図書館には恋が多すぎる
王立魔法学園の図書館には、ひとつだけ奇妙な特徴があった。
試験期間よりも、朱雀祭の準備期間の方が、男女二人連れの利用者が増えるのである。
もちろん、理由はある。
神舞戦の戦術を調べるため。
過去の試合記録を確認するため。
魔法の相性について研究するため。
いずれも立派な学習目的だった。
ただし、そのすべての利用者が、学習だけを目的としているとは限らない。
「クラウディア、こっち空いてるぞ!」
トーマは窓際の二人掛けの席を指さした。
「そこ、日が当たるじゃん。こっちの方が資料見やすいよ」
「あ、ああ。そうだな」
クラウディアは迷わず、書架に近い四人掛けの机へ向かった。
トーマも慌てて後を追う。
彼は今日、クラウディアを図書館に誘うことに成功していた。
朱雀祭に向けて、神舞戦の作戦を一緒に調べよう。
そう言ったら、彼女はあっさり了承してくれた。
誘った理由に嘘はない。
ただ、彼の期待には、作戦研究以外のものも少なからず混じっていた。
「で、何を調べるんだ?」
「過去の神舞戦。特に、少人数で守りを崩した試合」
「おお、なるほど!」
「トーマ、去年の記録集、取ってきて」
「任せろ!」
トーマは勢いよく立ち上がった。
そして、どの棚にあるのか分からず、三歩進んだところで止まった。
「……どこだ?」
「右から二番目。上から三段目」
「お、おう!」
クラウディアはすでに別の資料を開いていた。
トーマは記録集を抱えながら、ひそかに考えた。
今日は、なかなかいい感じなのではないか。
少なくとも、二人で図書館に来られたのだから。
彼が席に戻ったとき、クラウディアは机の反対側に座っていた。
隣の椅子は、空いたままだった。
「ノア、こんなところにおったん?」
ノアが顔を上げると、メイが書架の間から覗いていた。
両手には、分厚い本が一冊ずつ。
「メイさん。何か探しているんですか?」
「兄ちゃんに頼まれてん。昔の魔導灯の設計図が載ってる本、知らへん?」
「魔導灯ですか。古い設計なら、工学史の棚かもしれません」
「工学史?」
「こっちです」
ノアは読んでいた本に栞を挟んで立ち上がった。
しばらくして、二人は目的の本を見つけた。
「あった! 助かったわ、ノア!」
「いえ。フェイさん、また何か作っているんですか?」
「せやねん。今度は熱が逃げる仕組みを考えるんやて」
「それなら、この本にも参考になる図がありましたよ」
ノアが自分の席に戻ると、メイも当然のようについてきた。
「ちょっと見せて」
「はい」
二人は机に本を広げた。
「これ、ええなあ」
「ただ、この部分の材料がちょっと特殊なんです」
「ほな、別のもんに替えたらええやん」
「それだと熱伝導率が変わります」
「じゃあ、形も変えよ」
「……なるほど」
ノアは鉛筆を取り、手元の紙に簡単な図を描いた。
メイはその横から、ためらいなく別の線を足す。
二人の頭は、すでに魔導灯のことでいっぱいだった。
貸出机の奥で、年配の司書がその様子を眺めていた。
銀色の混じった髪をきちんとまとめ、鼻の上には小さな眼鏡を載せている。
長年この図書館に勤めているらしく、生徒たちの顔も、書架に並ぶ本の場所も、よく覚えていた。
司書はノアたちの机を見て、満足そうに頷いた。
「ええことやねえ……」
「監督、なんか楽しそうですね」
貸出机に本を返しに来た少年が、笑いながら声をかけた。
「そう見えますか?」
「ええ。何かよかことでもあったとですか?」
「ふふ。内緒ですよ」
少年は不思議そうに首を傾げ、返却を済ませると去っていった。
司書はもう一度、生徒たちの机に目を向けた。
◇
しばらくして、レオン・ハーグリーヴスも図書館を訪れていた。
目的は、学園の古い記録を調べることである。
朱雀祭の準備期間である鳳雛週間が始まってから、
彼は授業の合間を縫って、学園の過去の教育記録を調べていた。
千年の歴史を持つ学園には、優れた教育方法が数多く蓄積されている。
その一方で、現在は使われていない制度もあった。
レオンが特に関心を持っていたのは、魔力量の少ない生徒に対する補習制度だった。
古い記録には、興味深い取り組みがいくつも残されている。
魔力量だけで生徒を分類しない実技指導。
学年を越えた共同研究。
魔法理論と一般学問を組み合わせた個別課題。
今の学園でも応用できそうなものばかりだった。
ただ、記録には妙なところがあった。
「……ここから先が、ありませんね」
レオンは目録を見直した。
十数年前までは、補習制度について毎年報告書が作られていた。
ところが、十年ほど前を境に、その数が急に減っている。
制度を廃止したという記録は見当たらない。
単に報告書の保管場所が変わったのかもしれない。
あるいは、別の制度に統合されたのか。
レオンは目録の番号を手帳に書き写した。
「レオン先生?」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、セレナ・ヴァレンティーニが立っていた。
片手に数冊の本を抱えている。
「セレナ先生。こんにちは」
「こんにちは。こんなところで何を?」
「昔の教育制度を調べています。
使われなくなった制度の中にも、参考になるものがあるかと思いまして」
「なるほど。どの時代?」
「ここ二十年ほどを中心に」
「それなら、教育制度の記録だけでは足りないかもしれないわね」
「と、いいますと?」
「制度が変わるときには、社会の方にも理由があるものだから」
セレナは抱えていた本を机に置いた。
「例えば、二十年前の獣人解放。あれ以降、教育を受ける人々の構成も変わったでしょう?」
「ええ」
「それに、十数年前には地方の学校制度も見直されているわ。学園の制度にも影響があったはずよ」
「そうでしたか。そちらの資料も確認した方がよさそうですね」
「よかったら、関連する本を探しましょうか?」
「お願いできますか?」
「ええ。少し待っていて」
セレナは書架の奥へ消えた。
数分後、さらに三冊の本を抱えて戻ってきた。
「これと、これ。それから、こっちも」
「ずいぶん詳しいですね」
「歴史教師ですもの」
珍しく得意げな顔だった。
レオンは笑った。
「頼もしい限りです」
セレナは一瞬、返事を忘れた。
「……どういたしまして」
彼女はレオンの向かいに座った。
その様子を、貸出机から年配の司書が見ていた。
レオンの前には、すでに学園史だけでなく奴隷解放史の資料が何冊も積まれている。
セレナも椅子に座るなり、目録を広げ始めた。
司書は眼鏡をゆるりと下げた。
「……あらまあ」
そして、二人の机をもう一度見た。
向かい合わせに座っている。
机には分厚い本。
会話の内容も、どうやら教育制度についてらしい。
「ほんま、真面目な二人やこと」
彼女は小さく笑った。
それからしばらく、二人は資料を読み比べた。
レオンが教育方法について疑問を口にすると、セレナが当時の社会状況を説明する。
セレナが制度の変化を指摘すると、レオンが実際の授業で起こりそうな問題を考える。
同じ資料を読んでいても、目のつけどころが違った。
「この制度、理想としては悪くないんです」
レオンが一冊の報告書を指さした。
「ただ、担当教師の負担が大きすぎます。これでは長く続けられないでしょう」
「でも、当時はそれなりに成果が出ていたみたいよ」
「ええ。だからこそ惜しいんです。もう少し簡単な方法にできれば……」
「あなた、何でも授業に使おうとするのね」
「職業病でしょうか」
「ふふ。私も人のことは言えないけれど」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのとき、セレナがレオンの手元にある本を覗き込んだ。
「あら、ここ。さっきの資料と数字が違うわ」
「どこですか?」
「この行よ」
セレナが身を乗り出す。
銅色の髪が、レオンの手の甲にふわりとかかった。
「あ……」
セレナは小さく声を漏らした。
レオンは何も言わず、本を彼女の方へ少し動かした。
「こちらの方が見やすいですね」
「……ええ」
セレナは髪を耳にかけた。
レオンはすでに、数字の違いについて考え始めていた。
「記録の集計方法が変わったのかもしれませんね」
「そう、かもしれないわね」
セレナは本に目を戻した。
ただし、同じ行を二度読んだ。
◇
「若いって、いいわね」
セレナがふと呟いた。
レオンが顔を上げる。
「どうしました?」
「ほら、あそこ」
彼女の視線の先には、トーマとクラウディアがいた。
トーマは何かを熱心に説明している。
クラウディアは腕を組んで聞いていたが、やがて首を横に振った。
トーマが肩を落とす。
その直後、クラウディアが資料を一冊差し出した。
トーマは再び勢いよく頷いた。
「朱雀祭の作戦研究ですか。熱心ですね」
レオンが感心したように言った。
「……そうね。熱心ね」
セレナは口元を押さえた。
向こうの席では、ノアとメイが同じ本を覗き込んでいた。
メイが何かを言うと、ノアが笑う。
「ノア君たちも頑張っていますね」
「レオン先生」
「はい?」
「あなた、図書館に来る生徒は、みんな勉強だけをしていると思っているの?」
レオンは頭を軽くかきだした。
「そうとは限らないでしょうね。休憩や待ち合わせに使う生徒もいるでしょうし」
「……ええ、そうね」
セレナは、それ以上説明しなかった。
代わりに、自分の前にある本を開いた。
なぜだか、少しおかしかった。
午後の日差しが傾き始めた頃、レオンは一冊の資料を閉じた。
「この時代、改革という言葉がよく出てきますね」
セレナの手が止まった。
「……そうね」
「教育制度の見直しにも、いろいろな立場があったのでしょう」
「ええ。今でもそうだけれど、当時は特に」
セレナは窓の外へ目を向けた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「私ね、昔は今のフェリクス先生みたいだったのよ」
「フェリクス先生ですか?」
「ええ。生徒のことになると、すぐ夢中になってしまって。
授業が終わっても、相談に乗ったり、一緒に資料を探したり」
「それは、いい先生だったんでしょうね」
「どうかしら。少なくとも、自分ではそう思っていたわ」
セレナはうつむき気味になった。
「五年ほど前のことよ。私をとても慕ってくれる生徒がいたの」
レオンは黙って聞いている。
「商工階級の子でね。頭がよくて、努力家で、成績も優秀だった。
歴史の授業が好きで、よく質問に来てくれたわ」
「素晴らしい生徒ですね」
「ええ。本当に」
セレナは、そこで言葉を切った。
図書館の奥から、誰かが本を棚に戻す音がした。
「その子の家は、改革派だったの」
レオンは目を見開いた。
「当時、改革派への締めつけが強くなっていてね。ご家族も、危ないところまで追い込まれたそうよ」
「……そうでしたか」
「私は、何も知らなかった」
セレナは膝の上で手を重ねた。
「いえ、知らなかったというのは、少し違うわね。政治の動きは知っていた。
でも、その子の家がそんな状況にあるなんて、思ってもいなかった」
レオンは口を挟まなかった。
「ある日、その子が私の父の名前を知ったの」
セレナの声は静かだった。
「私は普段、家のことをあまり話さなかったから。
特別に隠していたつもりもなかったんだけれど……」
彼女は言葉を探した。
「父は、反改革派の重鎮の一人だったのよ」
レオンは驚いたように目を瞬いた。
しかし、すぐには何も言わなかった。
「その子は、それまでとまったく違う目で私を見るようになったわ」
セレナは机の上の本に視線を落とした。
「何か言おうとしても、聞いてくれなかった。私が何を教えても、もう信じてもらえなかった」
「……」
「私が父と同じ考えだと思ったんでしょうね。それとも、最初から自分を欺いていたと思ったのかもしれない」
セレナは小さく息をついた。
「でもね。何が一番つらかったのか、今でもよく分からないの」
「そうなんですか」
「嫌われたことなのか。それとも、あの子の苦しみに、何も気づいていなかったことなのか」
レオンは穏やかに語りかけた。
「……その生徒のことを、今でも覚えているんですね」
セレナは顔を上げた。
しばらく彼を見つめ、それから微笑んだ。
「ええ。忘れられないわ」
レオンは頷いた。
父親の立場と本人の考えは、必ずしも同じではない。
生徒がセレナを責めたことが正しかったとも思わない。
けれど、その生徒の家族が危機にさらされていたのなら、簡単に割り切れる話でもないのだろう。
まして、五年前の出来事を、今ここで解決することなどできない。
「私は、生徒と仲よくなるのが得意じゃないと思っていたんです」
レオンが言った。
「今でも、そう思うことがあります」
「あなたが?」
「ええ。よかれと思って教えすぎたり、肝心なことに気づかなかったり。最近も失敗しました」
セレナは、少しだけ目を細めた。
「……アルタン君のこと?」
「ご存じでしたか」
「少しだけね」
レオンは苦笑した。
「セレナ先生は、昔から生徒と向き合うことに熱心だったんですね」
「……昔はね」
「今も、そうだと思いますよ」
セレナは答えなかった。
レオンも、それ以上は言わなかった。
しばらく二人で、窓の外を眺めていた。
「お二人とも、お茶はいかがですか」
声をかけてきたのは、先ほどの年配の司書だった。
小さな盆に、湯気の立つ茶器が二つ載っている。
「あら。私たち、お茶をお願いしましたっけ?」
セレナが尋ねる。
「いいえ。でも、ずいぶん長く調べ物をしていらっしゃるので」
「ありがとうございます。助かります」
レオンは素直に礼を言った。
司書は二人の前に茶器を置いた。
「閉館まで、まだ少しありますから。ごゆっくり」
そう言って、静かに立ち去った。
セレナは茶器を手に取った。
温かかった。
「……おいしい」
「ええ。ありがたいですね」
レオンは一口飲んでから、机の上の資料を見た。
「そういえば、先ほどの補習制度ですが」
「ええ」
「十年ほど前から、報告書が急に少なくなっているんです」
「十年前?」
「はい。制度を廃止した記録も見当たらないので、別の場所に保管されているのかもしれません」
セレナは茶器を置いた。
「……そう」
「何かご存じですか?」
「いいえ。教育制度の記録については、詳しくないわ」
嘘ではなかった。
セレナは、その制度のことを知らなかった。
ただ、十年前という言葉には、別の記憶が結びついていた。
教え子と出会うよりも、ずっと前のこと。
彼女は一瞬だけ、古い教室の光景を思い浮かべた。
窓際の席。
開いたままの教科書。
そして、もうそこにはいない、かつての同級生。
「セレナ先生?」
「……何でもないわ」
セレナは微笑んだ。
「その資料、今度は私も探してみるわね」
「ありがとうございます。助かります」
レオンは手帳に新しい項目を書き加えた。
セレナは、冷めかけたお茶をもう一口飲んだ。
閉館を知らせる鐘が鳴った。
トーマは結局、クラウディアの隣に座れないまま、三冊の記録集を読み終えていた。
「今日は助かったよ、トーマ」
「お、おう!」
「また作戦、考えようね」
「もちろん!」
クラウディアは資料を返却口へ運んでいった。
トーマはその背中を見送りながら、小さく拳を握った。
今日の成果は、十分だった。
一方、ノアとメイは、図書館を出ても魔導灯の話を続けていた。
「せやから、ここを斜めにしたらええんちゃう?」
「それなら、熱が逃げる方向を変えられますね」
「兄ちゃん、喜ぶで!」
「試してみたいですね」
二人は並んで廊下を歩いていった。
どちらも、夕暮れの窓に映る自分たちの姿には気づかなかった。
レオンとセレナは、最後に図書館を出た。
西日の差す廊下は、昼間よりも静かだった。
「今日はありがとうございました」
レオンが言った。
「こちらこそ。私も、いろいろ勉強になったわ」
「セレナ先生とお話しすると、資料の見え方が変わりますね」
「それは、歴史教師として嬉しい言葉ね」
「また、ご一緒していただけますか?」
セレナは足を止めた。
レオンも立ち止まる。
「……ええ」
彼女は少しだけ間を置いてから、微笑んだ。
「喜んで」
「よかった。次は、地方の教育制度についても調べたいと思っていまして」
「……そうね」
セレナは笑った。
「次も、きっと面白いでしょうね」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
レオンは、今日見つけた資料のことを考えていた。
セレナは、五年前のことを思い出していた。
そして、もう一つ。
レオンが何気なく口にした「また、ご一緒していただけますか」という言葉が、
なぜだか少し嬉しかった。
それがどういう気持ちなのか、今はまだ考えないことにした。
夕暮れの廊下に、二人の足音が静かに重なった。
図書館に最後まで残っていた司書は、レオンとセレナが並んで帰っていく姿を窓越しに見送った。
「……ほんま、ええことやねえ」
小さく呟いて、眼鏡を外す。
少し潤んだ目元を指で押さえると、彼女は照れたように笑った。
そして、図書館の最後の明かりを消した。
---第14話完---




