第八話 蛍
二日目の朝、夜叉と白夜は鬼王の阿黒羅に呼ばれ、朝食をともにすることになった。
部屋には、すでに王と紅葉が待っていた。
二人が入ると、紅葉の目が夜叉へ向く。
その顔を見た途端、頬に赤みが差した。
白夜はそれに気づき、隣を歩く夜叉を肘でつついた。
夜叉が振り向くと、白夜は紅葉へ目をやり、口元を緩めている。
夜叉は眉を寄せ、その肘を押し返した。
席に着いて朝食が始まってからも、紅葉の目は夜叉へ向けられていた。
箸を動かす手が止まり、結い上げた黒髪や、赤く縁取られた目元を見つめている。
夜叉が顔を上げると、紅葉は背筋を伸ばした。
「夜叉さま、白夜さま、昨夜はゆっくりお休みになれましたか」
夜叉は箸を置き、紅葉へ向き直った。
「ええ、ありがとうございます」
紅葉は笑みを浮かべた。
膳へ箸を置き、二人の顔を順に窺う。
「昨夜は、お二人とも部屋付きの者をお断りになったとか」
夜叉は頷いた。
「ええ、大切な方が待っておりますので」
紅葉の笑みが薄れた。
夜叉から目を外し、膝の上で両手を重ねる。
「そうですか」
伏せられた睫毛が、頬に影を落としていた。
やがて紅葉は息を吸い、顔を上げた。
口元へ笑みを戻し、二人を見渡す。
「本日は、街をご案内いたします」
夜叉は紅葉へ頭を下げかけた。
「そんなお気遣いは……」
紅葉の眉尻が下がった。
膝の上で指が重なり、黒い瞳が潤んでいく。
夜叉は眉を下げた。
隣の白夜へ目を向けた後、紅葉へ向き直る。
「ああ、では……ご案内をお願いしようかな」
紅葉の顔が明るくなった。
夜叉を見つめたまま、胸元へ両手を寄せる。
隣では、白夜が口元を押さえて俯いていた。
夜叉はその脇腹を、肘で小突き返した。
朝食を終えると、夜叉と白夜は紅葉に伴われ、街へ出た。
朝の通りには、荷を積んだ車や、籠を抱えた者たちが行き交っていた。
軒を連ねた店では戸が開け放たれ、店主たちが品を並べている。
巻いた布を肩に担ぐ者の脇を、空の荷車を引く者が通り抜けた。
車輪の音に、店先から飛ぶ呼び声が重なる。
紅葉は通りの先を示し、二人を振り返った。
「この先が市です。朝は特に賑わうのですよ」
通りを進むにつれ、行き交う者たちの肩越しに色とりどりの品が見えてきた。
浅い籠には果物が山と盛られ、その隣には口を折り返した穀物の袋が並ぶ。
軒先から吊るされた干し肉の下で、店主が客の差し出す銭を数えていた。
焼き物を並べる店もあれば、布を広げ、手触りを確かめさせている店もある。
女たちが布の端を指でつまみ、互いの顔へ当てては笑い合った。
その足元では、菓子を見つけた子どもが母親の袖を引いている。
炭火で炙られた肉から脂が落ち、煙が立ち上った。
香ばしい匂いに白夜が顔を向けると、店の男と目が合う。
男は白夜の白髪から、隣に立つ夜叉の黒髪へ目を移し、顔をほころばせた。
「おお、黒竜を討ってくださったお二人ではありませんか!」
その声に、近くで品を選んでいた者たちも振り返った。
紅葉の姿を認めて頭を下げる者に交じり、二人へ手を振る者もいる。
夜叉は男へ片手を上げた。
「今日は、姫に街を案内していただいている」
男は火の上から串を取り上げ、傍らの皿へ移した。
紅葉にも頭を下げ、笑顔で二人を見送る。
「どうぞ、ごゆっくり。腹が空いたら、お立ち寄りください!」
白夜も会釈を返し、夜叉とともに歩き出した。
数歩進めば、別の店先からも声がかかる。
夜叉はそのたびに顔を向け、紅葉も二人に合わせて歩調を緩めていた。
夜叉は通りを見渡した。
前に街へ戻った時は、押し寄せる者たちに囲まれ、店を眺める余裕もなかった。
今は、声を張る商人の顔も、品を選ぶ客の手元もよく見える。
脇の店から、金属を打つ音が響いた。
開いた戸の向こうで、職人が小さな金具を挟み、槌を振るっている。
店先には櫛や簪、帯留めが並び、磨かれた飾りに朝の光が走った。
紅葉は夜叉がそちらを見たことに気づき、足を止めた。
脇へ身を寄せて二人に道を空け、並べられた細工物へ手を差し向ける。
夜叉と白夜が店先へ近づくと、職人が槌を持つ手を休めた。
並んだ簪の中に、紫の石をあしらった一本があった。
夜叉の目が、そこで止まる。
石の奥に、こちらを見上げてくる闇の瞳が浮かんだ。
「これを、もらえるか」
職人は簪を取り上げ、布に包んで差し出した。
夜叉は代金を払い、包みを懐へ収める。
紅葉は、その手元から目を離さなかった。
「……その方への、贈り物ですか」
夜叉は懐へ手を当てたまま、頷いた。
「ええ」
紅葉は口元に笑みを作り、再び通りの先へ歩き出した。
その後ろで、白夜が夜叉の脇腹を肘でつついた。
その夜も宴が開かれた。
夜叉と白夜は、次々と差し出される酒を受け、祝いの席に付き合っていた。
宴を終え、夜叉が部屋へ戻ると、寝台のそばに紅葉が立っていた。
薄絹を羽織っただけの姿に、戸口で足が止まる。
紅葉は胸元で薄絹の端を握り、夜叉を見つめた。
「夜叉さま、一夜だけでも、お願いできませんか」
夜叉は部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。
紅葉へ向き直り、首を横に振る。
「申し訳ございませんが、お断りいたします」
紅葉は唇を引き結んだ。
薄絹を握り直し、夜叉へ一歩近づく。
薄絹から、甘い匂いが立った。
「強い方のお子が欲しいのです」
夜叉はその黒い瞳を見返した。
やがて眉を下げ、声を落とす。
「申し訳ございませんが、私には子をなすことができません」
紅葉は目を見開いた。
夜叉の顔を確かめるように見つめ、唇を開く。
「えっ……そ、そうなのですね」
紅葉は俯き、胸元で薄絹の前を合わせ直した。
「それでも、お相手はしていただけませんか」
「……」
夜叉とて、何も感じないわけではなかった。
ここで手を出せば面倒なことになるのは、分かっている。
それなのに、なぜか夜叉は紅葉に口づけていた。
そして、その身体を寝台へ運んでいた。
まるで、自分の意思ではないかのように。
寝台に下ろされた紅葉が、夜叉を見上げた。
灯明の明かりが、薄絹越しに白い肩を透かしている。
夜叉は紅葉の頬に手を添え、もう一度唇を重ねた。
紅葉の指が、夜叉の襟を掴む。
その指が、細かく震えていた。
――何をしている。
頭のどこかで、もう一人の自分が問う。
答えは出ない。
なぜ動いたのか、分からない。
部屋には、まだ甘い匂いが残っていた。
眷属となってから、このような熱を覚えたことはなかった。
唇が首筋へ降りる。
紅葉が小さく息を呑み、目を閉じた。
夜叉の指が、薄絹の合わせ目にかかる。
その時、視界の端を、紫の光がよぎった。
小さな紫色の蛍が一匹、開いた窓から入ってきた。
蛍は灯明の傍をひと回りすると、夜叉の角の先にとまった。
夜叉の手が止まった。
胸の奥に溜まっていた熱が、引いていく。
――闇さま。
角の先で、蛍が一度、明滅した。
夜叉は薄絹から指を離した。
襟を掴んでいた紅葉の指先から、震えが消えている。
目を閉じていた紅葉が、瞼を上げた。
夜叉は身を起こし、寝台を降りた。
紅葉も身を起こす。
「夜叉さま……?」
夜叉は床に膝をつき、頭を下げた。
「申し訳ございません。やはり、できません」
紅葉は薄絹の前を掻き合わせた。
その目が、夜叉の角の先へ向く。
「……その光は」
「迎えの、使いです」
紅葉は唇を結んだ。
寝台の上で、両手を膝の上に重ねる。
「お帰りに、なるのですね」
「ええ。宴が終わりましたら」
夜叉は寝台の掛け布を取り、紅葉の肩へ掛けた。
「お部屋まで、お送りします」
紅葉は首を横に振った。
「いえ。一人で戻れます」
掛け布を胸元で合わせ、寝台から立ち上がる。
戸口で、紅葉は振り返った。
「夜叉さまは、その方を、ずっとお慕いなのですね」
「ええ」
紅葉は頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
夜叉は寝台の縁へ腰を下ろした。
角の先から蛍が離れ、灯明の前をひと回りして、窓の外へ出ていく。
夜叉はその光を目で追った。
――見ておられたのか。
自分の手を見下ろす。
指は、まだ薄絹の感触を覚えていた。
――宮の時間で百年、では済まぬかもしれんな。
夜叉は額を押さえ、長く息を吐いた。
懐の包みに、手が触れる。
昼間、闇を思って選んだ簪だった。
布越しの石が、ひどく冷たく感じられた。




