第18話 カトゼ大神宮へ その2
「ふふ…………」
アレが絡む事で、すぐに絶やされる温和な表情。にも拘らず、今の彼女にそんな様子は微塵もない。それどころか、その横顔から汲み取れる表情は、未だかつて見たことがないほどの、慈愛に満ち溢れている。
艶やかな口許は、より柔らかそうに緩み、こぼれた笑みが微かに聞こえた。そして、その眼差しは何とも優しそうに細めれらている。見つめる先は、自分の膝上に置かれた夫の顔。
彼女――シヴァルイネは、先程の騒動の近くにある長椅子に座り、その膝の上に夫であるゴトキールを寝かせていた。背負っていた武器は、側の柱に立て掛けてある。腰にあった小太刀や手斧などは、その下。綺麗に並べて置かれていた。
夫の顔は、遠目ではあるが先程より腫れも引いて、人の顔には見えている。血痕もないか。綺麗に拭き取られているようだ。しかし、目を瞑って動かないところを見ると、やはりまだ起きてないらしい。
彼女は、着けていた手甲を取り外して脇に置き、その顔を――いや頭を、少し首を傾げてゆっくりと撫でている。これは、愛おしそうに――、とでも言うべきなんだろうな……。あの仕草は私にそう印象付け、二人を包み込んでいるかのようだ。
と、まあこんな感じなのだと思う。私にはね。断言できないのは、やはり俄かには信じられないからだ。
うーん、しかし参った……。どうしたものか……。彼女たちの姿が、小さめに見える廊下の曲がり角。そこから、半分だけ顔を出して覗いていた私は、その顔を引込めると、音を立てないよう静かにしゃがみ込んだ。
シカルアヒダを護衛している近衛騎士たちの所へ赴き、労いの言葉を伝えた後。私は、ゴトキールが逆さ吊りにされていたこの場所へ戻ってきていた。シヴァルイネたちはそのままいると、近衛騎士に聞いたからだ。
で、戻ってきたのは良いのだが、この廊下の角を曲がった瞬間、あのような光景に遭遇してしまった。そして、これはやばいと、咄嗟に身を隠したのだ。しかし、何故このような真似をしなければならないのか。それにはもちろん理由がある。いやまあ、分かりきった事だが、これ下手に声を掛けると――。
「ゴトキールは死ぬな……」
いきなりそんな事をすれば、慌てたシヴァルイネは、恥ずかしさのあまり焦ってその原因を隠滅しようとする。つまり、あのおっさんに勢い余って酷い事を――。それが、今度こそ致命傷となり、止めを刺す事になるだろう。彼女の性格や、今までの行動を鑑みるに、そうなる予感がしてならない。私は、何気にその命運を握ってしまったのだ。
ホント、どうでもいいんですけど。そんな命運、お空の彼方にポイしたいんですけど。とはいえ、自分が原因で、あのおっさんが死んだって事になると、ねえ……。
恐らく、トゥアール王国の長い歴史の中でも、そんなアホみたいな死に方をした近衛騎士はいないだろう。そして、その死が現実のものとなれば、誰もが口を噤み、それは近衛騎士隊の闇の歴史にのみ、記されることになるのだ。あのアホ騎士団と同じく。
「しっかし、シヴァルイネってあんな顔するんだなあ……」
もう一度、角から顔を出す。はあ、幸せそうにしちゃってさあ、もう……。本当に初めて見た。彼女は、夫以外なら、大抵温和で優しい面持ちをしているが、それとも全く違う。同じ優しげな表情なのに、そこには明確な差があった。
もしかすると、夫であるゴトキールにさえ、見せた事がないんじゃない? 元よりあの性格だ。膝枕も照れてしそうにないよね。出来るのは、気絶しているからこそではなかろうか。で、それを私が見ているわけだが……。
いや、ていうかさ。ていうかさあ! 時と場所を考えなさいよ! どういった経緯で、ああなっているのかは知らないが、ここはシドー先生の研究所で、襲撃のあった場所なんだぞ。そういうのはね、自分の家でやりなさい、自分の家で。ったく……。
シヴァルイネって、シビアナみたいにああいう惚気たの、しないと思ってたんだけどなあ。基本、夫には厳しいし。良くて、さっきみたいに、恥ずかしがるぐらいだと思っていた。
他にも訳がある。彼女は、清廉潔白、品行方正、質実剛健といった言葉が良く似合う、カトゼのお手本になるような家柄なのだ。彼女自身もそう。礼節を非常に重んじ、礼儀作法に対しても厳格。人前では勿論、そうでなくても、たわやかな所作を崩さないと聞いていた。それは、男女――まあつまり夫婦の付き合い方にも言えることだ。
奥ゆかしかったんだよ、私の感想としては。シビアナたちとは正反対というかさ。常に一定の距離を取っているような感じか。手を握るなんて有り得ない。お触り厳禁なのである。実際、夫婦で会えば今までそうだった。
彼女の肩に、手でも置こうとすれば、きつい一発を食らってたし、だからというのもあったのだ。しかし、どうやらそれは、私の思い違いだったらしい。
手を繋ぐのを通り越して、膝枕だもの。人目もないし相手が眠っているとはいえ、外でそんな風にいちゃこらしてるんじゃあ、シビアナたちと変わらないって。
ふーむ……。もしかすると――。ゴトキールも見た事ないのではとか思ったが、意外と家だと、いつもああなのかもね。それで、周りに誰もいないし、その調子がひょっこり出てきたとか。
ここは、邸宅を挟んで中庭の反対側に当たる。中庭ほどではないが、花壇が並ぶ細長い庭があり、その先には外壁が見える。長椅子は、そんな庭が見渡せる軒下に置かれていた。そこに朝日が差し込み、彼女たちが座っている。平穏な休日の朝の風景そのものだな。まあ、ここが他人様の家で、襲撃があった場所でなければだが。
月鏡院は、殆ど中庭にいる。シカルアヒダと近衛騎士は二階だ。しかも真上ではなく、これまた反対側にいる。中庭よりさらに向こう側。そして食堂はその下。よって、ここはちょっとした死角みたいになっているのだ。案外、彼女もそれが分かって、気を抜いたのかも。
いや、こんな事を考えている場合ではない。本当にどうしよう。ローリエの事もある。あいつらに感けていないで、さっさと正門に行きたいんだが……。
再び顔を戻した私は、腕を組み思いを凝らす。ここを後回しにして、先に至極天を取りに行くか? うーん。でも、その間に誰かがここを通り掛かっても、同じ事だよね。
対策が練れる分、私が何とかした方が良いよなあ……。他の者では、恐らく無理だろう。いきなりあんなのに遭遇しても、何もできない。シビアナなら、どうとでもしてくれそうだが、探している間にってなるから同じだよなあ。もう一人来るまで待つかね?
「いいじゃん、別にそんな事」
不意に、魅惑的な声が囁かれる。これは、我が乙女心の一つ『無邪気な悪戯っ子』――。
「それよりもさ、シヴァルイネの背後取っちゃいなよ。気配消してさあ。お前なら、あいつでも余裕だろ?」
その誘惑に、心をくすぐられる私。ぴくりと食指が動く。
「でさ、後ろから『わっ!』って叫ぶんだ。きっと、すっごい驚くぞ? 『きゃあああ!?』って感じでな。それ見てみたいだろ、なあ? くっくっくっ……」
確かにその通り。実は、それをやってみたいと、さっきから思っていた。しかし、その標的はカトゼの武人。先程から懸念しているように、ただの悪戯では済まなくなる。一人のおっさんの死に、直結してしまうのだ。だから、躊躇っていた。
「何、大丈夫さ。ゴトキールは、あれでも我が国最強の騎士である近衛騎士。その隊長だ。しかも、以前はイージャンと同じ副隊長でもあったわけよ」
これは、イージャンが近衛騎士になる前の話になる。副隊長の前々任者は、ゴトキールだったんだ。そして、近衛騎士の副隊長というのは、その中で一番強い者が慣例的に就任している。
だから、今この二人がやり合ったら、やはりいい勝負をするだろうね。十回の内、三、四回はゴトキールが勝ちそうだ。
「そうそう。それに、慣れたもんさ。自分の妻の攻撃なんてな。だから、いくら受けようとも、平気へっちゃら。死ぬなんて事はないって」
まあ、よく生死の境を彷徨っているからな。それで、かなり頑丈になったらしいし。そっか……。私の考え過ぎだったんだな。だったら問題ない。何も気にせず、軽い感じで背後から声を掛けてやるか。
「よおし、それでいい。さあ、やろうぜ。けっけっけっ……」
そうだな。けっけっけっ……。私はすっと立ち上がる。そして、「行け行けー! やれやれー!」と応援されながら、足音を立てないよう静かにそろりと歩き始めた。
「止めよ、愚か者」
角から出ようとした瞬間、また違う声が心の中に響いてくる。しかし、今度は堂々とした物言いだ。こ、これは――!?
「げっ!? お前は――!?」
『無邪気な悪戯っ子』も戦くこの声は、我が乙女心「シビアナの悪逆非道を許さないし、絶対忘れないの会会長」――、『乙女の純心』!
「リリシーナ。お前は知っているはずだ。背後からいきなり声を掛けられ、ビックリする者の心の痛みを」
はっとする私。
「それなのに、自らその手を悪に染めようというのか? 道を踏み外そうというのか? あのアホのように――」
そう言われると、自分がやられた時の事が思い出されていく。全身が飛び上がるような体の反応。その後に来る、あの肝がつぶれたような感じ。そして、振り向いた先にある、あの憎たらしい顔――。その時感じたあの悔しい気持ち――!
そうだ。何を考えていたんだ、私は。自分がされて嫌なことは、他の人にしてはならない。あんな人間に、シビアナのようなアホに、なってはいけないのだ! 危ない所だった。このまま行けば、目的のためなら天井も平然と破壊する、悪の王女になってしまう所だった。
ごめん。私が間違っていたよ、『乙女の純心』。ここは知らんぷりをする。彼女の名誉を守ろうじゃないか。それに、これからカトゼに行って、色々面倒を掛けることになるしね。
そうだな――。後ろに下がって、彼女の名前を呼びながら歩いてこよう。あっちも気づいて、立ち上がるなり出来るように、余裕を持ってゆっくりとね。そうすれば、ゴトキールは死なずに済むはずだ。そして、その後は何も気付かない振りをし、そのまま連れ立ってさっさと中庭に向かえばいいだろう。
「うむ、流石は私。大切なことを思い出したようだな。よし!」
『乙女の純心』は、満足げにそう言うと、『無邪気な悪戯っ子』に右の掌を向ける。
「くっ!? ま、待て――!」
「待たぬ! 悪よ消え去れ! シドー流奥義、空隙籟掌!!」
空震音叉の根源となる力は、『拍動』と呼ばれている。空隙籟掌は、その『拍動』を十二に大別したものの一つ――『白壱越』を瞬時に高めたもの。
掌に集めれば、それは重い金属にぶち当たるような衝撃を発し、相手を吹き飛ばしてしまうのだ! まあ、この奥義はそう言うだけあって、衝撃が強すぎる。だから、大抵のものは、吹き飛ぶのと木端微塵になるのが同時になるけどね!
大砲の弾を、至近距離でぶつけた感じに似ているかな? 一応、向きもつけれるし。ただ、距離が開くと効果はかなり下がるから、あくまで近接用だ。
向きをつけるには、『畳扇』という技を用いている。『拍動』は基本、水紋のように周囲へ万遍なく広がり、それが珠のようになってそして消える。これが繰り返されていく。
『畳扇』はその名の通り、扇を折り畳んでいく様に、『拍動』を一方向へ絞って纏める感じ。だから、自分に向かって衝撃が来ない。
「お、おのれええ! ぐああ――!?」
『無邪気な悪戯っ子』の顔が歪む。そして、『白壱越』特有の、お腹に響くような重い衝撃音が、断末魔の叫びのようなその声をかき消していく。私の心にあった邪念は消滅。浄化された。正義が勝ち、悪は潰えたのだ。ありがとう、『乙女の純心』。じゃ、心の声とも向き終わったところで、ちゃちゃっとやりますかねー。
私はくるりと踵を返す。音を立てないよう注意しながら、気配を殺して元来た廊下の奥へと向かって行った。結構離れたと感じるのに時間は掛からない。振り向けば、既に曲がり角が遠くに見える。このくらいでいいだろう。
「シヴァルイネー!」
のんびりした感じで、抑え気味に叫んだ。あんまり大きな声だと、ここからでもビックリするだろうからね。それでは、意味がなくなってしまう。焦って証拠隠滅だ。急いだ風でも同じ事。だから、間延びしたようにして、徐々に大きくしていく。これに則り、
「シヴァルイネー! どこだー!」
今度は少しだけ強くした。そして、ゆっくりと元いた廊下の角へと戻っていく。途中、足踏みしたり止まったりして、時間を稼ぎながら叫ぶ。そうしている内、最初に叫んでから時間は経った。これなら、気付いて慌てても、彼女なら落ち着きを取り戻せる。立ち上がって武器を背負うくらいはあるだろう。それくらいは稼げたはずだ。
まあ、念には念を入れて、もう少し叫んでおくか。そう思いもう一度だけ叫んでおく。
「おーい。どこだー?」
よし、これだけやれば良いだろう。しかしそれでもと、万全を期して少し間を置いてから、廊下の角を曲がる。そして、偶然を装った気軽な感じで声を掛けた。
「ああ、ここにいたのか。シヴァ、ル、イ、ネ……」
目の前に現れたその姿を見て、言葉が途切れていき、それにつれ歩みも止まっていく。
私は思っていた。この角の先には、彼女がゴトキールから離れ、長椅子の傍にでも立っていると。武器も装備し直して、まあでもちょっとは、挙動不審になっているかなあぐらいには思っていた。
しかし、そのような事は一切なかった。予想に反し、そこにあったのは、先ほどと変わらぬ姿。長椅子に座り、夫を膝枕した姿だった。どうやら、王女様のありがたい配慮は、その全てが無駄に終わってしまったらしい。私の声は、彼女たちの甘い世界に阻まれ、届いていなかったのだ。
「どんだけ夢中になってんだよ、お前は!?」
心の中で思いっきり叫ぶ。いや、おかしいだろう! それは絶対におかしいだろう! 最後の方は、結構大きな声で叫んだよね!? 何度も叫んだよね!? なのに、どうしてそれが全然聞こえてないの!? 気付けよ! カトゼの武人!
その立場としても、これはどうなんだろう。今なら私じゃなくても、簡単に不意を突けるんだよ? そんなに沢山武器を持っているのに、全く意味ないじゃん……。まあ、その武器は、殆ど外してるみたいだけどさ……。
ん……? でも、あれ? 何か、変じゃないか? 私は、差異がないと思っていたその姿に、違和感を感じて顔を顰めた。その違和感の正体は、すぐに分かる。顔だ。彼女の表情。これが、先程とは明らかに違っている。
目を細めているのは同じだが、何というかこうゴトキールみたいに、いやそれ以上にだらしなく垂れ下がっているような――。逆に口許は、にたりと上がっている気がする。そして、頬はほんのりと赤みを帯びていた。な、何あの顔……? ていうか、だらしない!? にたり!? いつも気品溢れる、あのシヴァルイネが!? ええええええ!?
あんな表情も初めて見る。その変わり様は、シビアナより酷い。とは言え、そもそもあいつは、私の前でも関係なく惚気るが、表情はそこまで変わらないのだが。しかし、シヴァルイネの方は、落差が激しすぎた。何らかの箍が、間違いなく外れてしまっている。あのままどこまでも流され、垂れていきそうだ。
あ、有り得ないぞ――! 私は両目を擦って、もう一度確認する。だが、やはり彼女のにたりとした顔は、だらしなかった。到底、淑女のするような顔ではない。
え、えーと……。やばい……。何かやばい領域に踏み込んでないか、私? そんな気配を感じて戦いていると、彼女のその口から、さらに有り得ないものが聞こえてきた。
「でへへ……」
でへへ!? え!? でへへ!? 今、でへへって言った!? 動揺する私。すると、彼女の目が瞑られる。そして、その体がお辞儀するようにゆっくりと倒れ始めた。お、おい。何をする気だ? ま、まさか、まさか――!
「ちゅうー」
ちゅう!? 今、ちゅうって言ってる!? シヴァルイネが、お酒に酔った昨晩のシトエスカと、同じことを言い出した。そう、つまりそれは――。
あいつ、ちゅーする気かよ! 何と彼女は、シビアナをも超える破廉恥行為――淑女にあるまじき接吻という暴挙に出た。しかも、口を尖らせて柔らかく膨らんだように見える、その唇が向かっている先は、おっさんの口許。どうやら口づけをする気らしい。最悪である。
お前、人がいないからって、流石にそれは駄目だろう! 流石にそれはやり過ぎだろう! ここをどこだと思っているんだよ! 研究所! シドー先生の研、究、所! 人様の家! お前の家じゃないんだよ!?
ていうか、見たくないんですけど! お前らのそういうの見たくないんですけどおおおおおおおおお!! 何かこっちまで、小っ恥ずかしくなってきた。しかし、そんな心の叫びは、勿論お構いなしに、どんどん姿勢が深く倒れていく。そして、もう口と口がくっつきそうになるまで、近づいたその時。
ぎゃああああ! やめれえええ――! って、あ、あら? 彼女はそれ以上動かない。その顔がそこでピタリと止まった。ど、どしたの?
私が訝しくその様子を見ていると、少し間をおいて尖った口が、遠慮気味にゆっくりと元に戻る。そして、ぎぎぎと音が鳴りそうなぎこちない動きで、その顔が私の方へと振り向き始めた。自分たち以外に人がいると、ようやく気付いたようだ。
いや、お前……。遅すぎるんだよ……。そして、完全に顔がこっちを向く。その顔は、血の気が引いて表情が固まっていた。
「えっと……」
どうしよう、目が合った……。見開らかれているから、何か怖い。こういう時、何て言えばいいんだろうか。どんな顔をすればいいのか。教えて、シドー先生……。
「あ、あ……」
シヴァルイネも、どうしたらいいか分からないようだ。言葉にもならない感じがひしひしと。しかし、自分の置かれている状況は分かっているらしい。蒼白だった顔が、一気に赤くなっている。これは先程より酷いか。もう既に限界は寸前。羞恥に耐え切れなくなってる。そういう感じだ。
そして、何とも間が悪い。
「んん……」
彼女の膝の上にある頭が、もぞりと動く。ゴトキールが目を覚ましました……。あー……。
「ん……。あれ……? シヴァちゃ――」
自分の名前を呼ばれかけて、はっとすると、私に向いていた顔が、膝元に素早く動く。そして、
「っきゃああああああああああ!」
羞恥心が限界を超えたのか爆発する。目を瞑って大声で叫びながら、脇に置いていた厳つい手甲を掴むと、すちゃりと装着した。
「え?」
起きたゴトキールは、ぼんやりとした様子が抜けていない。どうして叫んでいるのか、どうして手甲を嵌めたのか、理解出来ていないようだ。そこへ、
「いっやあああああああああ!!」
あらん限りの力を込めたような凶拳が、おっさんの鳩尾あたりへ襲い掛かる。お辞儀をするように上半身も使いながら、勢いよく振り下ろされた。
「ごっぼおう!?」
痛そうな衝突音とともに、体の中に溜まった息を、無理矢理全て吐かされたような声が噴き出す。そして、衝撃の振動が響いたのか、辺りの石畳の床がぶれて砂塵が飛び上がる。と同時に、その体が長椅子ごと砕かれた。ゴトキイイイイイイイイイル!
椅子の方は、木製なのもあって、ばっきばきになりながら、真っ二つだ。シヴァルイネが立ち上がり、おっさんは転がり落ちると、そのまま二回三回と転がっていく。仰向けになって止まったが、微動だにしない。
私には、今の一撃で再び気を失っているように見える。ぐっとりとしているのもあるが、白目を剥いてるし。彼女は、横たわっているその前で跪く。良かった、気が済んだし介抱でもするのか、と思いきや、
「いや! いや! いや! いや――!」
と、左右の拳を何度も何度も執拗に、鳩尾へと打ち込んでいった。ゴトキイイイイイイイイイル!! 非常に鋭い突きの連打。鎧を身に着けていなければ、悉く致命傷だろう。代わりにその鎧が、めり込む拳の形に凹み歪んでいく。
もう十分だ。もう十分、おっさんは隠滅できた。しかし、彼女の暴走は治まらない。連撃を止めると、すかさずその両手で襟元を掴み、持ち上げる。
そして、己の体を捻り右足を大きく上げて――、踏み込んだ。捻りの力が加わった両腕を振り回しながら、その体をお空の彼方へと投げ放つ。二階を超え三階くらいはありそうだ。真上へと高く上がっていった。そして、ゆっくりと頭から落ち始める。
その落下場所には、既にシヴァルイネが待ち構えていた。近くの柱に立て掛けておいた大太刀の柄を、右手で握り納刀したまま下段。左手には鞘に巻かれた注連縄の太刀緒だ。そして、ゴトキールが、地面に落ちる寸前、叫びながら飛び掛かる。
「いっっっっやああああああああああ!!!」
あ、あの技は――! それは、一瞬の出来事であった。シヴァルイネが、鞘ごと大太刀を地面すれすれから振り上げ、ゴトキールの肩にぶち当てる。
その衝撃により、落下が止まり体が浮く。瞬間、彼女は太刀緒を離し、鞘を横から引き裂くように刀身を抜き出した。この大太刀の鞘は、口から先端にかけて一直線にぱっくりと割れている。そこからだ。
あの大太刀は長過ぎる。背負っている時、普通の刀のように抜刀が出来ないため、あのように鞘の一方が裂けている。真剣を取り出した彼女は、ゴトキールを背にし、自身の体を振り向くように捻りながら、両手で横薙ぎに回し始めた。
長い刀身が、朝日を浴び一瞬弧を描いて光る。直後に響く、金属が弾け飛ぶような音。ゴトキールの胴回りの鎧に刀が直撃。砕けたのだ。おっさんは、外壁目掛けて一直線。物凄い勢いで吹き飛ばされていった。
そして、轟く破壊の音。外壁が爆発するように砕け、粉塵の煙を伴って四散した。グ、グオ――、グオートキイイイイイイイルウ!! (ゴ、ゴ、ゴトキール!!)
シヴァルイネの放った連続斬り。あれは、カトゼ刀神流『鞘流し』という。変則の『祓閃』の一種だ。まず、納刀した鞘ごと斬り掛かり、一撃目を当てる。それで相手が倒れれば、それでよし。倒れず受ければ、その瞬間、抜刀して二撃目を加える。
そして、この二撃目が『祓閃』だ。刀を鞘から引き抜き様に斬るのを、如何にして素早く行うか――これを主眼とした抜刀術。そのため、横から引き出せるあの大太刀は、この技と少し意味合いが違うか。
しかし、引き抜くその動作を、殆ど必要としないから、上手くすれば不意を突ける。そして、姿勢を変えずに、すんなりと二撃目へと移れるのは大きいだろう。今回、彼女は振り回したが、大抵は手首だけを捻って刀を回し、即座に薙ぐ。
あと、この『鞘流し』は、普通の刀でも出来る技だが、気を付けなければならない事がある。それは、鞘や下緒を持つ必要が出てくる場合があるという事だ。突きを当てれば、その可能性は少ないが、振りが早過ぎると、鞘が飛んで行ってしまう。彼女もそれを防ぐため、太刀緒を握っていた。
しかし、その振りの早さを逆手にとって、有効に使っている。太刀緒を緩めに持ち、鞘が飛んでいく手前で当てて、刀身を少し引き抜いていた。
あの大太刀は、その根元にある鈨と鞘の先端の鐺で固定されているため、鞘から少し外れないと、刀身を引き出せない。それを、最小限の動作で行えるように、振りの早さを利用しているというわけだ。
「はあ、はあ、はあ――」
肩で息をしているシヴァルイネが、大太刀を鞘に納めた。私は、それを背後から眺めている。あわわわわ……。ど、どうしよう。え? やっぱり、これって私のせいなの?
ゴトキールは死んだ。私の努力空しく、あのおっさんの命運は変わらなかったのだ。これで、闇の歴史にその最期が密やかに綴られることになるだろう。
「ふー……」
息を整え終えたのか、最後に一つ大きく息を吐き出すと、彼女の雰囲気は静かになった。そして、襟元を直して、こちらに振り向いた。その顔は、いつも見る穏やかな面持ち。
「姫様。朝食の方、取り終えられたのですね?」
お前は、夫の命の方を、取り終えてるっていうか、殺り終えちゃってますけどね!
「では、参りましょうか」
「え!? いやいやいやいや!」
何事もなかったように、この場を去ろうとする淑女。淑女? それに頭と手を振り、待ったを掛ける。流石に、あれをあのまま放置することはできない。すると、背後から誰かが廊下を走る音が、聞こえてくる。
「何事ですか!?」
廊下の角から現れたのは、焦った様子のイージャンだった。
「あ、イージャン……」
「で、殿下?」
私の姿を見て、困惑した様子に変わる。恐らく、特段どうという事もなく、平然としているからだろう。
「あ、あれ?」
納得できないのか、少し首を傾げる。それを、私に問いかけてきた。
「で、殿下……。あの……」
「ん?」
「今、叫び声や何かが壊れるような……、大きな音が聞こえてきたのですが……」
「え? う、うん……。あー……。いや……」
これは――。どう説明すればいいんだろうか? 「ゴトキールが死んだから、今からお前が隊長な」とでも言うべきなのだろうか? ああ、いや。それはちょっと酷いよね。もっと気遣いのできる、王女様としてのお言葉があると思うんだが――。
近衛騎士隊隊長の死。これについて、どう答えるか言葉選びに悩んでいると、イージャンの視線が後ろに移る。
「あ、シヴァルイネ様……」
他にも人がいると気付いた。これに、彼女は丁寧なお辞儀で返す。
「おはようございます、イージャン」
「は、はい。おはようございます……」
「今日は、良い天気になりそうですね」
「え? は、はい。確かに……」
完璧に、ゴトキールの事を無視するシヴァルイネ。しかし、ここで訝しげなイージャンが、はっと目を開く。気付いたか……。
「あの、シヴァルイネ様……」
「はい?」
「隊長は――」
そう言い掛けたイージャンの視線が、遠目になって動かなくなる。煙を上げる外壁へと移ったのだ。私もそちらに振り向く。
煙は、徐々に晴れてきた。やがて、その中から、外壁に突き刺さって腰から足だけとなった姿が、はっきりと現れた。その足は、ぐったりと垂れ下がっている。そっか、頭から突っ込んだのか。なら、そうなるよね……。
「た、隊長おおおおおおお!?」
流石は副隊長。あの足だけで、ゴトキールだと分かったようだ。急いでおっさんの墓標へと駆け寄っていった。シヴァルイネは、握った右手を口許に当て、ばつが悪そうに小さく「こほん……」と咳払い。
そして、彼のその声の後、すぐに月鏡院や近衛騎士たちが駆けつけてくる。私は、大事になったと顔を赤くして縮こまる淑女を尻目に、問題ないと彼らに伝え、その場を収める羽目となってしまったのである。やれやれ……。




