第十一話 約束
白夜は宮に戻ってきた。
宮には、変わらず星と月が瞬いていた。
地上で過ごした数日も、ここではひと時にすぎない。
白夜は部屋に入り、礼を取った。
「闇さま、お許しをいただき、ありがとうございました」
闇は夜叉の膝に頭を預けたまま、目だけを白夜へ向けた。
「よい」
長い尾が、寝台の上でゆるく揺れている。
黒髪の間で、簪の紫の石が光っていた。
闇は機嫌が良さそうだった。
白夜は夜叉へ目を移した。
神衣の襟元が乱れ、結い目のほどけた黒髪が肩に落ちている。
夜叉に散々ねだったのだと、ひと目で分かった。
夜叉は白夜の視線に気づき、襟元を合わせ直した。
白夜は口元を緩め、その傍へ腰を下ろした。
「ところで、夜叉、黒竜が元眷属だった話は報告したのか?」
夜叉の手が、襟元で止まった。
「いや、まだしていない」
闇が夜叉の膝から顔を上げた。
「どういうことだ?」
夜叉は姿勢を正し、闇へ向き直った。
「黒竜は、堕ちた者でした」
闇の耳が立った。
「そうなのか」
夜叉は頷き、白夜へ目をやった。
白夜は、首を断ったあとに現れた男のことを話した。
黒い髪と黒い瞳をしていたこと。
止めてくれてありがとうと言い残し、黒い粒子になって消えたこと。
夜叉は闇の顔を窺った。
「どなたのかはお分かりに?」
闇は首を横に振った。
「姿を見ていない、分からぬ。ただ全員に知らせておこう」
闇の宮に、四つの水鏡が開いていた。
それぞれの鏡面に、他の柱の姿が映っている。
光、命、空、大地。闇と並んで、この世の理を預かる柱たちだ。
闇は四つの水鏡を見渡した。
「夜叉と白夜が倒した黒竜は、堕ちた眷属だった。誰の眷属だったかは、分からぬが」
一つの鏡の中で、光が顔を上げた。
闇を見返し、眉を寄せる。
「それは、私のだ。竜族の眷属だった。堕ちたので封印していた」
命は顎へ手を添えた。
光から闇へ目を移し、指先で顎を撫でる。
「眷属とする種族を絞った方がいいかもな。竜族や鬼神族は、堕ちて負の感情が強く出ると、封印するか倒すしかない。厄介だ」
闇は眉をつり上げた。
命の映る水鏡へ身を乗り出す。
「そんなことはない! 堕ちなければいいのだ」
命は顎から手を下ろし、闇と向き合った。
「そうは言っても、堕ちるのも理の一部なのだぞ」
闇は唇を引き結んだ。
乗り出していた身体を戻し、手元へ目を落とす。
「……私は鬼神族が好きなのだ」
命の眉間が緩んだ。
俯いた闇へ、片手を差し向ける。
「今すぐどうこうではない」
闇は顔を上げ、命の顔を確かめた。
やがて小さく頷く。
「分かった」
五柱の話し合いが終わると、闇は四つの水鏡を閉じた。
振り返った先には、夜叉と白夜が並んで立っていた。
闇は夜叉へ歩み寄り、その胸に顔を埋めた。
胸元の神衣を掴み、身体を寄せる。
「なあ、夜叉も白夜も堕ちないよな。私を置いて、どこかに行かないよな」
夜叉は闇の背へ腕を回した。
胸に押しつけられた顔を見下ろし、その身体を抱き寄せる。
「当然です」
闇は顔を上げた。
神衣を掴む指に力を込め、紫の瞳で夜叉の目を覗き込む。
「本当だぞ」
夜叉はその眼差しを受け止め、闇の背を撫でた。
「大丈夫です。闇さまを一人にはいたしません」
闇はもう一度、夜叉の胸へ顔を埋めた。
神衣を握っていた指が緩み、夜叉の背へ腕が回った。
白夜は、何も答えられずにいた。
闇は、その白夜も引き寄せた。
夜叉に口づけ、それから白夜にも唇を重ねた。
闇を慰め、やっと闇を寝かせた。
柱や眷属に睡眠は要らないが、心の安定を図るために寝る事がある。
宮の廊下を歩いていた夜叉は足を止め、隣の白夜へ顔を向けた。
「なあ、私が堕ちて、自分を抑えられなくなったら、白夜、お前が私を斬ってくれ」
白夜も足を止めた。
夜叉の顔を見つめ、目を見開く。
「そ、そんな約束はできない!」
夜叉は白夜と向き合った。
驚きの残る赤い瞳を見返し、声を落とす。
「他の眷属に斬られるのは嫌だ」
白夜は眉を寄せた。
夜叉の腕へ手を伸ばし、その袖を掴む。
「それに、堕ちるって……お前は堕ちないだろう」
夜叉の口元が緩んだ。
「ははっ。万が一だ」
白夜は掴んだ袖へ目を落とした。
指の間で衣に皺が寄る。
やがて顔を上げ、夜叉を見据えた。
「では、私が堕ちた時も、夜叉、お前が斬ってくれ」
夜叉は白夜の手に、自分の手を重ねた。
「ああ、ちゃんと斬ってやる。だから、堕ちるな」
重ねた手で白夜の手をひとつ叩き、夜叉は笑みを収めた。
「だが、堕ちた者でも、普通に暮らしている者はたくさんいる」
白夜は袖を掴んでいた手を離した。
黒竜が吐いた炎と、最後に現れた男の顔が脳裏に浮かぶ。
あの男も、かつては自分たちと同じ眷属だった。
「何が違うのだろうな?」
夜叉は腕を下ろし、白夜へ向き直った。
「堕ちた時の感情に左右されるとは聞いている」
白夜は眉間の皺を深めた。
男の頭を支えていた掌へ目を落とし、指を曲げる。
「世界を憎むほどの感情とは、どんなものなのだろうな」
夜叉は口元を引き結び、廊下の先へ目を向けた。
「分からぬ」
やがて夜叉が歩き出した。
白夜も下ろした手を開き、その隣へ並んだ。
歩きながら、白夜はあの男の黒い瞳を思い返していた。
竜族の眷属だったという。
「人族でない眷属は、どれほどいるのだ?」
「命さまのところに竜族が一人、空さまのところに鬼神族が一人。あとは我らだけだ。天零は人族にはよく生まれるが、ほかの種族には稀にしか生まれぬ」
白夜は少し考えた。
「あとは、獣か」
夜叉は肩をすくめた。
「獣はなあ。話は通じるが、地上の務めは難しいと聞く。それに、言霊が唱えられん」
白夜は思わず吹き出した。
「それは、そうだろうな」
しばらく笑ってから、白夜は顔を上げた。
「鳥ならどうだ? 言葉を真似る鳥もいる」
「どうだろうな。聞いたことがない」
言葉を真似る鳥が言霊を唱えるところを思い浮かべ、二人はまた笑った。
笑い声が、廊下の静けさに溶けていく。
白夜は、隣を歩く夜叉の横顔を見た。
――竜族や鬼神族は、封印するか倒すしかない。
命の言葉が、耳の奥に残っていた。
夜叉は前を向いたまま、いつもと変わらぬ足取りで歩いていく。
二人の足音が、廊下の奥へ続いていった。




