第三十五話
「君の名前を教えてくれる? 俺はなんて呼べばいい?」
腕の中の彼女が、俺にもたれるように身体を預けたことを確認してから、そう尋ねた。
「……アシャンティ。あなたは、アシャンて呼んでくれてたわ」
顔を上げた彼女の頬を、指の腹で拭った。
「アシャン……」
口にした瞬間、何か温かいものが胸に広がった。
初めて聞く名前のはずなのに、どこか懐かしい。
「……不思議だね。初めて聞く名前なのに、ずっと前から知っていたような気がする」
俺の濡れた指先を、彼女が包み込むように触れた。
「……あなたはやっぱり、記憶がないの?」
その手は微かに震えている。
「……そうだね。事故前後の記憶と……君のことは」
そう言った俺に、アシャンは俯き短く、そう、とだけ呟いた。
「とりあえず、どこかに座らせてもらえると助かる」
押し黙ったアシャンの代わりに、俺が口を開いた。
「実はずっと移動で、ゆっくり出来てなかったんだ」
「そう、よね。こっちに来て」
頷きながら歩を進めた彼女について行った先は、今の彼女の生活空間。
「お茶を淹れる」と、動く彼女を尻目に、室内を見渡す。
小さなテーブルと、それを挟むように置かれた一人用のソファが二つ。
バイルと二人で使っているのだろう。
……ちゃんと、ここで暮らしていたのか。
安堵半分。
そして残りの半分は、俺がいない生活をちゃんと送れているんだなという、なんとも身勝手な感情。
喜ぶべきなのに、どこか胸が締め付けられるような。
そんな感情が、静かに疼いた。
「疲れに効くハーブティよ」
ソファに座っていると、お茶を持ってきた。
ありがたく手に取ろうとした瞬間、何か引っ掛かりが胸の中に込み上げた。
「気を悪くしないでほしいんだけど」
「なに?」
「君はもしかして……、俺に何か飲ませたことある?」
横目で覗き見る彼女は、サッと顔色を変えた。
それは、無言の肯定だった。
「実は、薬を飲むのが苦手になってしまってね。……今、君に出されたお茶を見ても、似たような感覚になったんだ」
「……ご、ごめんなさい、私、あの時は本当に、」
「うん。君には君の事情があったんだろう? だから責めてるわけじゃないよ。ただ確認したかっただけだ」
「……ごめんなさい」
もう一度小さな声でアシャンは謝罪した。
……どうやら俺は、彼女に何か薬を飲まされたらしい。
多分、その後で彼女は消えた……。
だから薬を飲む行為に、あんな違和感があったのか。
「でもあれは、痛み止めと、よく眠れる薬だっただけよ」
心底困ったような顔で彼女は言う。
つまり、まんまと眠らされて、そのまま記憶まで失くした。
我ながら、なんていう大失態だ。
「怪我、は、もういいの?」
その声が、あまりにも小さくて。
「もうすっかり。君は?」
「……え?」
「俺が怪我をした時、君と一緒だったって聞いたけど」
みんなが口を揃えて言う通りの、綺麗なアシャン。
でもその顔は、どこか青ざめいる。
「アシャンは、怪我しなかった?」
「……私は」
手が、スカートをきつく握りしめている。
「私は、大丈夫だったわ……」
嘘だ、とすぐにわかった。
怪我はしていなくても ── 心に、深い傷を負ったのかもしれない。
「大丈夫なら良かった」
そうとだけ言って、出されたハーブティに口をつける。
ハーブティなんて日頃好んで飲まないはずなのに、なんだか理由のわからない懐かしい味がした。
彼女は何も話さない。
……というか、さっきから謝罪はされるものの、普通に会話していない気がする。
それはつまり、何故出て行ったのか ──今は言うつもりはない、ということだろう。
「ずっと気になっていたんだけど、聞いていい?」
「……なに?」
「君と俺は、恋人だった?」
この際、出て行ったことに関しては、彼女が言いたくなるまで問いただすつもりはない。
それ以上に、はっきりさせなければいけない問題があると思い、口にした。
「ちっ、違うわ!」
「違うの?」
「違うわよ!」
むきになって反論してくる様は、なんだか見覚えがある気がする。
「そうか。じゃあ俺の片想いだったわけか。残念だな」
「なっ、に、言ってるの!?」
「そりゃあ、そうだろう? 毎日のように夢に出てきて、ずっと気になっていた子が、こんなに綺麗で可愛いんだ。好きにならない理由が見当たらない」
俺の言葉に目を丸くしたアシャン。
その後、一気に顔を赤くした。
「……あなた、本当は記憶があるんじゃないの? それで私のこと、からかってるんでしょう?」
恨めしそうな顔で俺を見てくる。
その目まぐるしい表情の変化は、見ていて飽きない。
「そうだ、って言ってやりたいところだけど、記憶がないのは本当だよ。……思い出そうとすると、頭痛がしてきてね。いつか自然に思い出すだろうと思って、無理には追わないようにしているんだ」
指先でこめかみを叩きながら言う俺に、彼女はまた、表情を沈めた。
「……記憶は、戻らないと思うわ」
アシャンは、まるで何か重大な罪を告白する前の囚人のような顔をしている。
彼女は手を前で組み、俯いたまま話し続ける。
「あなたは頭部を打ったせいで記憶を失くしたと思っているから、また思い出すと思っているのかもしれないけど……それは怪我のせいなんかじゃないもの」
記憶を失ったのは俺ではなく、彼女なんじゃないかと思えた。
それほど悲痛な顔で、彼女は口を開いた。




