「そうね」と頷いた。
精霊師の里に近づくということは、それだけ危険が伴う可能性もあると思っていた。
だが実際は、例えるなら聖域に足を踏み入れるようなこの感覚を、万人が受けるのであれば、容易に近づける人間はいないのではないか?
かつては滅ぼされるほどの侵略を受けたが、かなり計画的でなければ、この地に悪意を持ち込むこと自体が難しそうだ。
俺自身も、腰に下げているこの剣が、ひどく場違いに思える。
周囲の木々は静かに立ち並び、風すら遠慮がちに吹いている。
蹄の音が、やけに大きく聞こえる。
まるで、この場所全体が生きているかのようだ。
……そう思わざるを得ない場所、空間を進み続けた。
渓谷に入って二日目 ──
その間、俺たちは不思議な感覚の中を進み続けた。
アシャンは精霊たちと話しながら、道を確かめている。
俺はただ、彼女の指示に従うだけだ。
そしてその夜。
「明日には里があった場所に着けるみたい」
アシャンが焚き火の揺れる火を眺めながらそう言った。
「予定よりもだいぶ早いな」
「それなんだけど、あなたが……何かお願い? したから、道が拓けたって言ってるんだけど、何かしたの?」
伺うように俺を見ながら、アシャンが聞いてくる。
……俺がお願い?
それ自体はピンと来ないが、心当たりは一つだけある。
「もしかしてこれのことかな?」
そう言ってレイナから渡された匂い袋をアシャンに見せた。
「エリオス特製の匂い袋で、レイナからはこれを持っていれば弾かれないと言われた」
アシャンはその袋を手に持って、しげしげと見つめた。
「……この模様が、道を拓いてくれたみたい」
匂い袋の表面に刺繍されている独特の模様。
それは俺の腕に嵌められている腕輪の模様とはまた違う、不思議な模様だった。
「この模様の意味がわかるの?」
「正確にはわからないけど……。あの子たちが、ここに記されてるあなたの意思が届いたって言ってるわ」
アシャンから匂い袋を受け取り、俺ももう一度、じっくりと眺めた。
「俺はてっきりこの匂いが何かあるのかと思ってたけど」
「それはたぶん、あの子たちが好きな匂いだから、まず匂いから仲良くしたいって意思表示をしてるんだと思うわ」
レイナにはこれの対価として、白狼団のピンを渡したが、そんな意味があるものなら安すぎたかもしれない。
そう思いながら、匂い袋をしまった。
焚き火が小さく燃えている。
その光が、アシャンの顔を柔らかく照らしていた。
周囲は静かで、パチパチと薪の弾ける音だけが聞こえる。
「……そんなに場所が変わったわけでもないのに、ここの夜空は他のどの場所で見るよりずっと、綺麗に感じるわ」
夜も更けてきた頃、アシャンが空を見上げながらぽつりと呟いた。
それに釣られて、俺も夜空を見上げた。
手を伸ばせば触れられそうなほど、星が密集している。
「そうだね……。ここの星は今にも降り注いできそうだ」
「もし本当に空から星が降ってきたら素敵だわ」
穏やかな声でアシャンがそう言った直後。
「あっ……」
一つ、また一つと、本当に空から星が降り始めた。
「……そういえば、今はそんな時期だったな」
秋の収穫の時期は星が多く流れる。
それを思い出した俺に、アシャンは一つ息を吐いた。
「そう、よね……。今がその時期だからよね。……私が望んだからじゃないわ」
胸に手を当てながら言う彼女に手を伸ばし、側に来るように促した。
「大丈夫だよ。君が望んだからじゃない」
そう言う俺に、アシャンはもたれかかるように体を預けてきた。
「明日は、里に着くと思うから……。明後日には精霊契約ができるはずなの」
「うん」
「契約をする前に、明日は少し……里を見てみたくて……。ちゃんと、見た方がいいかと思ったから」
「いいよ。そうしよう」
俺の言葉にアシャンは「ありがとう」と小さく答えた。




