第2話:光の雨、傾く天秤と下界への決断
第2話をお読みいただきありがとうございます!
謎の影の急襲により、手塩にかけて創り上げた五十の至宝を地上へばら撒かれてしまったアデル様。
今回は、大異変によって直面する「神界崩壊の危機」と、それを防ぐためにアデル様が下す苦渋の決断が描かれます。
知略と責任感に満ちたショタ主神の雄姿をぜひご覧ください!
神界最高峰の静寂を誇っていた第一宝物庫は、今や見る影もなく無残なクレーターへと変わり果てていた。
足元には、砕け散った神聖鉱石の瓦礫と、引き裂かれた陳列棚の残骸が散乱している。
天井のドームは大きく抉れ、床の真ん中には巨大な円形の風穴が開いていた。そこから吹き上げる虚空の突風が、十歳の少年主神アデルの豪奢な神衣を激しく羽ばたかせている。
「ごほっ……げほっ、う……っ!」
石畳の上に両膝を突いたアデルは、口元を押さえて小さく吐血した。
純白の袖口が赤黒く染まり、翡翠の瞳が激痛に細められる。
「主様っ! しっかりして、主様ぁっ!!」
肩にしがみついていた身の丈十センチの神器少女ラビが、小さな手を懸命に伸ばし、アデルの青ざめた頬に触れていた。琥珀色の瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。
「……案ずるな、ラビ。……急激な神核の摩擦熱による吐血だ。命に別状はない……」
アデルは荒い呼吸を整えながら、自身の体内を巡る魔力脈の状況を冷徹に自己スキャンした。
痛覚を麻痺させ、意識を魂の深淵――神核へと潜らせる。
そこにあったのは、凄惨極まる光景だった。
五十の至宝は、アデルが長い神話の歳月の中で、自らの神威と魂の欠片を丹精込めて切り分け、注ぎ込むことで創り上げた半身そのものであった。
それが先ほど、正体不明の漆黒の神威によって無理やりに心と肉体を与えられ、強制的に地上へと引き剥がされたのだ。
(魂の因果を繋ぐパイプラインが、五十本すべて同時に千切れたのだ……。反動がないはずがない)
本来ならば、一瞬で神核が破裂して消滅していてもおかしくはない衝撃。
アデルの神核は防衛本能によって急速に萎縮し、自らの一部を強制的に切り離すことでかろうじて完全崩壊を免れていた。
だが、その代償はあまりにも重い。
(……失われた。地上へ散り散りに落ちていった娘たちと共に、私の全盛期の神威の――およそ四割が、完全に持っていかれたな……)
かつて無限の大海原のように満ち満ちていた神威のプール。
その四割が、一瞬にして蒸発したかのように消失していた。
まだ六割は残っている。だが、神話の最高神にとって、体内の魔力回路の四割を突然欠損させられるというのは、五体のうち両手を同時に奪われたに等しい致命傷であった。
「アデル様ぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
吹き飛ばされた宝物庫の入口から、悲鳴のような絶叫が木霊した。
回廊の瓦礫を蹴散らし、涙で顔をぐしゃぐしゃにした側近の女神セレスが、滑り込むようにしてアデルの元へ駆け寄ってくる。
「アデル様! ああ、アデル様、なんてこと……血が、お口から血が……っ!」
「セレスか。……無事だったか」
「無事なものですか! アデル様がこんな、こんなお痛ましいお姿になって……っ! 誰ですか、誰がアデル様にこんな乱暴を働いたのですか!? 私がお仕置きして八つ裂きにして神罰を下して差し上げますわぁぁぁッ!!」
セレスは取り乱して半狂乱になりながら、持っていた最高級の絹のハンカチでアデルの口元の血を何度も何度も拭い、そのまま小さな身体を抱きしめた。
背後からは、花冠を落とした花の女神や、震える果実の女神たちも青ざめた顔で駆け込んできて、口々に悲鳴を上げている。
「セレス、苦しい……抱きしめるな。それより、外郭の被害状況は……」
「外の警備天使たちが何体か昏倒しておりますが、命に別状はありません! それよりもアデル様です、今すぐ天の宮殿へお戻りになって、神樹の雫でお身体を休めていただかなければ――」
その時だった。
――ズズズズズズズズズ……ッ!
宝物庫の底から、先ほどの襲撃とは明らかに異質な、鈍く重い地響きが神界全体を揺らした。
「きゃあっ!?」
「な、何事ですの!? また敵が……!?」
女神たちが悲鳴を上げて床にしがみつく。
だが、今度の揺れは爆発による衝撃波ではなかった。
空間そのものが、まるで巨大な船が暗礁に乗り上げたかのように、ゆっくりと、しかし確実に斜めへと傾いていく感覚。
崩れ残った宝物庫の白亜の柱が自重に耐えきれず、みしみしと軋み声を上げてひび割れていく。
外の天空を見上げれば、水平線にあったはずの雲海が、視界の中で大きく傾斜していた。
「……っ、しまった! 神界の天秤か……!」
アデルはセレスの腕を押し留め、鋭い眼光を虚空へと向けた。
「て、天秤ですって……!?」
「オリュンポリスは、虚空に浮かぶ浮遊大陸だ。この広大な神界が天空の頂点に留まり続けていられたのは、天地の質量を均等に保つ『絶対天秤』の理が働いていたからに他ならない」
アデルは苦い声音で、迅速に事態を説明する。
「そして……その天秤の最も重い重りとなっていたのが、この宝物庫に収められていた五十の至宝だ。私が創り上げた神具たちは、あまりにも神威の密度が高すぎた。それが今、一斉に地上へと持ち去られたのだぞ」
ラビが青ざめた顔でツインテールを跳ねさせ、アデルの言葉を引き継いだ。
「神界の重心が、一瞬で狂っちゃったのよ……! 天秤の皿が、片方だけ空っぽになったのと同じ! このままじゃ、神界オリュンポリスの浮遊術式が過負荷で焼き切れて――」
「焼き切れたら、どうなりますの……?」
震えるセレスの問いに、アデルは冷酷な事実を告げた。
「落ちる。この巨大な神界オリュンポリスごと、真下に広がる創世大陸オルディシアへと、真っ逆さまに墜落する」
その場にいた全員の息が止まった。
神界が地上へ落ちる。それは単なる都市の崩壊ではない。
神々の住まう高密度の霊的質量が、人間の住む物質世界へと衝突するのだ。大陸全土が消滅するどころか、惑星の地殻が粉々に砕け散り、神も人も、すべての生命が文字通り消滅する【完全なる世界の終末】を意味していた。
「そんな……っ、嘘でしょう!? 父上様と母上様が遺されたこの世界が、墜落するなんて……!」
「アデル様、どうすればよろしいのですか!? 私たち、消えてしまうのですか……!?」
恐怖に震え、泣き叫び始める女神たち。
神界の傾きは、刻一刻と角度を増している。床の瓦礫が音を立てて転がり、風穴の奥底へと吸い込まれていく。
残された時間は、数分もなかった。
「セレス、立て」
アデルの声は、酷く静かだった。
十歳の子供の身体から発せられたとは思えない、絶対的な威厳と冷徹さを宿した声。
その一言だけで、パニックに陥りかけていた女神たちがハッと息を呑み、静まり返った。
「アデル……様?」
「泣いている暇はない。私が主神である限り、世界を終わらせたりはしない」
アデルはよろめく足に力を込め、自らの意志で大地を踏みしめて立ち上がった。
そして、宝物庫の中央――風穴の縁へと歩みを進める。
「主様、まさか……!?」
何かに気づいたラビが、悲鳴混じりの声を上げた。
「ラビ、天球の座標を固定しろ。セレス、お前たちは神殿中枢へ戻り、防衛結界の出力を私の波長と同調させろ」
「アデル様、何をなさるおつもりですか!? まさかご自身のお力で、この巨大な神界を支えようなどと――!」
「それ以外に、今この瞬間、墜落を止める方法があるか?」
アデルは右手の指輪を天へと掲げた。
至宝を失い、四割の神威を削がれてなお、アデルの体内に残された神威は、全盛期の六割。
人間や下級神から見れば、依然として天変地異を引き起こすに足る莫大なエネルギーである。
だが、アデルがこれから行おうとしている術式は、その残された力のすべてを奪い去りかねない禁忌の神術だった。
「【最高主神アデリオスの名において、天則の運行に命ず】」
アデルの足元に、眩い白銀と黄金の幾何学模様が幾重にも展開された。
吹き荒れる風穴の突風を押し返し、神界全域の地脈へと光の根が張り巡らされていく。
「【傾きし天秤よ、我が魂の錨を受け入れよ。虚空の深淵に楔を打ち、このオリュンポリスを天球の頂点に繋ぎ止めよ】――『天球係留陣』!!」
カァァァァァッ……!!
神殿の最深部、玉座の間から、巨大な光の柱が天空へと垂直に突き刺さった。
それは目に見えない巨大な鎖となって神界の大地を絡め取り、崩落しかけていた空間の座標を強引に固定していく。
ギギギギ……ガガガッ!
悲鳴のような金属音が響き、傾斜していた神界の大地が、激しい振動とともにピタリと停止した。
雲海が水平へと戻り、天空のひび割れが光の膜によって塞がれていく。
「止まっ……た?」
「神界が、水平に戻りましたわ……!」
女神たちが歓喜の声を上げる。
だが、その奇跡を成し遂げた代償を目の当たりにした瞬間、彼女たちの歓喜は凍りついた。
「が、はっ……っ!!」
アデルが床に崩れ落ち、胸を掻きむしりながら激しく咳き込んだ。
その身体から立ち昇っていた神々しい黄金のオーラが、見る影もなく細く、小さく萎んでいく。
「アデル様ーーッ!!」
セレスが悲鳴を上げて駆け寄り、倒れ込むアデルを抱き起こした。
腕の中に収まったアデルの身体は、驚くほど冷たく、軽くなっていた。
触れただけで分かる。神界の最高神たるアデリオスの体内に渦巻いていたあの絶対的な神威の奔流が、跡形もなく消え去っているのだ。
「あ……ああ……なんてこと……! アデル様の神威が、ほとんど感じられません……!」
「……当たり、前だ……」
アデルはセレスの胸の中で、途切れ途切れに息を吐いた。
「この巨大な神界を……虚空に繋ぎ止めるアンカーだぞ……。維持するために……私の残っていた神威の半分を……玉座の楔として常時固定したのだ……」
冷静な頭脳が、過酷な現実の数値を弾き出す。
至宝の喪失によって奪われた神威が【約四割】。
そして今、神界の墜落を防ぐ永久結界に注ぎ込み、固定した神威が【全体の約三割相当】。
(……合わせて、全体の七割が完全に封じられた、か)
現在のアデルの手元に残された実動可能な魔力は――【全盛期の三割(三十パーセント)】。
もはや、かつてのように指先一つで大陸の天候を自在に操ることも、戦略級の大魔法を無尽蔵に連打することもできない。
地上の高名な宮廷魔導士や、あるいは神官の長と比べればまだ戦える魔力量かもしれない。しかし、神々の頂点に君臨する主神としては、あまりにも心許なく、あまりにも脆弱すぎる数値だった。
「主様……無茶しすぎよ、大馬鹿者……っ!」
アデルの肩の上で、ラビが涙をポロポロと零しながら叫んでいた。
「七割も神威を削られたら、主神の権能なんてほとんど使えないじゃない!」
「……世界が滅びるよりは、遥かにましだ」
アデルは無理やり口元を吊り上げ、いつもの不敵な笑みを浮かべてみせた。
そして、震える指先でラビの涙をそっと拭う。
「それよりも、ラビ。……星図を広げろ。地上オルディシアの……あの子たちの状況はどうなっている」
「う、うん……!」
ラビは袖で目を擦ると、小さな天球儀の杖を両手で掲げた。
杖の先端から青い光の粒子が放たれ、宝物庫の虚空に、創世大陸オルディシアの立体的な魔力星図が浮かび上がる。
その光景を見た瞬間、アデルの表情から笑みが消え失せた。
「これは……ひどい……」
広大な大陸の全土に、五十ものドス黒い魔力の渦が点滅していた。
ある場所では紫電の嵐が吹き荒れ、ある場所では不浄の霧が大地を腐食させ、ある場所では大地が割れて業火が噴き出している。
『あついよぉ……誰か、助けて……!』
『痛い、痛いよぉっ! 身体が、止まらないのぉっ!』
『主様……置いていかないで……っ!』
星図のノイズに混じって、アデルの脳裏に、直接少女たちの泣き叫ぶ思念が雪崩れ込んできた。
急激に心と肉体を与えられた五十の神器たちは、受肉の激痛と恐怖によって精神を崩壊させ、地上の地脈の魔力を過剰に吸収して【天災級の暴走巨獣】へと変貌を遂げていたのだ。
「地上に落ちた妹たち……みんな、受肉のショックでパニックになってるわ」
ラビが震える声で報告する。
「このまま放置したら、暴走した妹たちの神威でオルディシアの大地がズタズタに引き裂かれる……! それに、あの子たち自身の魂も、過剰な負荷に耐えきれなくなって、数ヶ月で焼き切れて死んじゃうよ……!」
死ぬ。
無機物だったはずの神具たちが、心を与えられたがゆえに、恐怖と苦痛の中で命を落とす。
「……誰が、死なせるものか」
アデルはセレスの腕を借りて、再びゆっくりと立ち上がった。
その瞳の奥には、弱体化の苦痛など微塵も感じさせない、燃え盛るような決意が宿っていた。
「私の……手塩にかけて育て上げた愛娘たちだ。あの子たちに痛い思いをさせたのは、不覚にも宝物庫を守りきれなかった私の落ち度。ならば――親である私が、責任を持って迎えに行くのが道理というものだ」
「ま、待ってください、主神様!?」
セレスが血相を変えて、アデルの神衣の裾にすがりついた。
「まさか、下界へ降りるおつもりですか!? なりません、絶対に許しませんわ! 今の主神様は、神威の七割を失っていらっしゃるのですよ!? そんなお身体で下界へ降りて、もし暴走した巨獣たちに襲われたら……もし、あの卑劣な襲撃者の黒幕に狙われたら、命がいくつあっても足りません!」
「セレス」
「ダメです、ダメなものはダメです! 私が代わりに下界へ降りて、神器たちを回収してまいります! ですから主神様は、神殿で温かいミルクを飲んでお休みになっていてくださいまし……っ!」
涙をポロポロとこぼしながら訴える過保護な側近。
アデルは小さく苦笑し、その小さな掌を伸ばして、セレスの濡れた頬を優しく撫でた。
「お前の忠義と愛には、いつも感謝しているよ、セレス」
「アデル様……」
「だがな、あの子たちの核に触れ、暴走を鎮めて魂を受け止めることができるのは――生みの親である私だけなのだ。お前では、あの子たちの精神の拒絶反応に耐えきれん」
アデルはセレスの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「それに……地上を見捨てることなど、私にはできない。オルディシアは、かつて父上と母上が私に託してくださった、かけがえのない最初の被造世界なのだから」
その揺るぎない眼差しに、セレスは息を呑み、これ以上言葉を紡ぐことができなくなった。
十歳の子供の姿をしていても、目の前にいるのは数千年の世界を背負い続けてきた最高神なのだ。
「……わかり、ました」
セレスは涙を拭い、居住まいを正して深く頭を垂れた。
「ならば、私もお供いたします。主神様のお世話役として、盾として、この命に代えてもお傍を離れません」
「ああ。頼りにしているぞ、セレス」
アデルは頷き、宝物庫の入口に控えていた女神たちを振り返った。
「留守を預かる女神たちよ。私の留守中、神界オリュンポリスの防衛と天秤の監視を任せる。決して持ち場を離れるな」
「は、ははっ……主神様、どうかご武運を……!」
女神たちが一斉に跪き、主神を見送る祈りを捧げる。
「よし、ラビ。転移座標の割り出しは済んだか?」
「ばっちりよ、主様!」
ラビがツインテールを揺らし、天球儀を高く掲げる。
「大陸中央、神聖皇国ルクシアの近郊に、安定した霊脈の降臨ポイントを見つけたわ。まずはそこから地上の状況を探りましょう!」
「うむ。行くぞ」
アデルが床を強く蹴ると同時に、白銀の光の方陣が二人と一匹の足元を包み込んだ。
吹き抜ける虚空の風の中、アデルの神衣が眩い閃光へと溶けていく。
「待っていろ、お前たち。……すぐに助け出してやるからな」
光の柱が宝物庫の底を貫き、遥かなる地上――創世大陸オルディシアへと、音速を超えて一直線に降り注いでいった。
第2話を最後までお読みいただき、ありがとうございました!
神界墜落という未曾有の危機に対し、自らの神威の3割を玉座に注ぎ込んで食い止めたアデル様。
しかしその代償として、至宝の喪失と合わせて【全盛期の7割の力を失う】という極限状態に陥ってしまいました……!
それでも泣き叫ぶ神器少女たちを救うため、残された3割の力と叡智を胸に、地上への降臨を決断したショタ主神。
次回からは、いよいよ舞台を地上【創世大陸オルディシア】へと移し、冒険者ギルドでの新たな出会いと、記念すべき1体目の神器回収へと物語が動き出します!
次回、第3話『創世大陸オルディシア、所持金ゼロのショタ主神』に続きます!




