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夜叉と白夜 〜闇に仕える二人の鬼神〜  作者: ななお


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第十話 茨木

宮に戻ってから、幾晩かが過ぎた。

闇は夜叉の傍を離れず、黒髪には紫の石の簪が挿されたままだった。

夜叉が髪を撫でれば、長い尾が寝台の上でゆるく揺れる。


白夜《びゃくや》は窓辺に腰を下ろし、二人から目を外した。

月はいつもと同じ高さにかかっている。

星も、一つとして動いていない。


鬼神族の国の市が浮かんだ。

菓子を見つけた子どもが、母親の袖を引いていた。

その小さな手に、別の重さが重なる。

抱き上げた息子の重さだった。


白夜は自分の掌を見下ろした。


――茨木《いばらぎ》。


名を呼んでも、胸を刺すものはなかった。

眷属となってから、地上で抱いていた思いは理の流れに沈んでいる。

それでも、記憶だけは消えずに残っていた。


眷属となって、三百年。

路地で別れた時、茨木はまだ青年だった。

眷属となった頃には、二百歳ほどになっていたはずだ。


白夜は顔を上げた。


「闇さま」


闇が夜叉の胸から顔を上げる。


「なんだ」


「水鏡で、見せていただきたい者がおります」


闇は身を起こし、首を傾けた。


「誰だ」


「茨木です。私の息子でした」


闇の耳が動いた。

白夜の顔をしばらく見つめてから、掌をかざす。

月明かりの中へ、水鏡が開いた。


映ったのは、薄暗い部屋だった。

寝台に、年老いた鬼が横たわっている。

頬はこけ、掛け布の上に出た手には深い皺が刻まれていた。

胸が上下するたび、喉の奥から細い息が漏れる。


白夜は水鏡の前へ進んだ。

その顔に、路地で自分を拒んだ青年の面影を探す。

眉の形が、残っていた。


「……茨木」


夜叉も寝台を降り、白夜の隣に立った。

水鏡を覗き込み、眉を寄せる。


「長くはないな」


白夜は頷いた。

水鏡の中で、茨木の指が掛け布の端を掴んでいる。


白夜は闇へ向き直り、膝をついた。


「闇さま、地上へ降りることをお許しください」


闇の尾が止まった。


「また行くのか」


「一度だけです」


闇は簪に指を触れた。

夜叉の袖を掴み、白夜を見下ろす。


「会わぬ方がよいと、言ったであろう。相手は年を取る。残酷なことだと」


白夜は闇の目を見返した。

二百歳の自分に、闇はそう告げた。

あの時は、その意味が分からなかった。


「それでも、会いたいのです」


闇は唇を結んだ。

睫毛の際が濡れていく。


夜叉は闇の手を取り、膝をついた。


「闇さま。宮での一晩は、地上の数か月です。ここで迷っている間にも、茨木の時は過ぎていきます」


闇は夜叉の顔を見た。

それから水鏡へ目を移す。

茨木の胸が、浅く上下していた。


「……すぐに戻れ」


白夜は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


立ち上がった白夜へ、夜叉が顔を向けた。


「一人で行けるか」


「ああ」


白夜は刹那《せつな》を腰に差し、水鏡の前に立った。

映る茨木の顔を、もう一度だけ確かめる。

月明かりの部屋が、目の前から消えた。


次に現れたのは、茨木の前だった。


薄暗い部屋に、薬草を煎じた匂いがこもっていた。

寝台の上で、茨木が目を開けた。

皺の刻まれた顔が、白夜へ向く。

その目が、大きく見開かれた。


路地で別れた日の父と、同じ顔だった。

白い髪も、赤い瞳も、二本の黒い角も、あの日のまま変わっていない。


茨木の唇が震え、かすれた声が漏れた。


「あの男の子どもか孫か?」


白夜は口を開きかけ、閉じた。

寝台の傍に立ったまま、茨木の顔を見下ろす。


「ああ」


茨木は掛け布を押しのけ、身体を起こそうとした。

痩せた腕が寝台を探り、肘が崩れる。


「あの男も、別に家族を持ったのだな。よかった」


白夜は寝台へ歩み寄った。


「祖父のもう一人の息子が、どんなやつか見に来た」


茨木の背へ腕を回し、身体を起こすのを手伝う。

掌に伝わる背は、骨が浮くほど薄かった。

かつて抱き上げた時の重さとは、比べものにならない。


白夜は茨木の背に枕を当て、その顔を覗き込んだ。


「よかった、とは? 祖父からは、息子に追い出されたと聞いた。それも当然だ、と言っていたが」


茨木は窓の方へ目を向け、子どもの頃の父を思い返した。


「ああ、あの時はろくに事情も聞かずに追い出してしまった」


掛け布の上で、茨木の指が端を握った。


「父は何か言いたげだった。子どもの頃の記憶しかないが……」


言葉が途切れ、茨木は浅く息を継いだ。

皺の寄った目元が、白夜へ戻る。


「今考えると、あの実直な父が母を置いて、他の女とどこかに消えるはずなかったのだ」


白夜の腕が、茨木の背で止まった。

路地で「……私は」と言いかけたまま続けられなかった言葉を、白夜は覚えていた。


白夜は茨木の手を取った。

節の浮いた指は冷たく、握り返す力もない。


「祖父は、さらわれたのだ。帰りたくても、帰れなかった」


茨木の目が、白夜の顔の上で止まった。


「さらわれた……?」


「ああ。人ならざるものに魅入られて、気づいた時には二十年が過ぎていたと」


茨木の唇が開いた。

声にならないまま、喉が上下する。


「……そうか」


茨木は枕に頭を預け、天井を見上げた。

目尻から涙が一筋、皺の間を伝っていく。


「探しても、見つからぬはずだ」


白夜は答えず、握った手にもう片方の手を重ねた。

茨木は、かすれた声で続けた。


「母さんにも、教えてやりたかった」


茨木は白夜の顔へ目を戻した。


「あの男は、幸せだったか」


白夜は茨木の目を見返した。

幸せだったかと問われても、眷属となった身に、その答えはない。

それでも、偽りなく言えることが一つだけあった。


「ああ。お前のことを、ずっと覚えていた」


茨木の口元が緩んだ。

目を閉じ、細く長い息を吐く。


「それなら、いい」


茨木は目を開け、白夜の顔を眺めた。

皺の間で、目尻が下がる。


「それにしても、父に似ている」


「よく言われた」


二人は苦笑した。

茨木の笑いが咳に変わり、白夜はその背をさすった。


咳が収まると、白夜は枕の位置を直した。


「あの後、母君はどうされたのだ?」


茨木は天井へ目を戻した。


「母は、父がいなくなってから十年、泣き続けた。それから、ある男と出会って、一緒になった」


戸口で別の男を見送っていた女の顔が、白夜の脳裏に浮かんだ。

あの日、その唇は「あなた、行ってらっしゃい」と動いていた。


「そうか。幸せだったのだろうか」


「ああ、少なくとも私にはそう見えた。結婚後は、父の話は一切出なくなった」


白夜は頷いた。

あの笑顔を、自分の目で見ていた。


それから数日、白夜は茨木の傍にいた。

水を含ませ、背に枕を当て直し、夜は寝台の傍らに座って過ごした。


茨木は目を覚ますたびに、少しずつ話をした。

母のこと、継父のこと、自分が歩いてきた五百年近い歳月のこと。

白夜はその一つ一つに相槌を打ち、時には祖父の話をして聞かせた。

作り話の中に、本当のことを少しずつ混ぜながら。


三日目の夜、茨木の息が浅くなった。

灯明の明かりが、こけた頬に影を落としている。


茨木は薄く目を開け、白夜を探した。


「……そういえば、名を聞いていなかった」


白夜は茨木の手を取った。


「白夜だ」


「白夜……」


茨木は、その名を口の中で繰り返した。


「いい名だ」


茨木の口元が緩んだ。

握った手から、力が抜けていく。

胸の上下が、間遠になった。


白夜は、その手を握り続けた。

やがて、茨木の胸は動かなくなった。


――胸は、痛まない。


白夜は茨木の手を、掛け布の上に戻した。

皺の刻まれた指を揃える。

かつて抱き上げた子の手は、温もりを失い始めていた。

それでも白夜は、夜が明けるまで、その傍を離れなかった。


それから白夜は、離れて暮らす茨木の子どもたちに、茨木の死を知らせた。

数日後、茨木の葬儀が営まれた。

白夜は列の端に立ち、運ばれていく棺を見送った。

前に並ぶ幼い子が、母親の袖を引いている。

その小さな手に、白夜はもう一度だけ目を留めた。


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