第12話 二十年前の自由
セレナが教室に入ると、黒板にはすでに落書きがあった。
大きな剣を掲げた人物が、鎖につながれた獣人たちを救い出している。
人物の頭上には、ひときわ大きな文字。
『天才セドリック』
「なかなか上手ね」
セレナが言うと、前列の男子生徒が胸を張った。
「先生、今日は獣人族の解放についてでしょう? 予習してきました!」
「絵の練習を?」
「歴史の予習です!」
教室に笑いが起きた。
セレナは絵を眺めた。
「では、せっかくだから、この絵を使わせてもらいましょう」
男子生徒は嬉しそうに頷いた。
「皆さん、これは何の場面?」
「天才セドリックが奴隷を解放したところ!」
「悪い領主を倒したんです!」
「違うよ、牢屋を壊したんだろ!」
「どっちもやったんじゃないの?」
教室がにぎやかになった。
セレナは笑いながら手を上げた。
「はい、そこまで。では、この絵で一つ、歴史の問題を出します」
彼女は黒板の人物を指した。
「天才セドリックが鎖を断ち切ったあと、この人たちはどこへ行ったのでしょう?」
生徒たちは顔を見合わせた。
「……家に帰った?」
「家があれば、そうね」
「故郷に戻ったんじゃないですか?」
「戻れる人もいたでしょうね。では、故郷が分からない人は?」
返事が止まった。
「住む場所がなかったら? 仕事がなかったら? 食べるものがなかったら?」
セレナは教卓に手を置いた。
「今日は、皆さんがよく知っている冒険譚の、その続きについて勉強しましょう」
黒板の隅に、セレナは大きく数字を書いた。
二十。
「獣人族の奴隷制度が正式に廃止されてから、今年で二十年です」
「知ってます!」
先ほどの男子生徒が手を上げた。
「天才セドリックが廃止させたんですよね!」
「そのとおり。では、どうして彼は、奴隷を所有する人々と戦うだけでなく、制度そのものを廃止しようとしたのでしょう?」
「悪い人を倒しても、また別の悪い人が出てくるから?」
「そう考えることもできるわね」
セレナは黒板に二つの言葉を書いた。
『人を救う』
『仕組みを変える』
「困っている人を助けることは大切です。でも、その人を困らせる仕組みが残っていたら、どうなるでしょう?」
「また同じことが起きます」
「ええ」
セレナは頷いた。
「天才セドリックの偉業は、目の前の人々を救ったことだけではありません。人を所有物として扱うことを認めていた法律を、変えさせたことにもあります」
生徒の一人が首を傾げた。
「でも、法律を変えれば、それで終わりじゃないんですか?」
「いい質問ね」
セレナは黒板に、もう一つ言葉を書いた。
『暮らし』
「では、少し想像してみましょう。昨日まで、食事も寝る場所も仕事も、すべて主人に決められていた人がいます」
教室が静かになった。
「今日から自由です、と言われました。さて、明日の朝、その人は何をするでしょう?」
「仕事を探します」
「どうやって?」
「……町へ行って」
「町までの旅費は?」
「歩いて行きます」
「食事は?」
「……」
答えた生徒が困った顔をした。
セレナは笑った。
「意地悪な質問ばかりで、ごめんなさいね。でも、これが当時の大きな問題だったの」
「先生」
別の生徒が手を上げた。
「奴隷制度がなくなって、困ったのは獣人族だけですか?」
セレナはその生徒を見た。
「どういう意味かしら?」
「だって、農場とか鉱山とか、奴隷がいなくなったら仕事ができなくなりますよね」
「そうね。実際に、そうした問題も起きました」
「だったら、制度を廃止するのに反対する人もいたんじゃないですか?」
「もちろん、いました」
セレナは黒板に三つの言葉を書き加えた。
『労働』
『法律』
『利益』
「長い間、奴隷労働に頼ってきた産業がありました。その仕組みで利益を得ていた人もいます。
制度が変われば、そうした人々の暮らしや商売も変わります」
「じゃあ、天才セドリックはどうしたんですか?」
「それを考えるのが、今日の授業の大事なところよ」
セレナは教科書に目を落としてから、答えた。
「廃止に至るまでには、政治的な交渉もあれば、経済的な問題もありました。
法律を変えるだけではなく、その後の社会をどう動かすかという課題があったんです」
「天才セドリックでも、全部一度には解決できなかったんですか?」
「ええ。どれほど優れた人でも、国中の人々の暮らしを一晩で変えることはできません」
セレナは教室を見渡した。
「ただし、だから何もしなくてよい、ということにもなりませんね」
何人かの生徒が頷いた。
「では、皆さんならどうしますか。
自由になった人々が生活できるようにするためには、何が必要でしょう?」
「仕事!」
「住むところ!」
「お金!」
「学校も必要だと思います」
「いいわね。ほかには?」
「奴隷を使っていた人たちへの説明とか……」
「それも大切ね」
セレナは生徒たちの答えを黒板に並べていった。
次第に、黒板は文字で埋まっていった。
最初に描かれていた英雄の絵は、その横で少し窮屈そうに見えた。
授業が進むにつれ、生徒たちの発言は増えていった。
「先生、獣人族の人たちは、みんな自由になりたかったんですよね?」
「多くの人が自由を求めていました。ただ、その後に何を望むかは、人によって違ったでしょうね」
「違うんですか?」
「例えば、故郷に帰りたい人もいれば、今いる土地で暮らしたい人もいたでしょう。
家族を探したい人も、新しい仕事を始めたい人もいたはずです」
「そっか……」
「同じ制度のもとにいたからといって、全員が同じ考えを持っていたわけではないのよ」
窓際の席で、アミラは教科書を見ていた。
机の上には、授業の内容をまとめたノートが開かれている。
丁寧な字だった。
だが、途中から筆が止まっていた。
教室の前では、セレナが話を続けていた。
「では、制度が廃止されたことで、獣人族への偏見もなくなったのでしょうか?」
「……なくなってないと思います」
一人の女子生徒が答えた。
「どうして?」
「法律が変わっても、人の考え方はすぐには変わらないからです」
「そうね」
セレナは頷いた。
「法律は、人々の行動を変える大きな力を持っています。
でも、人の心の中まで、同じ速さで変えられるとは限りません」
そのとき、後ろの席から小さな声がした。
「でも、今は獣人族だって普通に学校へ来てるじゃないか」
別の生徒が答えた。
「それと差別がないことは、違うだろ」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
何人かが顔を見合わせた。
そして、一瞬だけ、視線が窓際へ集まった。
アミラは顔を上げなかった。
セレナは、その動きに気づいた。
「では、少し整理しましょう」
彼女は黒板の『法律』と『暮らし』を指した。
「制度として認められることと、実際にその権利を使えることには、違いがあります。
そこを混同しないようにしましょう」
生徒たちの視線が黒板へ戻った。
アミラは、ゆっくりとペンを動かし始めた。
「最後に、もう一つ質問です」
セレナは黒板の『天才セドリック』という文字を指した。
「皆さんは、天才セドリックをどんな人物だと思いますか?」
「すごい魔法使い!」
「頭がいい人!」
「悪いことを許さない人!」
「何でも直しちゃう人!」
最後の答えに、教室から笑いが起きた。
「そうね。皆さんの知っている冒険譚では、さまざまな問題を解決していく人物として描かれているわね」
セレナは頷いた。
「では、彼が奴隷制度を廃止させたことを、私たちはどう学べばよいのでしょう?」
「すごいことをしたって、覚えればいいんじゃないですか?」
「それも間違いではないわ」
セレナは微笑んだ。
「でも、もう一つ考えてほしいことがあります」
彼女は黒板の文字を指でたどった。
『人を救う』
『仕組みを変える』
『暮らし』
「英雄がどれほど大きな仕事をしても、そのあとを生きるのは、そこに暮らす人々です」
生徒たちは静かに聞いていた。
「二十年前に制度が廃止されたことは、歴史上の大きな出来事でした。
でも、その日から始まった暮らしについても、私たちは学ばなければなりません」
セレナは教科書を閉じた。
「歴史の教科書には、法律が変わった日付が書いてあります。
けれど、その日に喜んだ人も、不安だった人も、次の日の仕事を心配した人もいたはずです」
終業の鐘が鳴った。
「では、今日はここまで。次回は、制度廃止後の社会の変化について、
もう少し詳しく見ていきましょう」
教室がにぎやかになった。
生徒たちが次々に教室を出ていく。
セレナは黒板を消しながら、窓際の席に目を向けた。
アミラは、まだ座っていた。
ノートを鞄にしまい、教科書を手に取る。
ほかの生徒たちより、少しだけ動作が遅かった。
「アミラさん」
セレナが声をかけた。
アミラの肩が、小さく跳ねた。
「は、はい」
「ちょっと、いいかしら」
アミラは頷いた。
セレナは教卓の上に教科書を置いた。
「今日の授業、つらくなかった?」
アミラは瞬きをした。
「……え?」
「獣人族の歴史について、いろいろな意見が出たでしょう。気になったことがなかったかと思って」
「……いえ」
アミラは首を振った。
「だ、大丈夫です」
「本当に?」
セレナは心配そうに顔を覗き込んだ。
「無理しなくていいのよ。あなたにとっては、ほかの生徒とは違う意味を持つ授業でしょうから」
アミラは教科書を抱え直した。
「……わ、わだすも、歴史は勉強したいです」
「ええ、もちろんよ」
セレナは頷いた。
「ただ、もし負担になるようなら、次回からは少し配慮することもできるわ」
「配慮……ですか」
「例えば、こういう話題を扱うときに、あなたがつらくならないようにするとか」
アミラは俯いた。
セレナは、彼女が黙り込んだのを見て、さらに言葉を重ねた。
「あなたが気にする必要はないのよ。
授業で何か嫌な思いをしたなら、先生に言ってくれていいんだから」
「……」
「アミラさん?」
アミラは、抱えていた教科書を少し強く握った。
「……わ、わだすも」
声が震えた。
「みんなと同じように、勉強したいです」
「ええ。それはもちろん——」
「わだすだけ、違うことしなくていいです」
セレナは口を閉じた。
アミラは深く頭を下げた。
「し、失礼します」
「あ、アミラさん、待って」
呼び止めたものの、次の言葉が出てこなかった。
アミラはもう一度頭を下げ、足早に教室を出ていった。
扉が静かに閉まった。
セレナはじっと、閉じた扉を見つめていた。
教卓には、今日の授業で使った資料が広がっている。
生徒たちから出た質問。
それに対する答え。
次の授業で取り上げるべき問題。
どれも、きれいに整理されていた。
セレナは資料を重ねた。
一枚目の端に、小さく書き込まれた文字があった。
『一人ひとりの立場を考える』
今日の授業のために、自分で書いた言葉だった。
セレナはその紙を、ほかの資料の下へ入れた。
黒板には、まだ『暮らし』という文字の一部が残っていた。
黒板消しを手に取る。
消しかけて、手が止まった。
廊下から、生徒たちの笑い声が聞こえてきた。
セレナは再び黒板消しを動かした。
アミラは、廊下を早足で歩いていた。
窓の外では、朱雀祭に向けた練習が続いている。
炎が上がり、水が弾ける。
誰かの歓声が聞こえた。
アミラは足を緩めた。
天才セドリック。
子供の頃から、何度も聞いた名前だった。
奴隷制度をなくした英雄。
たくさんの人を救った人。
その冒険譚を、アミラも好きだった。
今日の授業だって、嫌ではなかった。
知らなかったことが、たくさんあった。
もっと聞きたいこともあった。
けれど、先生は自分を心配していた。
ほかの生徒には尋ねなかったことを、自分にだけ尋ねた。
アミラは、胸に抱えた教科書を見下ろした。
歴史の授業が好きだと言えば、よかったのだろうか。
でも、あのときは、うまく言えなかった。
窓の外で、誰かが転んだ。
仲間たちが笑いながら手を差し伸べている。
アミラは静かに、その光景を眺めていた。
やがて教科書を鞄にしまい、廊下を歩き出した。
次の歴史の授業でも、いつもの席に座るつもりだった。
---第12話完---




