第10話 幻術師の忘れもの
翌朝。
レオンは学園長室に呼ばれていた。
「昨日の理事会で、君の少人数指導を継続することが認められました」
マッテオは机の上の書類を揃えながら言った。
「それはありがたいですね」
「ただし、指導内容と成果については、定期的に報告していただきます」
「もちろんです。私自身、記録を残すつもりでしたから」
「それから、もう一つ」
マッテオは顔を上げた。
「朱雀祭の件も、正式に承認されました」
「おや、そうでしたか」
「過去に入賞経験のない生徒だけで、神舞戦ベスト4。条件は以前お伝えしたとおりです」
「ええ。覚えていますよ」
レオンは白縁の眼鏡を押し上げた。
「では、そろそろ本格的に準備を始めないといけませんね」
「……ずいぶん落ち着いていますな」
「そうですか?」
「簡単な条件ではありませんぞ」
「ええ。だからこそ、面白いと思うんです」
マッテオは、しばらくレオンの顔を眺めていた。
やがて、小さく笑った。
「なるほど。宰相閣下が気にかけるわけですな」
「何かおっしゃっていましたか?」
「いえ、こちらの話です」
マッテオは書類を置いた。
「それで、チームの編成については、何かお考えが?」
「一つだけ、お願いがあります」
「何でしょう」
「生徒たちには、自分の意思で参加を決めてもらいたいんです」
「ほう」
「私が選ぶだけでは、チームにはなりませんから」
マッテオはゆっくりと頷いた。
「よろしいでしょう。生徒の意思を尊重することに、異論はありません」
「ありがとうございます」
レオンは頭を下げた。
学園長室を出ると、廊下の向こうから生徒たちの声が聞こえてきた。
朱雀祭までは、まだ時間がある。
だが、その時間が十分かどうかは、これからの指導次第だった。
その日の放課後。
アルタンは、実習室の机に向かっていた。
机の上には三つの木箱が並んでいる。
「では、今日は一つずつ確認していきましょう」
レオンが言った。
「まずは箱を一つ増やすだけで構いません。昨日はなんだか難しくしすぎましたから」
「うん」
アルタンは頷いた。
木箱に手をかざす。
輪郭が揺らぎ、四つ目の箱が現れた。
「できましたね」
「……そうじゃの」
「では、今度は私が右の箱を見ている間に、左の箱を増やしてみましょう」
「右を見ちゅう間に、左?」
「ええ。相手の注意が向いていない場所に幻を作る練習です」
アルタンはレオンの顔を見た。
それから木箱に向き直った。
右。
左。
レオンの視線。
箱の位置。
幻の形。
アルタンは手をかざした。
左の箱がぼんやりと揺らいだ。
四つ目の箱が現れかける。
その瞬間、レオンが視線を動かした。
幻が消えた。
「あっ」
「惜しいですね。今度は、私の視線が動いても幻を維持してみましょう」
「……うん」
アルタンはもう一度試した。
今度は箱が現れた。
しかし、蓋がなかった。
「形にも意識を向けてください」
アルタンは頷いた。
蓋を作る。
すると、箱の底が消えた。
「……あれ?」
もう一度。
箱はできた。
だが、今度はレオンの視線を見失った。
「一度に全部を考えなくても大丈夫ですよ」
レオンは穏やかに言った。
「順番に整理してみましょう」
アルタンは木箱を見つめた。
順番。
何を先に考える。
どこを見る。
何を作る。
何を維持する。
頭の中に、考えることばかりが増えていく。
以前は、こんなことを考えなかった。
誰かを驚かせようとすると、勝手に面白いものが浮かんできた。
その面白いものを、ただ見せればよかった。
「先生」
「はい」
「これができるようになったら、わしの幻術は上手くなるがか?」
「ええ。相手の注意を意識できれば、できることが増えますよ」
「……そうか」
アルタンは、もう一度手をかざした。
四つ目の箱は現れなかった。
数日後。
アルタンは中庭で、一年生に呼び止められた。
「アルタン先輩!」
「なんじゃ?」
「この前のお菓子、また降らせてください!」
アルタンは顔を上げた。
以前、購買部の前で披露した幻術だった。
空から色とりどりの菓子が降ってくる。
手を伸ばすと、指先に触れる前に消えてしまう。
それだけの幻術だ。
「ええぞ」
アルタンは右手を上げた。
指先に光が集まる。
いつもなら、ここから菓子が降ってくる。
ところが。
目の前の一年生は、アルタンの手を見ていた。
ならば、最初の菓子は頭上に作った方がよい。
いや、先に手元へ注意を引きつけてから、頭上へ移すべきか。
その場合、どのタイミングで。
光が揺らいだ。
小さな菓子が一つ現れ、落ちる前に消えた。
「あれ?」
一年生が首を傾げた。
「もう終わりですか?」
「……ちょっと待っちょき」
アルタンはもう一度、手を上げた。
今度は頭上に光が集まった。
菓子が三つ現れる。
一つ目が消えた。
二つ目は形が崩れた。
三つ目は、落ちてこなかった。
アルタンは手を下ろした。
「……今日は調子が悪いき」
「そうなんですか」
「また今度の」
「はい!」
一年生は走っていった。
アルタンはぼぉーと、その場に立っている。
誰もいなくなった中庭で、もう一度だけ手を上げた。
今度は、菓子が一つも現れなかった。
アルタンは自分の指先を見た。
何もない。
いつもなら、ここに何かがあった。
小さな鳥でも、花でも、銀貨でも。
思いついたものが、何でも。
アルタンは手を握った。
その日の夕方。
学長マッテオは、廊下の窓辺で二人の姿を見かけた。
若い職員が、窓辺の台を覗き込んでいる。
その隣には、アルタンが立っていた。
「アルタン君、ここにあった銀の重しを見ませんでしたか?」
「いや、見ちょらんのう」
「さっきまで、ここに置いてあったんですが……」
アルタンも、台の下を覗いた。
「何かお探しですかな?」
マッテオが尋ねた。
職員が振り向いた。
「あ、学長先生。書類を留める銀の重しが見当たらなくて」
「ほう」
「ここに置いておいたんですが……」
マッテオは窓辺を覗き込んだ。
「それは困りましたな」
アルタンも台の上を見た。
何もない。
マッテオはとぼけた笑顔を浮かべ、
それから、ふと自分の袖口を見た。
「おや」
袖の中から、小さな銀の重しが出てきた。
「えっ?」
職員が目を丸くした。
「どうやら、わしが持ってきてしまったようですな」
「学長先生が?」
「いやはや。年を取ると物忘れが増えて困ります」
マッテオは重しを渡した。
「失礼しました」
「い、いえ。見つかってよかったです」
職員は頭を下げ、足早に去っていった。
アルタンは、マッテオの袖を見つめていた。
「……学長先生」
「何ですかな」
「今の、どうやったが?」
「何のことでしょう」
「袖から重しが出てきたやつじゃ」
「重しなら、ここにありましたぞ」
マッテオは空になった袖を振った。
何も落ちてこない。
「いや、そうじゃのうて……」
アルタンは眉を寄せた。
マッテオは穏やかに笑った。
「不思議なこともあるものですな」
そう言って、歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってつかあさい!」
アルタンは慌てて後を追った。
中庭のベンチに、マッテオが腰を下ろした。
アルタンはその前に立っている。
「もう一回、見せてくれんかの」
「何をですかな?」
「さっきのやつじゃ!」
「困りましたな。わしにも、どうして袖に入っていたのか分からんのです」
「そんなわけないじゃろ!」
「そうですかな」
アルタンはマッテオの袖をじっと見た。
袖口は広い。
あそこなら、小さな重しを隠すことはできる。
だが、いつ隠した。
職員が探し始める前か。
それとも、探している間か。
「……最初から持っちょったんか?」
「そうかもしれませんな」
「ほんで、職員さんが探しちゅう間に出した?」
「なるほど」
「じゃが、それなら……」
アルタンは口を閉じた。
さっき、マッテオは窓辺を覗き込んでいた。
そのとき、袖はどうなっていた。
右手はどこにあった。
アルタンは思い出そうとした。
だが、はっきりしない。
「……もう一回じゃ」
「残念ですが、今日はもう用事がありましてな」
マッテオは立ち上がった。
「ええっ!」
「また機会があれば」
そう言って、歩き始める。
アルタンは不満そうに、その背中を見送った。
しばらくして、ふっと笑った。
「……絶対、見破っちゃる」
アルタンは自分の袖を見た。
試しに、小石を一つ拾って入れてみた。
袖を振る。
小石は地面に落ちた。
「……そう簡単にはいかんのう」
もう一度、小石を拾った。
今度は袖口を押さえて、手のひらを開いてみる。
これでは、隠しているのが丸分かりだ。
アルタンは首をひねった。
右手にあると思わせて、左手から出したらどうじゃろう。
いや、いっそ、背中から出してみるか。
アルタンは小石を握り直した。
翌朝。
レオンは職員室で、アルタンの指導記録を見返していた。
箱を増やすことはできる。
注意の誘導を意識させると、幻の維持が不安定になる。
難易度を下げても、改善は限定的。
レオンはペンを置いた。
「どうしたものですかね……」
隣の机で書類を整理していたセレナが顔を上げた。
「アルタン君のこと?」
「ええ。どうも、思うように進まなくて」
「珍しいわね。あの子、幻術なら何でも楽しそうにやるのに」
「そうなんです」
レオンは頷いた。
「ただ、最近は簡単な幻術でも失敗するようになってしまって」
セレナは手を止めた。
「それ、練習のときだけ?」
「いえ。普段も調子が悪いようです」
「そう」
セレナは髪をかきあげながら考え込んだ。
「ねえ、レオン先生」
「はい」
「アルタン君、授業の外ではどんな幻術を使ってるの?」
「以前、購買部の前で見たときは、お菓子を降らせていましたね」
「最近は?」
レオンはじっくりと思い出してみる。
「……授業で使っているところばかり、見ていました」
セレナは頷いた。
「私、昨日、中庭で見かけたの。一年生に何か見せようとしていたけど、うまくいかなかったみたい」
「そうでしたか」
「その後も、自分の手を見ながら、ずいぶん考え込んでたわ」
レオンは指導記録を見つめ直した。
成功。
失敗。
課題。
改善点。
そこには、アルタンの幻術について、細かな記録が残っている。
だが、あの子が何を見せようとしていたのかは、書かれていなかった。
その日の昼休み。
アルタンは購買部の前にいた。
数人の生徒が集まっている。
「ほら、よう見ちょきよ!」
アルタンの手のひらに、一枚の銀貨が乗っていた。
指を鳴らす。
銀貨が二枚になった。
「おおっ!」
「まだまだじゃ!」
もう一度指を鳴らす。
銀貨が消えた。
「あれ?」
生徒たちが首を傾げる。
アルタンは両手を広げた。
「どこへ行ったと思う?」
「右手!」
「左手!」
「ポケット!」
アルタンはにやりと笑った。
「全部、外れじゃ!」
見物人の一人が、自分の肩を見た。
そこに、小さな銀貨が乗っていた。
「うわっ!」
どっと場が沸き返る。
アルタンは声を上げて笑った。
人だかりの端で、栗色の髪の少女が、驚いて手帳を落としていた。
その笑い声を聞きながら、レオンが廊下の端に立っていた。
銀貨の幻は、決して複雑なものではない。
だが、見物人の視線は見事に誘導されていた。
アルタンは最初から、誰がどこを見るかを計算していたのだろうか。
それとも、目の前の反応に合わせて、自然に変えていたのだろうか。
レオンには分からなかった。
ただ、実習室で見せる幻術とは、ずいぶん違っていた。
そのとき、廊下の向こうからマッテオが歩いてきた。
「おや、レオン先生」
「学長先生」
「賑やかですな」
「ええ。アルタン君が幻術を披露しているようです」
「ほう。それは楽しそうですな」
マッテオは人だかりを眺めた。
アルタンが再び指を鳴らす。
今度は銀貨が小さな鳥になり、羽ばたきながら飛んでいった。
生徒たちから喝采を浴びる。
「なかなか見事ですな」
マッテオが言った。
「そうですね」
レオンは頷いた。
穏やかな笑顔で、マッテオが尋ねた。
「指導の方は、いかがですかな」
「……難しいですね」
「ほう」
「思っていたようには進んでいません」
「そうですか」
マッテオはそれ以上、何も尋ねなかった。
二人はしばらく、アルタンの幻術を眺めていた。
やがて、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
生徒たちが散っていく。
アルタンも銀貨をしまい、教室へ向かった。
レオンは、その後ろ姿を見送った。
放課後。
アルタンが実習室に入ると、机の上には何もなかった。
いつもの三つの木箱がない。
アルタンは立ち止まった。
「……先生?」
「こんにちは、アルタン君」
レオンは椅子から立ち上がった。
「今日は、ちょい予定を変えようと思います」
「予定?」
「ええ」
レオンは机の上に、一枚の銀貨を置いた。
「今日の昼休み、購買部で見せていた幻術がありましたね」
「……ああ」
「よければ、あれをもう一度見せてもらえませんか」
アルタンは銀貨を見た。
「それだけでええがか?」
「はい」
「箱は?」
「今日は使いません」
「視線を動かす練習も?」
「しません」
アルタンはきょとんと不思議そうな顔をした。
「……ほんなら、何をするが?」
レオンはニヤリと笑顔になる。
「私を驚かせてください」
アルタンは顔を上げた。
びっくりしたように、レオンを見つめる。
それから、ゆっくりと銀貨に手を伸ばした。
「……先生」
「はい」
「ほんまに、何をしてもええが?」
「ええ。ただし、安全な範囲でお願いしますね」
アルタンは銀貨をつまみ上げた。
指先でくるりと回す。
それから、にやりと笑った。
「ほんなら、よう見ちょきよ」
レオンは頷いた。
アルタンの右手が動いた。
銀貨が消えた。
レオンは思わず、その手を見た。
次の瞬間。
「先生、後ろじゃ!」
レオンが振り向く。
そこには、何もなかった。
「……あれ?」
振り向き直ると、アルタンが笑っていた。
その手には、銀貨が一枚。
「引っかかったのう!」
レオンは目を丸くした。
そして、笑った。
「これは一本取られました」
アルタンは得意げに銀貨を掲げた。
その表情は、久しぶりに見るものだった。
レオンは椅子に腰を下ろした。
「では、もう一度お願いします」
「ええぞ!」
アルタンは袖をまくった。
レオンは、今度こそ見破ろうと身を乗り出した。
---第10話完---




