第四十五話
「君は山越えの経験はある?」
当日の朝、レオが聞いてきた。
「……たぶん」
「たぶん?」
レオが不思議そうに聞き返してきた。
「……今向かってる場所が、私の故郷ならたぶん……記憶にないくらい小さい時に、じじ様たちと」
里から逃げるように出てきて、あの森に辿り着いたなら、一度は確実に越えているはずだ。
レオは小さく、そうか、とだけ言った。
「山の上の方は今の時期でも冷え込むだろうからちゃんと着込んだ?」
「それは大丈夫」
「うん、じゃあ行こうか」
いつも以上にゆっくりと歩を進める。
レオの話だと馬の通れる道に迂回しつつ十日くらいで、山の向こうの街に行けるらしい。
……でも……。
──嵐が来るわ ──
山に入って三日目。
その日の朝は、いつもよりも少し、肌寒さを感じた。
「レオ」
「うん? なに?」
「……嵐が来るわ」
レオは空を見上げる。
私たちのいるところからは、まだ晴れ間が覗いているけど、あの子たちが間違えることはない。
今日は進まない方がいいと言おうとした時。
「それはいつくらいか、わかる?」
レオは否定することなく聞いてきた。
──お昼には雨になるわよ ──
「お昼には」
「嵐、ってことは、結構降り続くし、量も多そうだな……」
私の言葉に、レオは顎に手を当てた。
「ねぇ、前に水場があることを教えてくれたけど。この近くに嵐を凌げる安全な岩場か洞窟があるところはないか知らないかな?」
レオは私に聞いているけど、私を通して精霊に尋ねていた。
──道を逸れたところにならあるわ ──
「道を逸れるけど、あるみたいよ」
「逸れるってどのくらい?」
──うーん……たくさん歩いたところよ ──
精霊は今までも、具体的な時間を口にすることはなかった。
「もしかしたらかなり逸れるかも」
「……逸れたとしても、またここまで案内してくれるかな?」
──任せて! ──
「それは大丈夫みたい」
「なら決まりだ。今のうちにその場所に案内してもらおう」
そう言われ、私が少し先を歩き、道を逸れることになった。
たくさん歩くと言われただけあり、道から逸れてしばらく ──
──あそこよ! ──
「あれか」
やっと洞窟に着いた頃には、肌寒さが一段、上がった気がした。
「……空気が冷えてきたね。早めに動けて助かったよ」
濡れることなく、馬たちも避難させることができた。
──役に立った? ──
「ええ、ありがとう。……あなたたちも、今日はゆっくり休んで」
私の言葉に、精霊たちの気配が薄くなり、私たちをここまで連れて来てくれた馬たちが小さく鳴いた。
「小さい洞窟だから、焚き火は止めた方がいいね」
そう言われ、寒くなる前にと、レオとそれぞれ毛布に包まることにした。
その後すぐ、雨が降りはじめる。
雨と共に、寒さが体の芯まで冷やしてきそうだった。
毛布をギュッと握り直した私に、レオが声をかけてきた。
「大丈夫? 寒くない?」
寒いからと言って、どうすることもできないから返事に困っていると……。
「……ごめん、ちょっと君の毛布貸してくれるかな?」
レオがそう言ってくるから、言われるまま自分の毛布を渡した。
するとレオは自分の毛布と私の毛布を重ねた。
「アシャンはこっちを持ってくれる?」
「こう?」
「それで俺がここに座ると……さっきよりは温かいだろ?」
そう言いながら、レオは私の隣に座った。
確かにさっきより、寒さが和らいだ。
……レオと、こんな距離にいるのは、再会して以来だ。
それ以前にも、近い距離の時はあったけど……その記憶を、レオは持っていない。
「……雨が止んだとしても、今日はここにいた方が良さそうだね」
止まない雨に、レオが言う。
でもこのままだと、休んだ気がしないんじゃないかと思った時。
レオが荷物を確認しようと腰を上げた、その瞬間。
「レオ!」
「……ごめん、少し立ち眩みがした」
レオが軽くフラついた。
「大丈夫?」
どうしてそうしたのか考える前に、彼の額に手を伸ばしていた。
「あなた少し熱があるんじゃない!? 」
レオは、イタズラがバレた子供のように、気まずそうにした。
「待って、今薬を出すから、それを飲んで」
「大丈夫だよ。薬は要らない」
そう言ったレオを振り返る。
「今日は少し体が重いと思っていたんだ。俺は元々体温は高めだから、本当に大丈夫だよ」
穏やかに微笑むレオ。
「……まだ」
「うん?」
「まだ……薬は苦手?」
私の言葉に、困ったように笑うだけで、返事はしなかった。
「ねぇ、これは本当に風邪に効く薬なだけよ? 眠くなるわけじゃないわ」
「んー……本当に大丈夫だから」
レオは本当に薬を飲みたがらない。
……それはきっと、私のせいで……。
だからこそ、このままにしておくわけにはいかない。
しかも十日はかかると言った山越えの、まだ半分も来ていない。
薬を飲むなら早い方が絶対いい。
「レオ」
「うん? どうかし、」
レオが口を開けた瞬間、指先に用意していた丸薬を、開いた口の中へ押し込んだ。
そしてそのまま、人差し指でレオの唇を塞いだ。
「……」
ほんの数秒。
お互い、何も言えずに見つめ合った。
「……お水もあるわよ」
笑って水筒を差し出すと、レオは不服そうに眉を寄せた。
それでも、吐き出すことはせず、水と一緒に丸薬を飲み込んだ。
「……怒った?」
少し顔を覗き込むようにして、聞いてみた。
レオは目を逸らし、小さく息を吐いた。
「……別に怒ってないよ」
「嘘。ムッとしてるわ」
レオは横目で私を見た後、考えるように視線を上に向けた。
「……俺が怒ったと思ってる?」
そして、もう一度だけ横目で私を見てきた。
その言葉に、一つ頷いた。
「俺は君のお願いを聞いて薬を飲んだんだ。だから君も俺のお願いを聞いてくれたら、許すよ」
許す、という言葉を使うと言うことは、やっぱり無理やり口に入れたことにムッとしたわけで。
「いいわ。お願いってなに?」
そう言う私に、レオは小さく笑った。
「もう少し、こっちに来てくれる?」
「え? ……こう? ……っ!」
レオに言われた通り、少し体を近づけると、次の瞬間、毛布ごと包み込むように抱き締められた。
「……ねぇ、レオ」
心臓の音が、うるさい。
恥ずかしくて、そっちを向けないけれど。
レオにどういうつもりか聞こうとした。
けど……。
「……ごめん。実は少し寒かったんだ」
そう言って私を抱き締めるから、何も言えなくなってしまった。
聞こえるのは、雨の音と、どちらのものかわからない心臓の音だけ。
「君は温かいね」
「あなたの体温が高いのよ」
「そうか」
私の言葉に、レオが柔らかく笑った声がした。




