第九話 簪
三日目の朝、夜叉は寝台の上で目を開けた。
窓から差す光が、床の上で止まっている。
身を起こすと、懐の包みが胸に当たった。
取り出して布を開く。
紫の石が、朝の光を受けて色を深くした。
夜叉は簪を布に戻し、懐へ収めた。
部屋には、もう匂いは残っていない。
それでも、薄絹の合わせ目にかかった指の感触だけは、消えていなかった。
扉が叩かれた。
開けると、白夜が立っている。
結い上げた白髪の下で、眉が寄っていた。
「夜叉、昨夜、闇さまの気配がした」
夜叉は白夜を部屋へ入れ、扉を閉めた。
「ああ。蛍が一匹、来た」
白夜は部屋を見渡した。
寝台の乱れに目を留め、夜叉へ顔を戻す。
「……何があった」
夜叉は寝台の縁へ腰を下ろした。
膝の上で指を組み、昨夜のことを話す。
紅葉が来たこと。
断ったのに、身体が動いたこと。
蛍が角にとまって、止まったこと。
白夜は黙って聞いていた。
話が終わると、額に手を当てる。
「だから、早く帰ろうと言ったんだ」
「分かっている」
白夜は手を下ろし、夜叉の傍へ寄った。
鼻を寄せ、神衣の襟元の匂いを嗅ぐ。
「なあ、何の匂いだ、これ」
夜叉は自分の襟元へ顔を向けた。
昨夜、紅葉の薄絹から立った甘い匂いが、まだ衣に残っている。
「紅葉の、香だろう」
「お前、香で動くほど安い男だったか?」
夜叉は白夜を見上げた。
答えが見つからず、組んだ指に力がこもる。
「……分からぬ」
白夜は夜叉の顔を見下ろした。
眷属になって三百年、白夜は夜叉がそう答えるのを聞いたことがなかった。
「今夜で終わりだ。宴が終わったら、夜明けを待たずに出るぞ」
「ああ」
白夜は扉へ向かった。
戸口で足を止め、振り返る。
「闇さまには、お前が自分で話せ」
夜叉は頷いた。
扉が閉まると、懐の包みへ手を当てた。
――これを、受け取ってくださるだろうか。
その夜、三日目の宴が開かれた。
一日目、二日目とは違い、広間には楽の音も、踊り手の姿もなかった。
王の正面に二人の席が据えられ、重臣たちが左右に並んでいる。
杯を運ぶ者の足音だけが、床を渡った。
白夜は膳の酒へ目を落とし、夜叉にだけ届く声で言った。
「酒屋の酒の方が、うまかったな」
夜叉は答えず、正面を見た。
阿黒羅の隣に、紅葉が座っている。
白と赤の髪は結い上げられ、黒い瞳は膳へ向けられたままだった。
阿黒羅が杯を置いた。
「紅葉、酌をしてやれ」
紅葉は立ち上がった。
酒器を手に夜叉の前へ進み、膝をつく。
差し出された杯へ酒を注ぐ間、その目は酒器から離れなかった。
夜叉は杯を受けた。
紅葉の袖から、匂いはしなかった。
酒器を持つ手が、昨夜の指と同じに震えている。
紅葉は白夜の杯にも酒を注ぎ、王の隣へ戻った。
阿黒羅は二人を眺め、肘掛けに肘をついた。
「夜叉。昨夜は、どうであった」
夜叉は杯を置いた。
膝の上で指をそろえ、王を見る。
「何もございません」
阿黒羅の眉が動いた。
隣の紅葉へ目をやり、夜叉へ戻す。
「何もない、とは。わしの娘では、不足と申すか」
「申し上げたとおり、私どもには心に決めた方がおります」
阿黒羅は背もたれへ身体を預けた。
指が肘掛けを叩く。
「またそれか」
重臣たちの間で、杯を持つ手が止まった。
阿黒羅は身を乗り出し、二人を見比べる。
「ならば、やはりその女を連れてまいれ。そなたら二人が揃って惚れる女だ。さぞ美しかろう」
夜叉の指に、力がこもった。
白夜が隣で、杯の酒を見下ろしている。
その杯の酒に、氷が張った。
白夜は目を見開いた。
灯明が一つ、二つと揺れて消えていく。
広間の床を、黒い霞が流れてきた。
重臣たちが腰を浮かせる。
阿黒羅は肘掛けを掴み、霞の来る方へ顔を向けた。
霞の中に、女が立っていた。
黒髪が背に流れ、濃い紫の瞳が、玉座を見ている。
黒衣の裾が、床の霞を払った。
夜叉と白夜は、席を離れて床に膝をついた。
闇は夜叉と白夜には目もくれず、阿黒羅の前まで進んだ。
「その女とは、私のことか。私が夜叉と白夜の主ぞ」
広間が静まり返った。
重臣たちは腰を浮かせたまま、動けずにいる。
紅葉は王の隣で、膳の縁を掴んでいた。
闇は片手を上げた。
掌に紫色の蛍が一匹生まれ、淡く明滅しながら指先にとまる。
その光が何を消すのか、夜叉は知っていた。
「闇さま、それはいけません」
闇は阿黒羅から目を離さずに夜叉に答える。
「なぜじゃ」
指先の蛍が、ひときわ強く光った。
闇は玉座を見据えたまま、言葉を継ぐ。
「黒竜を倒したのに、鬼神族ごときが私の眷属を呼び止め、毎夜女を寝所に送るのは失礼ではないのか」
闇は紅葉に顔を向けた。
「夜叉から、まだ甘い匂いがする。魅了の法具まで使ったな」
紅葉の肩が跳ねた。
夜叉は床に手をつき、身を乗り出す。
「闇さまが直接、殺めることは駄目です」
「全てを消さないだけましだ」
阿黒羅が肘掛けを掴み、腰を上げかけた。
「何を言っている!」
闇の目が、阿黒羅を捉えた。
「黙れ」
霞が玉座へ流れた。
阿黒羅の足元から膝へ、胸へと這い上がっていく。
王の瞳から、力が失われていった。
開きかけた口がそのまま止まり、肘掛けを掴んでいた指がほどける。
阿黒羅は玉座に沈んだ。
闇の指先で、蛍の光が膨らんでいく。
白夜は立ち上がった。
闇の背後から歩み寄り、その身体を抱きかかえる。
「失礼します」
闇の腕が、白夜の胸を押した。
白夜は腕を緩めなかった。
指先の蛍が一度明滅し、消える。
夜叉も立ち上がり、王の隣で動けずにいる紅葉へ顔を向けた。
「これ以上はここにはおれぬ。王にそうお伝え願おう」
紅葉は唇を震わせ、頷いた。
そうして白夜は闇を抱きかかえたまま、夜叉と共に消えた。
月明かりの差す宮に、三人は降り立った。
黒髪の間から丸い黒い耳が現れ、長い尾が白夜の腕から垂れる。
その耳が、伏せられていた。
睫毛の際に、涙が溜まっている。
「なぜじゃ」
白夜は闇を寝台の縁へ下ろした。
その前に膝をつき、紫の瞳を見上げる。
「あのままにしていたら、大惨事になりかねません」
闇は唇を噛んだ。
膝の上で、黒衣を握り締める。
「……お前らが帰ってこぬから」
声が震えた。
こぼれた涙が、握った手の甲に落ちる。
夜叉は白夜の隣へ進み、膝をついた。
「闇さま、申し訳ありません。昨夜、私は――」
闇は夜叉を見下ろした。
尾が一度、寝台を打つ。
それから身を乗り出し、続きを言わせずに、夜叉の首へ腕を回して口づけた。
唇が離れると、夜叉は懐から包みを取り出した。
布を開き、紫の石の簪を闇の前へ差し出す。
「お土産です。遅くなりました」
闇は簪を見つめた。
伏せられていた耳が、ゆっくりと立った。
「これは?」
「闇さまに似合うと思って、買ってまいりました」
闇は簪に指を触れた。
涙の残る顔が、ぱっと明るくなる。
夜叉は簪を手に取り、闇の黒髪へ指を添えた。
「失礼します」
紫の石の簪が、黒髪に挿し込まれた。
隣で見ていた白夜が、口元を緩める。
「お似合いです」
闇は鏡の前へ移り、顔を斜めに傾けて、髪に光る石を眺めた。
何度も角度を変えては、指先で簪に触れる。
「夜叉、ありがとう」
鬼神族のことなど忘れたかのように、長い尾が大きく揺れていた。
夜叉と白夜は顔を見合わせ、そろって安堵の息を吐いた。




