第五十三話
寝ていると、不意に頬の辺りに人の手を感じた。
恐る恐る、躊躇いがちに触れようとしている手。
昨日の朝もそうだった。
まるで何かを確かめるかのように触れてくる。
「君は朝から俺に触れる癖でも作るつもり?」
目を開けると、アシャンが俺の頬に手を伸ばしていた。
「……嫌だった?」
「まさか。でもどうせならもっとしっかり触っていいよ」
そう言いながら抱き寄せた。
……昨日の話は、結論の出ないまま終わった。
それでも、精霊契約をする意思は、まだ変わっていないだろうか。
聞くのは簡単だが、急かすつもりはないからどうしたものか……。
「今日も、エリオスのところに行ってもいい?」
「それは構わないけど……」
何の用で? と口から出そうになった言葉を飲み込んだ。
「……精霊契約について、詳しく聞いてみようかと思って」
でもアシャンは、まるで俺が飲み込んだ言葉を知っていたかのように、そう言った。
柔らかく微笑むその表情に、決意が揺らいでいないことだけはわかった。
「わかった。俺はまたレイナと外で待ってるよ」
そう言いながら、アシャンの髪を弄る。
青みがかった艶のある黒髪が、指先に絡まる。
「もう20年くらい、ずっと一緒らしいわ」
「へー。それは羨ましいね。俺たちも20年経っても、こうしていられるかな?」
毛先に唇を落として言う俺に、アシャンは柔らかく微笑んだ。
そして身支度を整え、アシャンと共に街に出た。
「レイナ。……今日も話していっていいか?」
祭り最終日。
最終日だからか、昨日よりも多くの人が街に出ている。
昨日の場所に足を向けると、昨日と同じように天幕の外にレイナが立っていた。
「もちろんよ。エリオスも喜ぶわ。……エリオス、お客さんよ」
レイナは天幕の中に声をかける。
「ゆっくり話してきていいよ」
アシャンは俺に微笑み、レイナに「ありがとう」と言って天幕の中へと進んだ。
レイナが入り口の幕を下ろした。
「正直、もう来ないかと思ったわ」
昨日のアシャンの様子を見て思ったらしいレイナが口にした。
「エリオスにどうしても、聞いておきたいことがあるようだ」
その一言で伝わったのか、レイナは腰につけていた小さな布袋を差し出してきた。
「もう一度会えるなら、これを渡そうと思っていたの」
「これは?」
その袋は、小さな匂い袋だった。
精緻な刺繍が施されている。
顔の近くに持って行くと、心を落ち着かせる、どこか懐かしい香りがした。
「エリオス特製匂い袋よ。……見えなくても、弾かれることもなくなるわ」
そう言ったレイナの顔を見た。
「当たりでしょう?」とでも言いたげな顔をしている。
「……ありがたくもらっておく」
「素直なのは良いことね」
精霊は親和力の高い者にしか見えず、仇なす存在は里に入れない ──かつて読んだ文献にはそう記されていた。
つまり敵意がないことを、匂いで伝えるためのものなのだろう。
……里が滅ぼされた時も、これを逆手に取られたのだろう。
精霊が嫌う臭いで先に追い払い、その後で精霊師を始末した……。
「あなたたちは今回が最後だと言っていたが、定住地の候補はあるのか?」
もらった匂い袋を軽く握りしめながら聞いた。
「うーん……、いいなって場所はいくつかあるんだけどね。……そこで食べていける仕事があるかは、別問題なのよ」
レイナは目を逸らしながらため息を吐く。
「ならこれをもらってくれ」
そう言いながら、マントに着けていたピンをレイナに手渡した。
白狼団のマークが刻まれたピン。
「もし行くところがなかったら、それを持ってヴァルディアへ向かうといい。南地区、海に近い場所でこのマークの看板の居酒屋がある。そこのガルドという男に見せれば、きっと便宜を図ってくれる」
それは、ヴァルディアを出たあと、返しそびれていたことに気づいた品だった。
「これ大事なものじゃないの?」
「いいんだ。返す必要もないかもしれないが、いつかは返そうと思っていただけのものだ。レイナが代わりに返してくれると助かる。ああ、でも、ヴァルディアへ着く前に定住地が見つかったら、無理に持っていなくていい」
そう言うと、レイナはにやりと笑った。
「オーケー。ありがたくもらっておくわ」
「……素直なのは良いことだな」
さっきと同じやり取りを、今度は逆の立場で交わし、二人で笑った。
「そう言えば、この模様は見たことある」
手に持っていた匂い袋をもう一度見る。
「これと同じ模様じゃないか?」
左手につけたままの腕輪をレイナに見せた。
「ほんとだ。確かそれ、それぞれに意味があるのよね」
「西部のお守りだと聞いたが?」
「西部というか……厳密にはエリオスの故郷含めたこの地域のお守りらしいわ」
そう言われ、改めてその腕輪を見た。
なんとなく着け続けていたが ──
これは、アシャンの生まれた土地のものだったのか。
「……その意味、知ってるの?」
「安心して暮らせるようにとか、……そんな意味だと聞いた」
俺の言葉に、レイナが片眉を上げた。
「……変ね。それもっと複雑な意味を持つはずだけど……」
レイナはそこで言葉を切った。
「あとでエリオスに聞くといいわ」
レイナが言い終わった、その瞬間を見計らったかのように、天幕の入り口が開いた。
「お待たせ」
天幕から出てきたアシャンは、昨日とはうって変わって、どこかすっきりしたような顔をしていた。
「エリオス、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
レイナも、アシャンの表情を見て、ひとまず納得のいく話はできたと判断したらしい。
中のエリオスを外に出てくるように呼んだ。
次の瞬間、俺の手首を掴み、エリオスの前へと突き出した。
「あなた、これ読み解けるわよね? なんて意味の物なの?」
「あ、それは、安全祈願だって聞いて……」
とっさにアシャンが口を挟むが、エリオスが俺の手首を掴み腕輪をまじまじと見た。
「まぁ……、安全祈願、という言い方も、間違いではないね」
そう言ってから、エリオスは視線を俺の手首から外さなかった。
「これは……お嬢さんが贈ったものかい?」
「え? ええ、そう……だけど?」
「やっぱり」
エリオスは、確信したように小さく呟いた。
そして俺を見て、青い宝石眼を細めながら言った。
「これはね、いわゆる古代語だ。かつて使われていた、模様のような文字を刻んだお守りだよ。ここには『あなたの安住の地が、私の隣であるように』という意味が篭められている」
一拍の間の後で、アシャンが顔を赤くした。
「そっ、そんな意味、初めて知ったわ!」
「でもまぁ、安全祈願で間違いはないかと思うよ」
「全然意味が違うじゃない!」
二人のやり取りが耳を掠める。
……これが、あなたの安住の地が、私の隣であるように ──?
胸の奥に、鈍い音が落ちた。
その直後、ベルトに着けていたもう一つの腕輪に触れていた。
結局アシャンに返しそびれ、俺が持ったままの腕輪を、確かめずにはいられずエリオスの前に差し出した。
「……ならこれは? この意味は、わかるか?」
エリオスは俺から腕輪を受け取り、しげしげと見つめる。
「こっちは……お嬢さんに贈ったものだろう? 違うかい?」
「そうだ。それも……安全祈願のようなものと聞いてる」
「まぁ……それもあながち間違いではないけど」
エリオスは俺に腕輪を返しながら言う。
「こっちは『我が最愛 ──この思いがあなたを守る剣にも、盾にもなろう』って意味だ」
「あなたたち、随分と重いお守りを贈り合ってるじゃない。よく見つけたわね、そんなもの」
「ちっ、違うの! ヴァルディアの市場で、たまたま目に入っただけで……!」
慌てるアシャンを尻目に、エリオスに返された腕輪に目を落とした。
指先が、わずかにそれを強く握っていた。
「……明日には、ここを立つのかい?」
別れ際、エリオスが聞いてきた。
次の行程への準備もできたし。
「その予定だ」
「ならせっかくだ。……僕たちで見送ろう」
エリオスがレイナの方に目を向け言う。
「そうね。私たちは別に、急ぐ用事もないし」
「なら明日の朝、君たちの宿に行くよ」
そう言ったエリオスたちと別れ、俺たちは祭りの喧騒の中へと歩き出した。




